第十一話
ヴィンフリートが帰宅したのは、丁度ローレンツがお茶を飲み終え、屋敷を去る頃だった。
「それじゃ、そろそろ失礼しますね。お茶、ご馳走さまでした」
「いいえ、大したお構いもできなくて。また明日職場でね。――それから、あのことはくれぐれも内密に」
「はい。もちろんです、先輩。ふたりだけの秘密ですね!」
ローレンツが元気よく答えたちょうどその時、外から扉が開かれた。
朝家を出た時と同じく、黒い軍服に身を包み、銀色の髪をきっちり後ろに撫でつけたヴィンフリートが佇んでいる。
「ヴィンフリートさま! お帰りなさいませ」
「ああ、ただいま。……客人か? 珍しいな」
この屋敷に、エルネスタが父以外の人間を招き入れたのはこれが初めてのことである。ヴィンフリートが怪訝そうに眉をひそめる。
「ええ、私の大事な友人で、優秀な副官のローレンツです。今日は忘れ物を届けに来てくれたんです」
ね、とローレンツに微笑みかけたが、彼の表情は引きつっていた。
魔術師の仕事は主に研究や実験といったものばかりで、体力仕事とは無縁である。そのため、全体的に細身で痩せ型の者が多い。
ローレンツももちろん例外ではない。そのため彼は、逞しい身体つきのヴィンフリートにすっかり圧倒されたようだった。
「は、初めまして、ローレンツ・ライエンベルクです。エルネスタ先輩にはいつも、お世話になっていて……」
握手のため差し出したローレンツの手は、微かに震えていた。
「ヴィンフリート・ヴァレンシュタインと申します。こちらこそ、妻が世話になっています」
「あ、いたっ」
手を握られる力が強かったのか、ローレンツが顔を歪める。
いくら細身とはいえ、ローレンツは別に虚弱体質というわけではない。それにヴィンフリートだって、これまで自分より力の弱い者に対して力加減を誤るようなことはなかったはずだ。
「これは失礼。魔術師殿の繊細な手に、軍人の握手は無骨過ぎましたか」
唇は弧を描きながらも、冷ややかな眼差しでローレンツを睨めつけるヴィンフリートの姿に、エルネスタは確信する。
(――わざとやったんだわ)
そして恐らくローレンツも、そのことに気づいているのだろう。
「い、いえ……ははは。それじゃ、失礼します」
「あ、ちょっとローレンツ……!」
エルネスタが呼び止めるのも聞かず、ローレンツはぺこぺこと頭を下げながら逃げるように玄関から出て行ってしまった。
残されたエルネスタは、扉が閉まるのを見届けてからゆっくりと夫のほうを振り返る。
「ちょっと、ヴィンフリート様」
「……なんだ」
叱られるとわかっているのか、ヴィンフリートの目が宙を泳ぐ。そんな風になるくらいなら、最初から叱られるようなことをしないでほしい。
「先ほども申し上げましたが、ローレンツは私の大切な友人で、副官です。それなのになぜ、あのような態度を取ったのですか?」
眉をつり上げながら問い詰めると、ヴィンフリートが気まずそうに口を開閉した後、意を決したようにエルネスタを見つめた。
「……君は」
「はい?」
「ああいう男が、タイプなのか?」
「――はあ?」
思いがけぬ質問に、エルネスタはつい素っ頓狂な声を上げてしまった。一体、何がどうなってそんな発想に至ったというのか。
「いえ、ローレンツはただの友人ですが」
「友情から恋愛に発展する場合もあるだろう。それに、やつは……中々、そこそこ、それなりにいい男だった」
ぎりぎりと奥歯を噛みしめる音が聞こえてくるようだ。ヴィンフリートが歯を食いしばり、拳を握り締めながらいかにも嫌々といった様子でローレンツの容姿を褒める。
(そ、そうかしら……)
ローレンツのことを、いつも目の下にクマを作って不健康そうだと思ったことはあっても、ヴィンフリートの言うように『いい男』だと思ったことは一度もないエルネスタである。
ローレンツには悪いが、ヴィンフリートの発言には首を傾げざるを得ない。
それはともかく、どうやら夫は何が原因なのか大変な思い違いをしているようだ。
「少なくとも、私たちはそんな関係ではありません。それに、曲がりなりにも夫がいるのに、他の男性にうつつを抜かすような真似はいたしません」
「俺と結婚していなかったら、あの男にうつつを抜かしていたかもしれないということか」
「なぜそうなるんですか」
まるで子供の屁理屈のようだ。
(どうしよう、全く言葉が通じないわ)
どうやらヴィンフリートは、思っていたより頑固だったらしい。まるで不倫を詰られているような状況に、エルネスタは頭を抱えてしまった。
「……ふたりだけの秘密、と言っていた」
無言になってしまったエルネスタを前に、ヴィンフリートがぼそりと呟く。
「え?」
「あのローレンツとかいう男が、君にそう言っていただろう」
「あ、ああ! そのことなら――」
先ほどのローレンツとのやりとりを思いだし、エルネスタはようやく得心がいった。なるほど、ヴィンフリートは玄関扉の外からあの会話を聞いていたというわけだ。それならば、誤解されても仕方ないかもしれない。
エルネスタは慌てて事情を説明しようとしたが、ヴィンフリートの言葉に遮られてしまう。
「わかっている。君は俺を好いて結婚してくれたわけではない。政略のためにと仕方なく嫁いできてくれた君を、俺が縛り付ける権利などないことは、わかっているんだ」
「ヴィンフリート様。あれはそういう意味深な話ではなくてですね」
「いいんだ。君の心が他の誰にあろうと、俺は――」
もはやヴィンフリートはひとりで勝手に話を進め、勝手に落ち込み、勝手に納得しかけている。
おかげでエルネスタは結婚して初め相手に相手に声を荒らげる羽目になってしまった。
「ですから、話を聞いてくださいと言っているでしょう!」
冷え切った夫婦のはずですが、未来からやってきた娘が「お父さまとお母さまはとってもラブラブです」と言っています 八色 鈴 @kogane_akatsuki
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