第6話 二十年後、お迎えバス ――そして再会

「手はつくしました。後はご本人の生命力次第……」


 声がする。手はつくしたって? ああ、手術が終わったってことね。でも、私の体は動かない。このまま死んでしまうのだろうか。


「ママ」


「凛、凛」


 どこからか、幼い娘と夫の声がする。

 そうだ、たしか……、いつも買い物をするスーパーにトラックが突っ込んだんだ。私はとっさに娘をかばって、トラックに轢かれた。

 ごめんね。ママは、貴方たちを置いてゆくことになるかもしれない。だって、体がふわふわして、感覚がない。もう、痛みも感じない。これって、死が、近づいている証拠……。


 ん? 何か目の前に見える。あれは、バス? おかしいな、私は病院のベッドにいて、動けないはずなんだけど。確かに


 覚えてる。

 お迎えバスだ。

 あれに乗って、降りるべき場所で降りれば、生き延びられる。助かるんだ。

 私は子供のころ、このバスをそうやって利用した……。

 その途中、おかしな子に会った。

 名前は、確か、はるひ。



 ――私の母はおかしかった。父と別れたからおかしかったのか、おかしかったから父が離れて行ったのかは分からない。酒を飲んでは妄想と現実の区別がつかなくなり、私を殴った。

 母は、私が学校で交友関係を結ぶことを禁止した。外にいるのはみんな悪魔なんだからと、相手にしないようにしなさい、関心を持たないようにしなさいと言った。私は殴られたくないので言うとおりにした。というか、あまり学校に行っていなかった。

 五年生になると、児童相談所があいだに入り、私は学校に通えるようになったけれど、家に帰ってから母の暴力は増した。


 今日一日生き延びられるかどうかが分からなかった。

 今日殴られて死ぬかもしれない。

 今日首を絞められて死ぬかもしれない。

 今日バスタブに沈められて、死ぬかもしれない。

 そんなとき、一台のバスが現われた。

 お金なんて持ってなかったけれど、私はまるで助けを求めるかのようにバスに乗った。

 そして、分かったことは、自分が降りるべき場所で降りれば、お母さんの機嫌がよい、ということ。バスに乗れば、お母さんに殺されずに済む。生き延びられる。


 その後私は六年生になり、電話をする母の様子から、父が私を引き取りたいと思っていることを知る。

 願ってもないことだけれど、母は私を手放す気がないらしい。

 私はひたすら待った。

 バスに乗り、今日一日を生き延びながら、父が迎えに来る日を待った。

 もう私にはそれしか希望がなかった。

 長い間母の支配下にいた私には、自分で道を切り開く力なんてなかった。


 そんな日々の中、春日、というクラスメイトに出会った。なぜか私に関心があるらしく、しきりに話しかけてくる。私は母の言いつけを守って、クラスの誰とも仲良くせず、何にも関心を持たないをして、父親の助けをひたすら待っている最中だっただけだ。

 五年生のときに私がしたことを感謝しているようだけれど、あんなの、母がお酒を飲みすぎて吐いていたのをよく片付けていたから、それと同じように片づけただけだ。


 春日は、何にもをしている私を、自分と同じだと、勘違いしたようだ。

 彼女はどこかおかしかった。

 私の手首をつかんだ彼女は、とにかく恐ろしかった。

 話が通じない、と思った。彼女に心底恐怖を覚えた。


 私はなんとか春日から逃げ、自分が降りるべき場所でバスを降りた。

 その日、とうとう父親が私を迎えに来た。


 あれ以来、春日とは会っていない。もう二十年前のこと。

 春日はあの後どうしたんだろう? あの後、一人、バスに乗って……。




 バスが目の前に止まって、乗車口が開く。


 ああ、私はまた、生死の境にいるのね。


 バスのステップに足をかけ、ゆっくりと、懐かしむようにバスに乗る。


 音もなく、扉が閉まる。どこに座ろうか。見回すと、一番後ろの席に、


 春日がいた。あの日のまま。


 わずかな振動がして、バスが発進する。

 本来なら三十二歳になっているはずの春日は、あの日の姿のまま、一番後ろの座席にもたれかかっている。目は虚ろで口を半開きにして、足をだらしなく投げ出している。


「凛ちゃん、わたしと、どこまでも行こう」


 そう言ったあの日の春日は、私のすべてを飲み込みそうで、食らいつくしそうで、引きずり込みそうで。

 彼女は、私に何を求めていたんだろう?


「ママ、死なないで」


「凛、凛、目を覚ましてくれ」


 娘と夫の声がする。

 彼らの声が、今の私を私へと確立させてくれる。

 今の私は待っているだけの私じゃない。彼らのもとへ、生きて帰るには……。

 多分、春日は私に気が付かないだろう。私はあのときよりだいぶ年をとっているし、なにより春日は「ふりをしていた」私に興味がない。

 未だに、透明な壁に、囲まれているのかな。


 とにかく、今の私に迷いはない。

 私の降りるべき場所で、バスを降りる。生と死のはざまを抜け出して、愛する家族のもとへ帰る。



 それだけだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

お迎えバス ふさふさしっぽ @69903

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説