第2話 最後の手紙
預かった鍵で玄関の扉を開けると何だか空気が重い気がした。昨日降った雨のせいでこの古い木の家は少し湿気ているのかもしれない。
「失礼します」
いるはずのない奥へと向かって声を掛け、かすかに軋む廊下を抜けて台所に入る。いつもの場所に荷物を置いて作業用のエプロンに着替え、まずは家中の窓を開けることから始めた。
この家にはもう半年も通っているのに、家主の
サチ子さんは八十代後半くらいだろうか、十年前にご主人を亡くされてからずっとこの家にひとりで暮らしていると言っていた。家の中は常にさっぱりと片付いていて家事代行など必要なさそうに思えたが、納戸や屋根裏の荷物を整理するには男手が必要とのことで僕が選ばれたらしかった。
そこには思い出の品がたくさん詰まっていた。積み木やミニカーなどの古いおもちゃ、夫婦で長年やっていたという習字教室の道具、ご主人が好きだったという骨董品の数々。その場所も今ではすっかり空っぽになって、まるで今日にでも引っ越しするかのようだ。
サチ子さんは、その日の仕事終わりには必ず美味しいお茶とお菓子を用意してくれていたので、僕は時間の許す限りお喋りに付き合った。といっても喋るのは殆どが僕で、普段から口数の少ないサチ子さんはにこにこと頷き、時折声をたてて笑った。サチ子さんも楽しそうだったけれど、僕にとっても亡くなった祖母を思い出す幸せな時間だった。
不在の日の今日も美しい彩色の手提げ袋がテーブルに置いてある。恐らくはサチ子さんの心遣いだろう。二時間の掃除を終えてその袋をのぞき込むと、案の定ペットボトルのお茶とお菓子が入っていた。不思議なことにいつもの上品なお茶請けではなく子供じみた駄菓子が溢れるほど詰まっている。不思議に思いながらも懐かしさからひとつひとつ手に取って眺めていると、その奥から可愛らしい猫の文鎮と僕宛ての手紙が現れた。少し胸騒ぎを覚えた僕は、いつもそうするように廊下側の席に着き、お茶を一口いただいてからお喋りの代わりにその手紙を開いた。
『賢志様
こんにちは。今日は留守にしてすみませんでした。いつも丁寧なお仕事ありがとうございます。
あなたに初めて会ったのは河合さんのお宅でしたね。退院したばかりの河合さんのお見舞いに行ったらあなたが甲斐甲斐しくお世話していて、てっきりお身内の方だと思っていたら家事代行サービスというものだと聞いてびっくりしました。そもそもそういう仕事があること自体知りませんでしたから。
あなたの働きぶりにも驚きました。まだあどけなさの残る少年のように見えるのに、一丁前の主婦でも手こずる作業を難なくこなす手際の良さと正確さには舌を巻きました。内緒にしていましたが、こう見えても若い頃は家庭科の教師をしておりましたのでね、見る目はあるんですよ。
何より私の心を揺さぶったのは、あなたの中に幼くして亡くした息子の面影を見たことでした。亡くなった人に似ているなんて気持ち悪いでしょうね、ごめんなさい。でもね、細面の顔も涼し気な目元もきゅっと結んだ口元も、何かに夢中になっている時のあの子によく似ていたんです。この家を手放すにあたって、片付けを頼むのはあなたをおいて他にはいないとそう思いました』
手放す? どういうこと?
僕は先を急いだ。
『あなたとのお喋りはとても楽しかった。あなたの時間を奪うことに罪悪感を抱きつつどうしても引き留めたかった私がいます。ごめんなさいね。人生の最後にあなたと過ごせた時間は最高のお土産です。あちらへ還ったら、夫や息子にあなたのことを話して聞かせます。
この家を売ったお金で、故郷の老人ホームにお世話になることにしました。あなたにお別れを言うと泣いてしまいそうだから黙って行きます。今まで本当にありがとう。これからもどうぞお元気で、たくさんの人を幸せにしてあげてくださいね。
サチ子』
僕は暫く息をするのを忘れていたみたいだ。それくらいこの状況を受け入れ難かった。これまで毎週のように会って話をしていたのに、まさかこんな形でサチ子さんとの縁が切れるとは思ってもみなかったから。そうとわかっていたら、もっと話したいこともしてあげたいこともたくさんあったのに。せめて、一緒の時間がとても楽しかったと伝えたかった。
サチ子さんはどんな思いであの駄菓子を選んだんだろう。ひとりで何もかも決めて、この家も僕も置いてけぼりを食ったみたいだ。
驚きとも悲しみとも怒りともつかない僕の思いとは裏腹に、サチ子さんの文字はどこまでも滑らかで美しかった。
こんにちは、家政夫の谷岡賢志です③ 別れ いとうみこと @Ito-Mikoto
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