第八章 業火の亡霊
二〇一〇年十二月二十日月曜日。警視庁高円寺警察署に設置された捜査本部は、ホテル・ミラージュの廃墟で発生した大量殺人事件の犯人として、杉並区役所職員・青田雄二を正式に逮捕。予想外の犯人の正体と警察が公表した青田の異常すぎる動機に世間は一時騒然とする事となった。特に三年前の火災で亡くなった人々の遺族は死者を冒涜するような青田の狂気の理論に怒りをあらわにし、マスコミのインタビューや記者会見などでは静かだが激しい怒りのコメントが相次いでなされる事になったという。
また、三年前の火災で亡くなっていた小堀秋奈の死も青田が意図的に仕組んだ疑惑が本人の自白から浮上し、捜査本部はこの小堀秋奈の死に「未必の故意」が成立する可能性があるとして捜査を開始。とはいえすでに三年前の事である上に証拠は青田自身の自白しかなく、実際にこの「未必の故意」で青田雄二を起訴できる可能性は極めて厳しいと言わざるを得ず、おそらく検察も小堀秋奈の件は保留とした上で今回の四人殺しの容疑のみで青田を起訴する可能性が高いのではないかというのがマスコミ関係者の予想であった。青田自身が言及したように、現代刑事法においては日本国憲法の規定により自白のみを証拠として被告人を有罪にする事は拷問による自白強要防止の観点から固く禁止されている。このため小堀秋奈の死に青田が関わっていたという話が本人の自白しかない以上、新たな物的証拠が出ない限り仮にこの件で青田を起訴したところで有罪判決は絶対に出ず、そうなると検察はこの件に関する起訴そのものを断念してより確実な罪状で有罪を取りに来る公算が強いという理屈である。
とはいえ、仮に小堀秋奈の件がなかったとしても、被害者が四人も出ている以上極刑は確実であり、最終的な判決の行方に大した影響は出ないだろうという予測もなされていた。現代日本の刑事裁判において死刑判決の基準となっているのは、昭和時代に発生した「永山則夫連続射殺事件(警察庁広域指定重要指定一〇八号事件)」と呼ばれる連続射殺事件の犯人・永山則夫に死刑判決が下された際に最高裁判所が示した「永山基準」と呼ばれる判例であるが、この永山基準に従えば死刑判決の基準となる被害者数は永山事件の被害者数である「四人」であり、実際にこの判例以降の事件では被害者数が四人を超えるとほぼ間違いなく死刑判決が下される傾向にあった。
青田は取り調べでも反省の態度を見せなかった。ただひたすらに、あの榊原との死闘の時のように淡々と無表情に自身の主張をひたすらに繰り返すだけだった。風の噂ではほぼ死刑確定の事案であるにもかかわらず、裁判の実施前に弁護側、検察側双方の要請で精神鑑定実施が検討されているとの事だが、この男の行く末がどのようなものになるのか、それはもはや誰にもわからないのである……。
「よぉ、久しぶりだな、榊原」
事件解決から数日が経過した十二月二十二日水曜日。品川らの榊原探偵事務所に一人の男が姿を見せていた。年齢は五十代半ば、スーツを着た官僚風の外見だが、そのスーツの内側には引き締まっており、かつては肉体系の仕事に従事していた事がうかがえる。
「わざわざ来て頂いてすみませんね、大塚さん」
「ちょうど手が空いていたところだったし、別に構わんよ。瑞穂の嬢ちゃんも久しぶりだな。あの事件以来だから……もう大学生か?」
「はい。東城大学の法学部に通っています」
瑞穂ははにかみながら挨拶する。彼女も前回の事件で大塚とは知り合いである。
「で、話ってのは、例のホテル・ミラージュの件だな?」
近況報告もそこそこに、大塚は来客用のソファに腰かけると早速本題に入った。榊原も反対側のソファに座って応対する。
「えぇ。事件関係者として、結末は知っておく必要がありますから」
「あの青田とかいう野郎の供述のせいでこっちも大騒ぎだ。三年前のあの一件、原因調査に間違いはなかったのかってな。ったく、失礼な話だ」
大塚は不満そうにそう言いながら出されたお茶を飲む。今夏の事件の犯人である青田雄二の自供内容……すなわち、三年前の火災の原因が自身の仕掛けた時限発火装置によるものだったという話は、当然原因を公表した東京消防庁でも問題になった。当時の東京消防庁……というか、原因調査を担当した大塚の出した結論は青田も言ったように『九階の客室における寝タバコの不始末』というものだったが、青田の話が本当ならこの結論は覆り、どころか危険な放火殺人犯を野放しにしてしまった事に繋がってしまう。それだけに東京消防庁としては自身の調査のミスの可能性を打ち消すために、青田の供述に対する再調査が行われていた。
「それで、実際の所は?」
「お前も俺の実力は知ってるだろ。それが答えにならねぇか?」
「もちろん、ある程度の予測はしています。それでも、大塚さんの口から聞いておきたかったんです」
榊原の言葉に、大塚は苦々しい口調で答えた。
「結論は変わらねぇよ。三年前のホテル火災……出火原因はあくまで九〇五号室に宿泊していた客の寝タバコが原因だ。この結論を変える気はないし、それを覆すような物証も存在していない」
「やはりですか……」
榊原はそういうと、さらにこう続けた。
「つまり、あくまであの火災の原因は青田が仕掛けたと主張する時限発火装置による放火ではなく、客の寝タバコによる過失だという事ですね」
「あぁ。大体なぁ、そんなあからさまな発火装置が原因だったら俺らがそれを見過ごすわけがねぇだろ。お前は忘れているかもしれないが、俺たちは火災調査のプロなんだぞ」
「重々承知していますよ」
と、大塚は真剣な目で持論を展開する。
「そもそも、出火地点が九〇五号室だったって証拠は腐るほどある。それは三年前にお前にもちゃんと説明したつもりだったんだがな」
「もちろん覚えています」
「現場の部屋の中で一番燃え方が激しく、さらに唯一床まで焼け落ちていたのが九〇五号室だった。通常、火災は発生した後上に向かって燃え上がり、上部を完全に焼き尽くした場合にのみ床にまで延焼する。つまり、床が燃えているという事はそれだけ長時間炎にさらされていたという事で、すなわち出火地点という事だ。俺たちも適当に出火地点を特定したわけじゃねぇんだよ」
「で、でも、じゃあ青田雄二が言った事は……」
榊原の後ろに控えていた瑞穂が困惑気味にそう言うと、大塚は専門家の目でこう言った。
「あのなぁ、冷静に考えてみろよ。プロの放火魔とか電気工学に通じた奴ならともかく、ついこの間まで朝から晩まで野球ばかりしていた高校生が付け焼き刃の知識で作った素人工作の時限発火装置が、事前実験もなしのぶっつけ本番で完璧に作動するとでも思うのか?」
「……青田の時限発火装置は作動しなかった、というのが大塚さんの考えですか?」
榊原の静かな言葉に、大塚は深く頷いた。
「あぁ。そして、寝タバコによって発生した本物の火災に飲まれて装置そのものは焼け落ちた。出火地点近くにその手の部品があったらさすがに俺たちも警戒するが、明らかに出火地点でも何でもない場所に転がっている部品までは詳しく調べ切れていない可能性がある。あるいは……言っちゃなんだが、その『時限発火装置』とやらがあまりにもお粗末すぎて、それこそ跡形もなく燃え尽きたとか、あるいは消防関係者が見てもその残骸を発火装置と認識しなかった、という事も考えられるな」
「発火装置と認識されなかったって……」
あまりの言い分に、瑞穂が何とも言えない複雑そうな表情を浮かべる。
「何にせよ、何度も言うようにあの火災の火元はあくまでも九〇五号室の寝タバコだ。火災調査官としてこの結論だけは絶対に覆らないと断言できる。少なくとも、青田の言う『時限発火装置』とやらが火災発生時に作動していないのは確実だ」
「でも、それじゃあ……」
大塚の言う事が事実なら、結論は一つである。
「青田が仕掛けたと主張する時限発火装置は作動しておらず、奴は偶然同時刻に起こった寝タバコが原因の火災を自身が引き起こしたと誤認してしまった……という事になるな。今となっては確かめようがないが、おそらく大塚さんの言うように、青田の意に反して発火装置はまともに作動しなかったんだろう」
榊原がその結論を告げ、瑞穂は息を飲んだ。
「じゃあ……あの人は、単なる偶然で起こった火事を自分が起こしたと思って、本当は何の関係もなかったのに三年間あの場所を守り続けていたって事ですか?」
「そうなるね。彼は人為的に火災を起こす事で死者という『英雄』を生み出し、その場所を支配して自身の『聖地』にする事でかつて自身がなれなかった『英雄』を超えようとしていた。しかし、歪み切った彼がようやく手に入れた『聖地』は、まがい物の虚構に過ぎなかった、という事だ」
「先生は……あの対決の時点でその事に気付いていたんですか?」
「あぁ。大塚さんの話は三年前の火災後に起こった殺人事件の捜査の時に詳細を聞いているし、そこにミスはないだろうと思った。何より、東京消防庁がそう簡単にミスをするような組織でない事は一緒に捜査をした事がある私自身がよく知っている。しかも、直接火をつけたのならまだしも、モノが時限発火装置と言っていたから、出火原因について間違った認識をしているのは青田の方だと判断した」
「……」
「もっとも、それを言ったところで青田は絶対に理解しようとしなかっただろうから、あの場では言わなかったがね。あの男は、もう自分の歪んだ思考の中に完全に閉じこもってしまっている。他の人間がどれだけ証拠を挙げて説明したところで、彼にとっては『自分が火災を起こし、それで作り上げた「英雄」の上に自分が君臨している』という事が真実なんだろう。本当の事を認めてしまえば、その瞬間にこの虚構の『聖地』は崩れてしまうわけだからな」
瑞穂は何とも言えなかった。
「そして今回、彼はその虚構の『聖地』を守るためにだけに四人もの人間を殺した。実際に得られるものは何もないにもかかわらず、だ。……何だろうね、彼が本当に過去の火災の亡霊にとらわれて自分の人生を狂わせたとしか思えない話だ」
「業火の亡霊、ですか」
青田と対峙した時に榊原が言った言葉を瑞穂はポツリと呟く。
「事件はそれ単体で終わる事はない。事件の大小にかかわらず、どんな事件でもその影響は尾を引き、様々な人間の人生を狂わせる。そしてその怨念は、時として新たな事件を引き起こす。それこそ、まるで『亡霊』のようにね。それが、今まで私が色々な事件を解決して得た結論だよ。本当の意味で完全に『事件』が終わる事などないのかもしれないな」
「先生……」
「探偵として事件にかかわる以上、それはすなわち人よりも多くの姿なき『亡霊』に関わる事になるという事だ。気を抜けば容赦なく事件の闇に飲み込まれ、今回の青田のようになってしまう。何だかんだ長い付き合いだから今更君の心を試すような事は言わないが……これからも様々な事件に向き合う以上、瑞穂ちゃんもその事は心に止めておく事だ」
「……もちろんです。こうしてここにいる以上、その覚悟はできているつもりです。私は、先生の助手ですから」
瑞穂は真剣な顔で榊原の言葉に応じる。それを正面から受け止め、榊原は小さく微笑んだ。
「ならいいんだがね。覚悟があるなら、私からこれ以上言うべきことはない」
「……随分な金言だな。俺は何も言えねぇよ」
二人の会話を間で聞いていた大塚は、そんな事を言いつつ苦笑いしながら首を振ったのだった……。
そして、青田が逮捕されてから約一ヶ月後、崩落の危険などからこれ以上の放置は周囲に対して危険すぎると判断され、警察及び裁判所からホテル・ミラージュの解体作業が正式に許可される事となった。解体は事件前に決まっていた村田組がそのまま引き受ける事となり、今度は作業開始日に建物内から遺体が発見されるというような事も起らなかった。
かくして多くの人間の命を飲み込み続けたあの悪夢のホテルはようやくこの世からその存在を消滅する事になったのである……。
……そう、そのはずだった。
『至急、至急。警視庁(警視庁通信指令センター)から高円寺(高円寺署)』
『高円寺です、どうぞ』
『杉並区高円寺××『ホテル・ミラージュ』解体現場より一一〇番入電。同ホテル解体作業中にホテル基礎コンクリート内より人間のものと思しき白骨を発見したとの通報あり。詳細については判然としないが、あるいは事件である可能性もある。早急に現場に急行し、初動捜査に当たれ』
『……確認する。『ホテル・ミラージュ』解体現場より白骨遺体発見の通報あり。この内容で間違いないか?』
『その通りである。繰り返す。『ホテル・ミラージュ』コンクリート基礎部分より白骨遺体発見の通報あり。状況から見て、先日の殺人事件とは別の事件のものと思われる。早急に捜査活動に入られたし。以上、警視庁』
『……高円寺、了解。それでは最寄りのPC(パトカー)を向かわせる。詳細については追って報告する』
『警視庁、了解。以上、一一〇番整理番号×××番。時刻は午前十一時十八分』
『事件』は終わらない。
『事件』は連鎖する。
『事件』は遡及する。
数多の人間を怨讐と狂気の業火の渦に巻き込み、その人生を狂わせてきた魔境『ホテル・ミラージュ』。
この日、その姿を見せたこのホテルの最初にして最後の牙は榊原を三度(みたび)事件の渦へと引きずり込む事になるのだが……。
それはまた、別の話である。
業火の亡霊 奥田光治 @3322233
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