こんにちは、家政夫の谷岡賢志です③ 別れ

いとうみこと

第1話 約束

 こんにちは、家政夫の谷岡賢志たにおかけんじです。今日は僕の高校時代の思い出話をします。僕のいちばん大切な人との別れのお話です。これが僕が家政夫を目指すきっかけとなりました。





「ケンちゃん、今どこ? おばあちゃんが危ないの!」

 悲鳴にも似た電話を受けたのは、もうすぐ誕生日を迎える祖母のために高校近くのホームセンターでシフォンケーキの型を探している時だった。

 僕は店を飛び出して自転車置き場に走った。手が震えて鍵がなかなか差さらない。震える右手を左手で押さえて何とか解錠し、自転車にまたがった。祖母が入院している病院はここから約十キロ、とばせば三十分で着くはずだ。


 父は僕が三歳の時に交通事故で死んだ。信号待ちをしていた父の車に、居眠りのダンプカーがブレーキを踏むことなく突っ込んだらしい。父の車は前のトラックとの間に挟まれ原形を留めない程に潰れてしまったそうだ。当時、母のお腹には僕の弟か妹がいたが、ショックの余り母は流産してしまい、追い打ちをかけるように心の病気になってしまった。とても僕を育てられる状態ではなかったので療養のため実家に戻ることになり、幼い僕は当時から一緒に住んでいた父の両親に育てられることになった。


 祖父は腕のいい大工で、幸い経済的に困ることはなかった。僕は祖母にべったりとくっついて離れない甘えん坊に育った。そんな僕を祖母は目の中に入れても痛くない程可愛がってくれ、僕が興味を示すことには何でも根気よく付き合ってくれた。

 引っ込み思案だった僕の遊び場は殆どが家の中で、褒め上手な祖母の手伝いをするのが好きだった。目についた衣類を何でも洗濯機に放り込み、ほうきとちりとりを振り回しながら家中を走り回った。女の子たちがままごとで遊ぶように、本物の包丁で野菜を切り散らかした。今思えば手伝いどころかいい迷惑だっただろうに、祖母は決して文句を言わなかった。

 小三の時、初めて作った味噌汁を祖父がうまいうまいと飲むのを見て、僕はそれまでの遊びをやめ本格的に祖母から料理を習い始めた。好きが高じて昨年調理科のある高校に進んで調理師を目指している。ただ、生来凝り性の祖母の料理の腕前は玄人跣くろうとはだしなので、今も技術に関して覚え直すことはあまりない。


 そんな祖母が先月倒れ入院した。既に手の施しようがない末期癌で、来週にはホスピスに移ることになっている。我慢強い祖母のことだから体の不調に目をつぶっていたのかもしれない。いちばん近くにいた筈なのに、祖母の異変に気付けなかったことが僕は心底悔しかった。長年連れ添った祖父も、恩返しとばかりにつきっきりで看病している母も同じ思いでいるに違いない。


 僕は走りに走った。高校を通り過ぎ、踏切を越え、高速道路沿いの信号の少ない道を、アップダウンも気にせず飛ばし続けた。額から脇から背中から汗が吹き出したが、そんなことはどうでも良かった。


 頭の中に一昨日の祖母との会話が蘇る。


「学校は楽しい?」

 りんごの飾り切りを披露する僕の手元を見ながら祖母が言った。

「うん。でも、殆どおばあちゃんに教わったことばっかりだよ。こういうのは初めてだけどね」

「そう。良かった」

 祖母は昔から変わらない柔らかな笑顔を浮かべた。

「おばあちゃんが退院したら、おばあちゃんのご飯はみんな僕が作るからね。来月の誕生日には初めてシフォンケーキに挑戦するよ。楽しみにしててね」

 祖母は微笑みを湛えながらもそれには答えず僕の手元をじっと見つめていたが、やがて独り言のように話し始めた。


「ケンちゃん、おばあちゃんね、あなたがいてくれてほんとに良かった。達彦たつひこが死んだ時、ケンちゃんのお母さんは狂ったように泣き叫んでね、泣いて泣いて心が壊れるまで悲しんで、おばあちゃんとっても羨ましかったのよ」

 僕は手を止めておばあちゃんを見た。

「おばあちゃんもいっぱい泣きたかった。何なら一緒に逝きたかった。でもね、お母さんにすがって泣いてるあなたを見てたら、私がしっかりしなきゃこの子はどうなるんだって思ったの。ケンちゃんがいなかったら私は今頃ここにはいないと思う。本当に楽しい人生だった。今までありがとうね」

 おばあちゃんは少し苦しそうな息で言葉を継いだ。

「あなたがおばあちゃんの役に立ちたいって思ってくれる気持ちすごく嬉しい。その気持ちを、これからは誰かの幸せのために使ってちょうだいね」

 おばあちゃんはそこまで言うと、大きく息を吸って目を閉じ枕に頭を預けた。その目尻からは一筋の涙が溢れていた。

 

 待ってて、おばあちゃん、待ってて!


 僕はまだ約束していない。あの時、祖母の死期が近づいていることを認めたくなくて何も言えなかった。それにこれまで育ててくれたお礼だって言えてない。


 目の前の国道を渡る歩行者信号が点滅を始めた。もう病院は目と鼻の先だ。僕はペダルを漕ぐ足に力を込めた。


「賢志!」


 聞き覚えのある声に僕は反射的にブレーキを握った。自転車はつんのめるようにして交差点すれすれで止まり、すぐにたくさんの大型車が目の前を行き交った。嫌な予感が僕の心臓を締め上げる。激しい動悸を感じながら、僕はいつまで経っても変わらない信号を睨んでいた。




 病室に駆け込んだ僕の目に飛び込んできたのは、医師と看護師と布団に突っ伏す母と、傍らでうなだれる祖父の姿だった。

「おばあちゃん?」

 医師と看護師は軽く会釈して部屋を出て行った。

「たった今……」

 祖父が力なく呟いた。どう見ても祖母は眠っているようにしか見えない。


「おばあちゃん、賢志だよ」

 祖母は黙ったままだ。

 僕は祖母の手を握った。まだ温かい。小さい頃、出かける時は必ず手を繋いだ。小学校高学年になっても、歩く時は決して手を離そうとしなかった。今思えば、公道で無慈悲に命を奪われた息子を思ってのことだったのだろうが、気恥ずかしくて僕は並んで歩くのを嫌がった。あの頃と比べると、祖母の手はとても小さくて頼りない。


 いつの間にか祖母は随分年を取っていたのだ。僕はそんなことにも気づいていなかった。家族のために身を粉にして働いてきた人生だ。やっと僕の手が離れて、これからのんびりできるっていう時にこんな形で命を終えることになるなんて。何でもっと大切にしてあげられなかったんだろう。何でもっとありがとうって言えなかったんだろう。後悔の念が涙と一緒に溢れ出す。


「おばあちゃん……まだ聞こえるよね。こないだの返事だよ。僕、誰かを助ける仕事をする。おばあちゃんにできなかった分、いや、それ以上にたくさんの人を幸せにするよ。だから見てて。ずっと見ててね」


 病室に入り込んだオレンジ色の夕焼けが、穏やかな祖母の顔を静かに照らしていた。

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