キープレフト 🏂

上月くるを

キープレフト 🏂





 カフェの外の道をシニア女性に連れられた真っ黒なラブラドルレトリバーが行く。

 しつけが行き届いていると見え、弾んで歩きながらも決して飼い主の前へ出ない。


 うちのミックスくんはちがった、だからといって物覚えがわるかったのではない。

 飼い主がちゃんと教えなかったから……というかその意義を見出せなかったから。

 

 


      🐕 

 



 小説サイトに登録している人は多かれ少なかれ過去や現在の自分と対峙している。

 今朝、とくにそう感じたのは、自身の内面を吐露した作品が多かったからだろう。


 おのれという存在に寸分の疑いも抱かない人たちは表現世界と無縁でいられるが、自身の在り方の可否を問いつづける人は、ときに深夜のベッドが煩悶の河床になる。


 ひふみも典型的なそのひとりで、あのとき、このとき、なぜもっとうまく対処できなかったのか、さまざまな場面で完璧でなかった自分を責めさいなんで朝を迎える。





      🍃⛄🌟🌺





 大学二年生の夏休みに、某劇団専属の大道具会社の事務作業のバイトに雇われた。

 いや、ちょっと格好をつけてみたが、正確に言えば、その労働組合事務所に……。


 芸能界なんて初めてだったし、分けてもアングラ劇団は若い世代憧れの最先端で。

 勢いこんで出勤してみたら、トイレの匂いが漂う労組事務所の地味ぶりに驚いた。  


 でも、こういう仕事に就いているんだから意識高い系の人ばかりだろうと思い直したが、現実は甘くなく、ひと口に大道具といっても、美術系と技術系があって……。


 いわば絵描き崩れと大工あがりの対立で労組事務所の空気はいつも尖がっていて、その両派のボスに交互または同時に入室されるとバイトのひふみまでピリピリした。


 四六時中、酒の匂いをさせている絵描き崩れの委員長の出勤は決まって昼過ぎで、それが気に入らない大工あがりの書記長は、その時間を狙って事務所へやって来る。


 たいていはふたりとも無言だが、たまに口を開けば必ず皮肉の手裏剣が飛び交い、うつむいたひふみは、内心で腰に七つ道具を下げた大工の棟梁に軍配をあげていた。


 


      🖼️




 居心地のよろしくない日を重ねるにつれ、両ボスの性格や私生活も分かって来た。 

 平凡な家庭を営む大工に対して、薄い頭髪をベレー帽で隠した絵描きは放蕩三昧。


 給料の一部は労組の組合費から出ているようだが、まったく働こうとせず、むしろ大工の真面目を揶揄からかうように重役出勤して来るベレー帽を、若いひふみは軽蔑した。


 で、事務仕事の暇をさいわい、やり場のない憤懣を大学ノートに綴り始めたのだ。

 最初はメモ書き程度だったが、しだいに珍獣の観察日記風(笑)になっていった。


 

 ――〇月✕日 ベレー帽は昼過ぎに出勤、お茶を煎れさせて新聞を読んでいたが、まだ日の高いうちに、取引先との約束があるとかなんとか言って退社。恥知らずが。


 ――〇月✕日 判で押したような勤務状況だが、あれでよく良心が痛まないもの。

 高い組合費を払っている人たちに専従委員長の実態を言いつけてやりたいくらい。


 ――〇月✕日 バーだかスナックだかの、ママだかホステスだけに入れあげているらしい。組合費の一部もそっちへ流れていることになる。腐った大人の代表である。




      🌃




 最初のうちこそ用心していたが、そこは大学生、しだいに脇が甘くなり、ある朝、出勤してみると、般若とはこういう顔かというような顔をした委員長が待っていた。


 ねちねち、ねちねち……いまではセクハラ用語だが、女の腐ったようなやつとは、ああいうのを言うのだろう、机のなかを見たとは言えないから、執拗に甚振られた。


 翌日、ひふみは某アダルト劇団専属大道具会社労組事務所を堂々と無断欠勤した。

 大学の掲示板でつぎのバイト先を見つけると、自分が招いた失態は早々に忘れた。


 


      🍃⛄🌟🌺




 それから数十年後、あのベレー帽委員長と同じ年齢に至ったひふみは、とある深刻な事情から、目がまわりそうに巨額の負債を抱える小さなタウン誌を経営していた。


 自分で作った負債ではなかったが、連帯保証人の責務はどこまでもついてまわる。

 一刻も早く返済をと焦れば、かなり荒っぽいことにも手を染めねばならなかった。


 当然の結果として、こんな社長にはついて行けないという、離反組みが出現した。

 そのうちのひとりの運転する車に乗って、出先から事務所への帰路のことだった。


 いつもどおり世間話をする助手席のひふみに、運転者はいっさいの返答を拒んだ。

 うんでもすんでもなく、顎を上下させ相槌を打つことすら損だとでもいうように。


 翌朝、出勤したスタッフは真直ぐ社長席にやって来ると、白い封筒を差し出した。

 一身上の都合により……型通りの文言を読む脳裡を、ベレー帽委員長が過ぎった。


  


      🐕 


 


 さっきの黒ラブがもどって来て、長い尻尾をぶんぶん振って楽しげに歩いて行く。

 専門のドッグトレーナーの手が入っているのか、きれいなキープレフトの優等生。


 あまりに完璧で生身の犬というより「ぬいぐるみ」といったほうが当たっている。

 散歩中に電池がきれたらピタッと止まり、梃子でも動かなくなったりして。(笑)

 

 いまさらだけど、心に住むあの子(ぬいぐるみじゃない(^^;)にあやまっておく。

 ごめん、金持ちじゃなくて。けど、ノーテンキかあさんと相性はピッタリだよね。




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