第27回 「ありがとう」と遅れて来た男

 洋人の言葉に少しの間沈黙していた佐久間は、ようやく短い一言を発した。その声は囁くように小さく、矢野主将と俺には聞き取れなかった。



 やがて出発ゲートをくぐる佐久間を見送り、こちらを振り返った洋人の顔を見て、俺はかけるべき言葉を失った。


「先生、これで」

 矢野主将が白いハンカチを洋人に差し出した。

「拭いて下さい」


「何を?」


 きょとんとして洋人が訊き返した。


「涙を」

「俺、泣いてる?」

「ええ」


 矢野主将の頷きに洋人ははっとした様子で顔に手をやり、濡れた指先を見つめた。


「そうか。……ありがとう、矢野くん」


 ハンカチを受け取り、瞼を押さえる洋人の肩が震えていた。


 その涙の意味を、俺は知りたくない気がした。

 もしかしたら、洋人自身でさえはっきりとわからないのかもしれない。

 おそらくは胸に去来するいくつもの想い。それは、実の父への惜別と愛慕の念であったり、父が母と自分を捨ててまでも真実の愛を貫き、生涯を共に生きたいと願った相手への、おのがDNAに投影された記憶の残滓だったりするのだろうか。


 ハンカチを差し出した矢野主将にも思うところがあるに違いない。

 温厚な主将が珈琲店カフェで見せたあの激しい怒りは、到底自分が果たし得ない理想を実現させた洋人の父と佐久間卓への羨望の裏返しだったのではないだろうか。彼らの生き方は、将来の矢野財閥を担う主将には決して許されるものではないから。


 哀しくて切ない。

 こんな想いを抱えて、人は生きていくしかないのか。それでも、一所懸命に。


「帰ろう」

 涙を拭いて、ことさら明るい声で洋人が言った。

「明日、病院に行って鐘古先生にお墨付きをもらったら、いよいよ復帰だ!」


「それは良かったです。皆も喜びます。監督がいない二週間は長かったです」

「迷惑かけてすまなかった。待たせたな、キャプテン、亜斗里」

「ええ、待ちくたびれましたよ」

「もうあんまり無理するなよ。年なんだからさ」

「なんだと!? 亜斗里、おまえ全世界の二十二歳に謝れ!」

「それ、俺が以前まえ言った」

「そうだっけ?」

「忘れてんじゃねぇよ!」


 すっとぼける洋人の尻に蹴りを入れてやった。


「監督と龍くん、本当に仲良し兄弟なんですね」


 矢野主将があきれながら笑っていた。


「キャプテン、いつも亜斗里のこと助けてくれてありがとう。俺も助けられている。心から感謝しているよ。亜斗里、いい先輩を持ったな」

「うん。つくづくそう思うよ。キャプテン、いつもありがとうございます。俺もヒロ……監督も、こんなだけど、これからもよろしくお願いします」


 いろいろあっても、やはり俺は矢野主将を嫌いになれない。むしろ、その人間性に惹かれている。


「こちらこそ」


 そう応えた矢野主将の笑顔がいつにも増してさわやかに、輝いて見えた。


「キャプテンも、何かあったら遠慮なく俺に相談してくれ」

「はい。ありがとうございます」

「なんだか今日は『ありがとう』のオンパレードだ」


 俺がそう呟くと、洋人が言った。


「感謝できることがたくさんあるって、いいよな」

「いいですね」


 矢野主将が相槌を打った。


 そうか。

 俺はようやく気づいた。あの時、聞き取れなかった佐久間卓の返答は……唇のあの短い動きは、『ありがとう』と言っていたのだということを。




 * * *




 ついに洋人が監督復帰を果たした。

 

 ブランクを全く感じさせない熱血指導に俺たちはついて行くのがやっとながらも、少しは成長した姿を見せようと、全員張り切って練習に臨んだ。

 自然と高まる士気に昂揚感が増す。ここから巻き返しだ!


 洋人の復帰を聞きつけ、多くのギャラリーも集まって来た。

 甲子園での華々しい活躍から五年が経とうとしているが、未だヒーローの人気は衰えない。義弟の俺としては鼻が高い。実際、洋人は高校生の頃よりも格段にいい男になっている。普段から見慣れているはずの俺でさえ、義兄の美貌にはドキッとさせられるほどだ。



 そんなある日。


 放課後の練習が始まろうとしている時、桔梗様が一人の男子生徒を伴って現われた。

 

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われら百合ヶ丘高校野球部! ブロッコリー食べました @mm358

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