見えない扉

月井 忠

第1話

 子供が奇妙なことを言う。

 妻は皿洗いをしながらそう言った。


 何もない所を指さして扉があると言うのだそうだ。

 子供は皆そういうものだと私は返した。


 皿洗いを終えると、妻は手を拭きながら私の目を見る。

 それなら、私が子供の面倒を見るので、家事は代わりにやってくれるのかと。


 だから、私はこうして子供と一緒に座って、おもちゃをいじっている。

 扉はまだ出て来ないようだ。


 初めに子供に扉のことを聞いてみたところ、そうなの? と逆に聞かれてしまった。

 忘れてしまったのか、あるいはとぼけているのか。


 その現場に居合わせる必要があると思った。


 はたと気づく。


 もしかして、妻が私に子供の面倒を見させるための嘘なのでは。


 リビングを見回すが妻はいない。


 共働きだが、妻は休日、家事に追われている。

 嘘だとしても、引き受ける義務があるように思えた。


「パパ、扉」

 座ったまま子供は、目の前を指さしていた。


「ずいぶん、ちっちゃいんだね」

「ちっちゃいの?」


 こちらを見て、不思議そうな顔をしている。


「かもしれないね。その扉、開けたことあるの?」

「うん、開けた」


「扉の向こうには、何があったの?」

「男の子」


 ぎょっとした。


 扉の幻だけなら害もなさそうだが、向こうに人がいるとなると事情は変わる。


「その子と何か話したの?」

「うん、いっぱい、お話した」


 ニコニコと笑っている。


「危ないかも知れないから、扉の向こうに行っちゃダメだよ」

「どうして?」


「うーん。扉が閉まったら、帰ってこれないかもしれないから」

「うん。わかった……あ、なくなっちゃった」


 子供は扉があったかもしれない場所に手を伸ばし、バタバタと上下に動かしている。

 注意はできたが、果たしてこれでいいのだろうか。




 少しして両親が家にやってきた。

 夜の間、両親に子供の面倒を見てもらう約束になっていた。


 一応、子育ての先輩にアドバイスをもらった方がいいかもしれない。


「ああ、言われて思い出したけど、あんたも子供の頃そんなこと言ってたわよ」

「俺が?」


 母から知らされたのは意外な真相だった。


 一時期、私も扉があるとしきりに言っていたそうだ。

 放っておいたら言わなくなったので、聞かれるまで忘れていたということらしい。


 自分にその記憶はない。


 不思議なこともあるものだと思う一方、やはり子供特有の現象なのかとも思った。


 また、それほど心配する必要もなさそうだった。

 扉の向こうに引きずり込まれ、異界に連れ去られるということはないのだろうから。


 私が今ここにいるのがその証明になる。


 しかし、扉の向こうで子供がいたというのが引っかかった。




 ちょっとした思いつきだった。


 子供にスマホの画面を見せる。


「扉の向こうで会ったのって、この子?」

「うん、この子。いっぱい、お話した」


 ぎょっとした。


 スマホに映っているのは幼い頃の私だった。


 母に私の子供の頃の写真はないかと言うと、あるとのことだったのでスマホを借りた。


 子供の言う事を信じるなら、扉の向こうにいたのは私だ。

 私は子供の頃、扉があると言っていたらしい。


 時間を超えて、二人が会っていたということなのか。




「それじゃ、行ってくるね」

「バイバイ」

 母に抱かれた子供に手を振る。


「すいません、お願いします。お義父さん、お義母さん」

 妻は何度もお辞儀をした。


「いいのよ。楽しんできなさい」


 妻と私は二人して駐車場に向かった。


「それで、何を話してたの?」

 助手席に座ってから妻が聞く。


「ああ、あの扉の話」


 店に向かう間、経緯を妻に話した。


「なんか、不思議な話ね」

「ああ、そうだね」


「でも、私だけ仲間外れみたい」

「それなら、聞いてみれば? 案外、君とも会っているかもよ」


「それもそうね」


 ちらっと助手席の妻を見ると、微笑む横顔があった。

 案外、人の縁というのはこういうものなのかもしれない。


 大人になって扉は見えなくなってしまった。

 しかし、扉はどこにでもあるのだろう。


 気づかぬうちに扉を開け、その向こうの誰かに会っているのかもしれない。

 当然、妻ともそこで出会っていたはずだ。


 予約した店は、後少しだった。

 今日は七回目の結婚記念日だった。

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見えない扉 月井 忠 @TKTDS

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