第5話 期待ハズレ
「春日、何言ってるの」
凛は春日の不可解な言葉に、顔を歪めた。
「何って? 言ったとおりだよ。わたし、凛ちゃんとこのままどこまでも行きたいの」
バスが停車して、サラリーマン風の若い男性が降りる。発車する。春日は凛の細い手首を掴んだ。
「離して」
「どうして」
「どうしてって……」
春日と凛は、しばし固まったまま、見つめ合う。
バスが病院の前で停車した。夕焼けを綺麗ね、と言った中年の女性と、優先席に座っていた高齢の男性が、バスを降りるために立ち上がる。
「今日もお互い生き延びられましたな、奥さん」
「ええ。バスに乗っていれば、生き延びられる。辛い闘病生活も、頑張れる」
「不思議なバスですな」
その会話を耳にした春日は、おや、と思う。
そうか、そういう考え方もあるのか。
自分の降りるべき場所できちんと降りれば「死」を回避できる。
そういう意味ではこのバスは「貴方は今、死ぬか生きるかのラインにいますよー、乗っていきなさい、そうすればそのラインを回避してあげますよーっていう、救済バスでもあるんだ。闘病中とかで、自分が生死のラインにいると自覚している人は、進んで乗るってわけか。
「そう……バスに乗れば、生きていられる」
凛は呟き、春日の手を振り払おうとした。春日は手に力を込め、離すまいとした。
「凛ちゃんは生き延びたいの? いつ死んでもいいんじゃなかったの?」
「あのときは、その場のノリで、言っただけよ……」凛はバツが悪そうな顔をした。「と、とにかく、離してよ、春日。もうすぐ私の降りる場所だから」
バスが止まった。音もなく降車口が開く。
「ここ、凛ちゃんの家の前?」
「そうだよ。私の降りる場所。お母さんが待ってるから、じゃあね」
凛は今度こそ、春日の手を振り払おうとした……が、春日は離さない。
「凛ちゃん、明日もこのバスに乗ってくれる? 明日、わたしと一緒に……」
「嫌よ! あんたおかしいんじゃないの、私は死にたくないからこのバスに乗ってただけ」
凛がそう言った瞬間、春日はあっけなく手を離した。突然だったので、凛は反動で後ろに尻もちをついた。
「お客さん、降りないんですか。発車しますよ」
運転手が初めて口を聞いた。抑揚のない、間延びした声だ。
「ま、待って、降りる、降ります、待って!」
凛は立ち上がろうとしてよろけ、またその場に転ぶ。結局座席につかまりながら、這うようにして一番前の降車口へたどり着いた。
よろよろと、頼りない足取りで、バスを降りていく。
凛がバスを降りた直後、バスは音もなく発進した。
春日は一番後ろの座席に座ったまま、宙を見つめていた。
その目は、もう何にも見てはいない。
凛がどこへ行こうと興味はない。
透明な壁の向こう側がどうなろうと、知ったことじゃない。
わたしと同じだと、思っていたのに。
どんな理由で死にたくないのか知らないけれど、凛はこの世界に実感があるんだ。怒ったり、慌てたり、オロオロしたり……普通の女の子。
別にガッカリしたとかじゃないけどね。
「期待ハズレ」
春日は一人呟く。
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