偏屈文学少女
谷村ともえ
完結
同じ奴らと中学に行きたくないから。僕が私立を選んだ理由だ。あんな腐ったアホ共と追加で三年間も過ごせだなんて、僕には到底無理だ。僕も腐るか、そのまま死んでしまう。それに、ここは中高一貫で高校進学も保証されている、ダラダラ過ごして行き当たりばったりでどうにかなるだろう。
そんな甘い妄想は最初の一か月で砕かれた。気がつけば授業の速度に追いつけず、最初のテストで赤点を取った。元々、そこまで頭が良いというわけではないし勉強に対するやる気も無い。この学校に入学できたのだって定員割れだ。後から聞いた話だと、国語と社会が良かっただけで、あとは目も当てられない点数だったらしい。
結局、落ちこぼれが早くも確定した僕は、その後も赤点を何かしら取り続けた。学期末の三者面談には、常に重い空気が流れていた。帰りの車内で母に決まって言われる。
「なんでここに入ったの?」
聞かれるたび窓の外を見て無視を決めた。聞かないでくれ母よ。
あっという間に高等部へ上がった。テストの点数はジェットコースターの如く乱高下を続け、授業態度と提出物だけが何とか成績を平均より少し下ほどに留めてくれていた。しかし、進級同時に勉強なんかよりも読書にハマってしまった僕は、読んでいてもバレない電子辞書に搭載された日本文学全集を毎日読みふけった。
太宰治。夏目漱石。芥川龍之介。学の無い頭でも文豪たちの話は面白い、周りの秀才もどき共が読むライトノベルの何百倍、幾ほど倍も面白い。これが文学かと感銘を受けた。
読み続けて半年、気分転換に母の書斎から文庫本を一冊拝借した。帯紙には二年前に芥川賞を受賞したことが書いてあり、適当に手に取ったが面白そうなので読むことに決めた。翌日の学校、昼休みにページを開いて読み始めると肩を叩かれた。
「相田君。そんな本のどこがいいの?」
隣席にいる牧原ユイが話しかけてきた。彼女はクールビューティで、背の高さも相まって男女ともに”それだけ”人気がある。そして、僕なんかとは比較にならないほど勉強が出来た。期末テストは常にクラストップを取り続け、模試なんかでも全国一位を取るほどだが、最悪の欠点を持っている。
とにかく性格が悪い。
人の意見は常に批判し、小難しいことをつらつら述べて言い負かせる捻くれ偏屈天才少女だった。中等部二年時、音楽の先生をめちゃくちゃにこき下ろして泣かせていたのを覚えている。
「いや、まだ分かんないけど」
二ページ目で時代背景が説明されている途中だ、面白いと判断する材料なんてない。一重瞼の死んだ目でじろじろ本を覗いてくる。
「分かんないのに読んでるの?時間の無駄じゃない?そんなの読んでないで、もっとサブカル的で大衆向けの物を読んだら?」
「うるせぇな、読み始めたばっかりなんだから分かるわけないだろ」
それから、僕が本を出して読み始めるたび横目でチラチラ覗いて来た。本からちょっとでも僕が目を逸らせば、感想をしつこく聞いてきた。
「どうなんだ」
「面白いのか」
「話の筋は?」
僕は気が滅入ってしまった。次第に学校で本を読まなくなると、声を掛けなくなった代わりに当たりが強くなった。シャーペンが彼女の足元に落ちてしまった時、拾ってくれたはいいが、ペン先をこちらに向けて渡してきたり。教科書を忘れて見せてもらっていたら、該当ページと全然違うページを見て授業に集中させてくれなかった。
幼馴染の斎藤にこのことを相談したが、
「お前もツイてないな。まあ、隣の席なんてたった一年間の付き合いだろ?仲良くやれよ」
他人事の様にそう言って笑った。たしかに他人事だが、幼馴染なんだからもうちょっと同情の言葉を掛けてくれてもいいじゃないか。そう言いかけて口をもごもごさせているのを見て、察した斎藤は口角を上げた。
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ある日、斎藤と移動教室から帰ってくると、教室にはまだ誰もおらず、暗いままだった。電気をつけて自分の席に近づく途中、牧原の机の下にノートが一冊落ちていた。表紙には何も書かれていない黒色のキャンパスノート。気になってページをめくり中を確認した。
セミの声。頭上の風鈴。熱気で歪む地平線。そんな季節外れの夏を想像させる表現が序文にあり、それから二人の少年少女が夏の思い出を作っていく内容が二十ページほど続いている。
ガラッと勢いよく教室の引き戸が開かれ、しかめっ面の牧原が入ってきた。ノートを持っている僕に気づいたらしく、眉をひそめて下唇を噛んだ。刃物のような目つきを向け、つかつか迫って来る。斎藤に助けを求める目線を送るが、反対側の自分の席でニヤニヤ笑って結末を見届けるつもりらしい。
目前まで迫り、ノートを僕から乱暴に奪い取った。しかし、そのあとは何もなく黙って自分の席に座った。
放課後の帰り際、帰り支度を始めた僕に牧原が、
「図書室まで」
そう耳打ちして、教室を出て行った。あの黒いキャンパスノートと筆記用具を持って。
ノートのことだろうな、なんて弁明すれば許されるだろう。いやさ、たまたま落ちていたから読んだだけで君のとは思わなかったんだ、許してくれ。こんな感じで許してくれるか?あの偏屈女がこんな薄っぺらな謝罪で許すはずがない。助けてくれ斎藤、僕は明日からどんな嫌がらせを受けるんだ。助けを求めようにも彼は既に帰宅済み、まともな友人は彼しかいないから助け人はいない。
頭を抱えて図書室のドアを開ける、一番奥の長机にいつもより眉間の皺を多くして腕組みをしている牧原が座っていた。
一歩一歩、ゆっくり気だるげに進む。こんなことをしても彼女の気は収まらないし、小言の時間を増やすだけだと分かっていても、足はカメと同速くらいでしか進まない。やっと目前まで来て腹を決めると彼女の正面に座った。三者面談よりも重い空気が息を詰まらせる。大きなため息を一つ吐いて、彼女は口を開いた。
「見たでしょ?私の小説ノート」
「えっと、何と言うか見たというか、偶然落ちてたから気になって...」
十六年間生きてきた中で、初めての圧を感じている。親や教師から発せられる単に重苦しい物ではなく、もっと深い重圧。表現するなら水深一万メートルか、絶対零度の圧力鍋に突っ込まれたような、身も心も芯から冷え潰される感覚。何を言っても地雷を踏みぬく自信しかない。反省の色をにじませた瞳を向けてみるが、真っ黒な死んだ瞳に全て吸収されていく。
「で?」
「え?」
「凡人の君が読んでも面白かった?」
思いもよらない質問に答えを探してあたふたしていると、黒いキャンパスノートずいっと押しつけてきた。ノートを開いてパラパラ捲って流し目で読み進める、普通の女子中学生が夏の思い出を作ろうと奔走する内容らしい。ありきたりで普通。目線を上げてちらりと牧原の目を見ると、何かを期待している目をしている。
「普通....かな」
正直に言った。こういう時は正直に言った方がいいと母から教わった。
「そう」
一言、それだけだった。僕から再び乱暴に取り返すと、灰色の筆箱から青いシャーペンを取り出して書き加え始めた。数分後、書き加えられた分を再び読まされる。これの繰り返しで二時間は付き合わされた。
「明日、また読ませるから」
こうして僕たちの関係が始まった。毎日のように図書館へ連行され、読まされ、アドバイスを伝え、お互いに好きな本を語り合った。意見を一つ言えば百で返され、時に反論できないバカげた絵空事を僕が言い、何も言えなくなった彼女を見るのは珍妙で笑いが止まらなかった。
気が付けば彼女に親近感を抱いて不思議な気持ちを寄せていた。多分、異性が好きってこういう気持ちなんだろうな。
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そんな充実した毎日を送っていた、高校二年の夏。クラス中が夏休みの話題で盛り上がり始めたころ、牧原が登校しなくなった。そうして、一か月が経過したある日、担任が朝のホームルームで、
「えー、牧原さんですが、急病のため入院しました」
最近来ない理由が判明した。放課後、職員室に呼ばれ、
「相田。お前、牧原と仲良かっただろ?プリント渡してくれ。場所は県立病院だから分かるよな?よろしく」
授業で使用された課題や学級だよりが透明なファイルに挟まれている。それと、バス代を渡された。彼女に会える口実が出来たことが嬉しかった。公衆電話から母にそのことを伝え、返事を聞かぬまま切った。
昇降口から飛び出し、靴のかかとを踏んだままバスに乗り込み、二つ町を越えた先にある県立病院へ向かった。車内は帰宅途中の学生で溢れていて座れなかったが、病院が近づくにつれ、ぽつぽつ席が空き始め、到着時、車内は老夫婦と僕だけだった。
受付で牧原ユイの名を告げ、別館四〇三号室までの道のりを教えてもらい、平日夕方の閑散とした病院内を歩いた。途中、干からびて死にそうな老人がエレベーター前の長椅子に座っていた。もしもユイが重病だったら、死んでしまうようなモノだったら。そんな不安が胸を締め付けた。
迷路のような院内を歩き回って、やっと見つけた四〇三号室。個室らしく、一枚しかない札には牧原ユイと書かれている。病室に入ると、初老の男性がベッドの隣に座っていた。七三分けで眼鏡を掛けたそのビジネスマンが、牧原の父だということは容易に想像できた。
「どうも」
先に挨拶され、僕もそれに会釈で返す。牧原父は、ユイに一言二言なにか言って病室を出て行った。通り過ぎる際、
「ありがとう」
心の奥から感謝するような枯れた声だった。
ユイは父親が出ていくのをベッドの上から見送り、病室は僕たち二人になった。部屋はクーラーが効いて涼しいが、窓の外は雲一つない晴天で、相変わらず太陽がうるさいくらい輝きを放ち、セミの声が遠く聞こえる。彼女の顔はいつもとそう変わりないが、生気が感じられない。気まずそうに口角を上げてこっち来るように促され、隣の丸椅子に座った。
「来たんだ。来なくていいのに」
「来るに決まってるだろ。お前の唯一の友人なんだから」
口元を隠して笑う。しばらく沈黙が続いて、脱するために雑談を始めた。学校、私生活、最近読んで面白かった本。話している最中、彼女は黙って聞くか、「そうだね」しか話さなかった。いつもなら話を遮って自分の意見を容赦なくマシンガンの様に浴びせてくるのに。それまで以上に弱った今、アイデンティティであった偏屈の針はどこへやってしまったのだろう。言葉が出るたび胸が痛む、辛くなって逃げ出したくなったころ、四時を告げる館内放送が入った。
「じゃあ、そろそろバスの時間だから」
「待って」
立ち上がる寸前に制服の裾を掴まれた。
「お願いがあるの。私が死ぬまで私の側にいて執筆を見守って欲しい」
青白かった頬がにわかに赤く染まり、目に光が宿った。
「それでね、死んだら相田君にこの原稿を託す。この世に私が存在したことを残して欲しいんだ」
言葉には彼女の全身全霊が込められていた。こんなお願い、断れるはずが無かった。今にも消えそうな目の奥に燃える火を見つめながら頷いた。パッと裾を離して彼女は微笑した。
「また来てね」
「うん」、と言って再び立ち上がり、病室のドアに手を掛けた瞬間、もう一度彼女を見た。夕焼けに染まりつつある空を背に力なく手を振る姿は、どこか先ほどの老人と似ていた。
通い続けて三か月が過ぎたころ、廊下ですれ違った牧原父から教えてもらった。親が自分しかいないこと。手術が成功するか分からないこと。毎日こっそり泣いていること。そんなことを知ったところで、ユイの体調がよくなるはずがない。だが、「そうですか」、なんて素っ気なく答えてしまったのを、彼女の病室の前で後悔した。
病室の扉をあけると、彼女はペンを握ってノートとにらめっこしていた。僕に気がつき、ペンを置いて笑いかけてくれた。長く艶やかな髪も短くなり、日を追うたび目に見えてやせ細っていく彼女を見るのは忍びなかった。しかし、彼女が来いと言うのだから行くしかない。毎日こうして学校をサボって朝九時から隣に座り、執筆を見守っている。
三ページほど書いて原稿から目を逸らし、窓の外を眺めた。顔は見えないが、手元の文字から彼女の感情が流れ込んでくる。今の自分とは正反対の青春物語、彼女らしからぬ色鮮やか且、乱暴で血潮に染まった描写が彼女の生への渇望を痛々しく表現していた。
暖房の音が小さくなってきたころ、大きなため息を吐いた。
「本当はね。君の読んでた本、私も好きだったんだ」
震えた声で言った。ペンを握る白い手に力が入り、青黒い静脈が浮かび上がる。
「ごめんね。あの時素直に話しかければよかったのに、気持ち悪いよね、私」
唐突過ぎて、何も言えない。外は赤と黄色の葉がゆっくり舞い散り、時間が過ぎるのを遅く感じさせる。血の気の無い手が拳を握り、小さく震え始めた。
目も合わせること無く初めて聞いた彼女の謝罪は、何もこもっていなかった。自己中心的で薄く、軽く、小さい、石灰色の言葉が口からこぼれ落ちているに過ぎない。
「私が私で無くなっちゃう前に謝りたかった。子供じみた嫌がらせをしたこと、本読んでるときに邪魔したこと、こんな醜いエゴイストの友達になってくれたこと」
かつての偏屈天才娘の影は無く、ただのか弱い少女に成り下がったユイに、僕は同情の目を向けた。彼女が一番嫌いな目、他人から見下されるような目を送っていた。
「気持ち悪い」
言い終えてから、この言葉が自分の口から出たことに気がついた。ハッとして弁明しようとするが、うな垂れて呟き続ける彼女を見てやめた。
その後も、ずっとユイは謝り続けた。ごめん、ごめんね、許して。誰に謝っているのか、無意味な謝罪がゲシュタルト崩壊する前に、僕は早めに病室を出た。僕が席を立っても、彼女は誰かに謝り続けた。
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入院して一年が過ぎた夏、彼女にとって最後かもしれない夏。七月の第三月曜日。夏風邪が流行っていたから、病院はその患者でいっぱいだった。あの老人が座っていた長椅子には、大きな荷物を抱えたおばあさんが座っていた。ユイの病室に入ると、牧原父が目を赤くして手を握っていた。
「お父さんは出てって」
牧原さんは何も言わず席を立つと、軽く僕に会釈をして病室を出た。「何にしようかな」、そう言って虚ろな目で天井を見上げるユイは、どこか楽しそうにしている。
「今日さ、手術するんだ。原稿....まだ途中だから、絶っ対完成させてね」
クシャクシャになった原稿用紙が机の上に広がっている。さっきまで書いていたのか、脈略の無い単語が書き散らされ、消しカスや折れたシャーペンの芯が転がっていた。最後まで彼女は書くつもりらしい、布団から出た手にはペンが力なく握られている。
「なんで...そこまで頑張れるんだよ」
「死にたくないから」
天井を見上げたまま、弱々しく続けた。
「人生ってね、闘争だと思うんだ。みんな自覚してないと思うけど、誰かを踏んづけてその上に立っているんだよ。何かしらの分野で」
青いシャーペンが手から滑り落ち、乾いた落下音が響いた。拾い上げて彼女に手渡す。
「中一の時、何気なく書いた小説みたいなものがお父さんに褒めてもらって...それで思ったの。ここが私の戦場なんだって。ペンを握って紙に向かい合い、経験浅い学の無い頭を絞りに絞って、やっとの思いで完成させた原稿が誰かに認められる。表彰台に掲げられて下を見れば、敗れ去った幾多の作品が散らばってる」
ペンを握る手から、血が一滴こぼれ落ちた。
「戦場に身を置きたかった。赤黒い活字、生暖かい血濡れのペン、作家たちの狂気が渦巻く世界。....いいなぁ、楽しいだろうなあ」
表情が蕩け始め、目尻に水滴が浮かぶ。
「このまま死ぬのが悔しい。本当に死ぬんだ....うわぁ、アハハッ!死ぬんだ!!」
泣きながら笑ってる。苦しそうに、狂ったように笑っている。壊れ始めたユイには何が見えているのだろう。声は次第にうめき声に変わって、涙の量が一気に増えた。大粒の涙が白い頬を伝って、枕に染みを増やしていく。嗚咽がしばらく続いて、
「....つまんない人生だった」
涙をピタリと止めてハッキリ言った。
「そう...そうだ。もしも、生まれ変わりと言う、非科学的で人間が生への執着のすえ考案した下らない制度があるならさ」
震える手でシャーペン僕に差し出す、冷たい手に握られたペンを受け取る。ニッと笑って、静かに言った。
「次に会う時は、君に皺がいっぱい増えた時がいいな。今度は私が君の死を見るよ。それまで私を文字の中に埋めておいてくれ」
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あれから一か月、受け取った原稿を何度も読み返し、時間があるときはずっと書き続けた。赤く輝いていた幻想作品は、暗く淀んで現実的になった。それでも、彼女の偏屈で気高い像を崩すことなく、思春期真っ只中の少女が、血反吐を吐きながら短い夏で生を求める姿を美しく書けた。自分ではそう思っている。
「意外と綺麗に書けてるじゃん。現実よりも可愛げがあっていいんじゃねえか?」
斎藤に見せたらそう言ってくれたが、これはユイ本人ではなく、僕が考えた彼女の理想像だから決してユイが望んだものではない。でも、これでいいと思っている。彼女へのささやかな仕返しだ。
彼女が退院して戻ってきたらなんて言われるだろうか、スマホの画面に写された細い指のVサインを見て、少しの涙と変な笑いが出た。
偏屈文学少女 谷村ともえ @tanboi
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