第十三話 帰郷

 船の旅は快適だった。テオがの粒を惜しげもなく五峰に与えたおかげで、船室も食べ物も往きとはまるで違っていた。広々として明るい船室はもちろん一人部屋だった。柔らかな寝心地の寝台に横になっていると、船の揺れが心地よく眠りを誘う。

 マラッカを出発してから五十日を過ぎようとしていた。二度ほど大きな嵐に遭った。恐ろしいことは恐ろしかったが船酔いすることもなく、なんとか切り抜けた。

 テオは旅慣れていて始終上機嫌だった。若狭はテオに日本語を教えることが船の上での日課だった。

 そしてもう一人、マラッカから連れてきたのはルシムだった。ルシムは捻子切りを使って、火筒に捻子を切ったことがあるというので連れてきた。どうせマラッカに居ても碌なことをしないのだから、日本で鍛冶屋をやったらどうか、と言うと二つ返事で承知したのだった。ゴアへ行く船に乗るつもりでクリストヴァンの部屋に隠れていたが、当てもなく知らない土地に行くより仕事の当てがあったほうがいい、と日に焼けた顔で陽気に笑った。

 クリストヴァンの罪がどのようなものになるのかは、テオにもわからないと言っていた。ただ若狭にはクリストヴァンの涙が本物であるように思われた。マヌエルが病死であったことを皆が信じることを願っている。

 アントニオの濡れ衣は晴らせたが、埋葬されるのを見届けられなかったのは残念だ。遺体が生きていたままの姿なのを、神父たちは驚き畏れて、埋葬するかどうかの話し合いの決着がつかなかったのだ。たぶん今もまだ侃々諤々かんかんがくがくの議論が続いているに違いない。イラーナは聖人の母として、今後、大切に扱われるだろう。

 テオは時堯ときたかの様子を詳細に聞き、どのように悪魔を祓うか戦略を練っているようだ。テオならば、きっと時堯に取り憑いた悪魔を祓ってくれるに違いない。本人が言うように、テオは人並み外れた天才であることが、若狭にもわかってきた。これまでに何度も悪魔を封じ込めたことがあるらしい。それにテオは一流の医者なのだ。若狭はそれを身をもって体験した。テオがいてくれたおかげでどれほど助けられたか。

 船に乗る前、若狭に重くのしかかる気掛かりは、ただ一つだった。

 案ずるより産むが易し。テオの、見ようによっては愛嬌のある顔を見ていると、そんな言葉で勇気付けられた。

 明日は種子島に着くと聞いて、若狭は無事に帰って来られた喜びが少しずつ湧いてきた。桜は終わってしまっただろうが、種子島の春はたけなわのはずだ。父母は達者であろうか。家の人々は若狭をどのように迎えてくれるだろうか。若狭は久しぶりに眠れぬ夜を過ごした。

 甲板に立ち、近づいてくる緑の島を若狭は全身で受け止めるように見ていた。震えるような喜びが身の裡から溢れてくる。

 赤尾木あこうぎの港に船が着いてしばらくすると、島の人々や役人がやってきた。五か月ぶりに見る倭寇船ジャンクをもう恐れる人はいなかった。

 若狭は自分が戻って来たことを、父母に少しでもはやく知らせたかった。それでいち早く使いを遣った。

 小舟に乗り換え桟橋に立つと、懐かしい父母の姿が見えた。

 胸が熱くなる。

 たくさんの土産を持って帰ったことを、きっと父母は喜んでくれるだろう。

 嘉女が駆け寄ってくる。後ろから父金兵衛も、もつれるような足取りで駆けてきた。若狭も、久しぶりの陸地に少しよろけながら前に進み出た。

 その時、嘉女と金兵衛の目が、若狭が腕に抱いているものに吸い寄せられた。二人は大きく見開いた目で若狭と抱かれているものとを交互に見比べた。若狭はそれがよく見えるように傾け、「女の子です。おたまと名付けました」と言った。

 初めての出産が不安でないわけがなく、若狭は子供を産んでから日本に帰ることにしようかと迷っていた。

 テオに相談すると、「儂に任せておけ」と言う。

 そうであった。テオは偉大な化学者であり医者だった。

 若狭は笑って、すべてをテオに任せる決意をしたのだった。

 お珠は若狭の腕の中で、ぱっちりと目を開け祖父母の顔を見上げていた。

 白い肌、黒く大きな目、小さな赤い唇。

「若狭にそっくりじゃ」

「よう似ておる。なんと愛らしい」

 金兵衛と嘉女は赤子の顔をのぞき込んで目を細めた。

 

 懐かしいはずの家は、どこかうらぶれていた。お珠を抱いて居間に座っていてもなぜか落ち着かなかった。嘉女と金兵衛は訊きたいことがあまりに多すぎて、なにから訊いていいのかわからないといった様子だった。それは若狭も同じで、すっかり様変わりした町の様子や、なぜ役人が家を見張っているのか、わからないことばかりだった。テオとルシムは別の部屋で休んでいるが、嘉女はあの二人が気になるのか、そちらの方向をちらちらと落ち着きなく見ていた。

「母上、テオは立派な薬師くすしでございます。船の上でこの子を取り上げてくれました。それから、ルシムはマラッカで鍛冶屋をやっておりました。尾栓の捻子切りができるので連れてまいりました」

「若狭、その子は、やはり……あの南蛮人の」

 若狭はお珠の顔を覗き込んだ。どう見ても日本人の赤子だった。どこにも南蛮人の特徴がないので嘉女の不思議に思うのももっともだった。若狭はアントニオとは本当の夫婦ではなかったことを打ち明けた。そうとでも言わなければ、マラッカ行きを許してはもらえないと思ったと付け加えた。

「では誰の子供なのです」

 船に乗り込むときには、まだ懐妊に気付いていなかった。気付いたのはマラッカに着いてしばらくしてからだった。次第にお腹がほんのわずかせり出てきて、ようやく懐妊を疑い始めた。はじめはマラッカの気候と食事が体に合って、太ったのだと思っていた。月のものがないのは、慣れない旅のせいと考えていた。船で嵐に遭った時に、ひどく吐いたのは悪阻のせいだったのか、と後になって思ったものだ。今、思い返しても随分無謀なことをしたと思う。

 若狭は見張りの役人に聞こえぬよう声をひそめた。

「時堯さまです」

 父母は吸い込んだ息をどこに吐いていいのかわからぬ、というように首を振りながら意味もなく手を振りまわした。

「このことは誰にも言わないでください。時堯さまには私から折を見て言うつもりです」

 アントニオがマラッカで死んだこと。そのために当てにしていた船賃の金策ができなくなり、困っていたところをテオに助けてもらったことを話すと、嘉女はまたテオたちの部屋の方を見て、今度は少しほっとした顔をしていた。

「父上、母上。なぜこの家に見張りがいるのですか」

 金兵衛は一度役人のほうを振り返り低い声で言った。

「若狭がマラッカに行ったあと見張りがついたのじゃ」

「では私のせいで」

「それだけではないのだ。時堯さまは火筒を何千と作るおつもりで、儂が仕事を怠けていないか、あるいは逃げ出さないか見張っているのだ」

「火筒を何千と。それで町中にあんなに鍛冶場が増えたのですか」

「お前がマラッカに発ったあと戦があってな。屋久島で禰寝軍を全滅させたそうじゃ。その戦で時堯さまは火筒の威力を再認識したのだろう。おお、そうじゃ。津田さまがこの島においでじゃ。いま使いを遣ったからもうすぐお見えになるだろう。津田さまはお千の家で養生をしているのだ」

「養生とは。どこかお悪いのですか」

「半月ほど前になるかな、津田さまは時堯さまに対面なさったあと大怪我をされたのじゃ。なぜにそのようなことになったのかは聞いたのだが、儂にはどういうことかよくわからなかった。ただ言えるのは時堯さまが以前の時堯さまでなくなったということじゃ」

「父上もお気づきになられたのですね。実を言うと私がマラッカに行ったのは、それが一番の目的でした」

「それとは」

 その時、津田が庭にやってきた。髪には白いものが交じり杖をついて歩く姿は、数か月の間に十も年を取ったようである。

「若狭、よく無事で戻ったな」

「津田さまも御無事でなによりでございました」

 津田は若狭の赤ん坊に目を丸くした。アントニオが死んだことを聞くと、ぐっと言葉に詰まって涙ぐんだ。アントニオの話やマラッカでの出来事、テオとルシムを連れてきた経緯など、話は尽きなかった。赤ん坊の父親のことになると、若狭も金兵衛も子細ありげに口をつぐむので、津田はなにかを感じ取ったようであった。

「ところで、こうしている間にも時堯さまは若狭を連れにくるのではないか」

 津田が思い出したように言った。その声には津田らしくない怯えが混じっていた。

「それでしたら御心配には及びません。種子島に着くとすぐに、港に来ていた役人に言付ことづけたのです。明日間違いなくお城に上がりますと」

「若狭、覚悟はできておるのか」

「テオが居りますゆえ。明日はテオと一緒にお城に行くつもりです」

 津田がテオと話がしたいというので呼ぶと、テオは着物に着替えてやってきた。テオは着物を着ると日本人の老人のように見える。

 金兵衛はルシムと一緒に鍛冶場へ行った。言葉は通じないが、ルシムは捻子の切り方を金兵衛に伝えることはできるだろう。

 テオはお珠を抱き上げた。まるでお珠の祖父のようだ。

「それで、津田さまといいましたか、そなたが悪魔と対峙したときのことを詳しく教えてもらえますかな」

 流ちょうな日本語に、津田は一瞬言葉を詰まらせたが、半月前、城で時堯と会った時のことや以前に悩まされた悪夢のことなどを語った。

「津田さまは自分の法力がはね返されたとお思いなのじゃな。そうみて間違いはなかろう。そなたは相当の使い手とみたが、その時、いつもと手応えが違ったのではないか」

「確かにあの時、一瞬の迷いがあった。言い訳になるが、あまりにも時堯さまのようすが以前と違っていたし、城に入った時にひどい悪心に襲われたのじゃ」

 テオは大きくうなずいた。

「悪魔の力というのは、人の心にできたわずかな亀裂を見逃さぬものだ。なぜなら彼奴あやつ住処すみかもまた人の精神の亀裂だからじゃ。人の心を悪で染め、操り、さらなる悪を呼び込んで、人が争い殺し合う姿を見るのを無上の喜びとしているのだ。力を増した悪魔は善なる光をも弾き返す。津田さまの力が強ければ強いほど受ける打撃もまた大きくなる。繰り返し見せられた悪夢もまた、そなたを取り込もうとする策略だったのだ。ところが津田さまは修行を積み人並み外れた精神力を持っていた。それでくみしやすいとみた時堯さまに狙いを変えたのじゃ」

「度々現れる三郎という者も悪魔に操られていたということでござるか」

「そうじゃ。三郎は肉体がなくなった今も悪魔に乗っ取られておるのだろう。悪魔と三郎は一体となって時堯さまに取り憑いておるのだ。まあ、面倒な事例ではあるが儂の力をもってすれば容易たやすいことであろう」


 翌朝、若狭とテオは連れだって城に向かった。テオの用意したものは革袋に入った二、三の薬壜だけだった。そんなもので、津田に瀕死の重傷を負わせたという悪魔を退治できるのか疑わしい。若狭はしのばせた懐剣を着物の上から握りしめた。津田に返そうとしたがそれには及ばぬと戻されたのだ。

 肩衣を着け、烏帽子えぼしを被ったテオはなかなか堂々とした姿だった。ところが、城の門が見えてくると、突然立ち止まってしまった。

「ワカサ、儂はこれ以上近寄れん」

「どうしたのです」

「駄目じゃ。儂は城へは入れぬ。城を覆うあの黒い影が見えぬか。一歩足を踏み入れた途端、悪魔に取り込まれるであろう」

 テオはそう言うなり踵を返した。

「でも、ここで帰ってしまってどうするのです。時堯さまの悪魔を祓っていただけないのですか」

「とにかく今は城には入れん」

 テオは老人とは思えぬ速さで道を戻り始めた。若狭は追いすがり、考え直すように頼むがまったく聞く耳を持たないのであった。

「テオ、お願いです。時堯さまを助けてくだされ」

「出直すのじゃ。方策を考えなければならぬ」

「時堯さまには今日行くと言ってしまいました。行かなければまた父母に災いが及びます」

 若狭はくるりと振り返って城に向かって歩き出した。

 後ろからテオが呼ぶ声が聞こえたが振り向かなかった。

 対面の間で時堯を待つ間、若狭は体の震えが止まらなかった。テオの恐れが若狭にも、うつってしまったようだ。

『大丈夫。私は悪魔になど取り込まれはしない。私にはお珠がいる。お珠のために生きて戻らねばならない。時堯さまを助けて必ず戻らねばならないのだ』

 若狭は自分の心に強く言い聞かせた。

 襖が開き時堯が入って来る足音がする。若狭は平伏したまま畳を踏む足音を聞いた。その足音に自分の鼓動が重なる。

「よう来たな、若狭」

 若狭は恐る恐る顔を上げた。時堯は以前の時堯だった。聡明な額や温和な目も、記憶の中の時堯そのままだった。マラッカに発つ前、最後に見た時は、アントニオの言う悪魔にしか見えなかったのはどういう訳なのだ。

「どうした若狭。儂の顔を見忘れたか」

「お久しゅうございます。お変わりなくなによりでございます」

「うむ。若狭も達者でなによりじゃ。そなたがマラッカに行っていたとは。儂はてっきり死んでしもうたかと思ったぞ」

 その言葉にも時堯の真心がこもっていた。ひょっとするともう悪魔は時堯の体から去ったのではないだろうか。時堯は旅の話を聞きたがった。航海の様子からマラッカでの出来事までを、若狭は詳細に語った。

「そういうことがあって薬師と鍛冶屋を連れて参りました」

「そうか、その鍛冶屋は金兵衛に捻子の切り方を教えておるのじゃな」

 嫌な臭いがする。

「はい。今頃は父も捻子を切っていることと存じます」

 臭いは時堯の体から発しているようだ。さっきまで気が付かなかったが、時堯の首や手首の内側に醜く潰れたかさができていた。火筒の話が出てから時堯の様子が微妙に変化している。

「薬師は旅の疲れが出まして休んでおりますが、時堯さまと対面願いたいと申しておりました。あと数日もすれば動けましょうから、なにとぞお呼びよせくださりませ」

 なんとかしてテオを呼び寄せたい。その数日の間にテオならば必ず方策を講じてくれるはずだ。

 若狭は部屋をあてがわれ、その日から城に住むことになった。乳が張ると搾乳して秘かにお珠に届けさせた。考えるのはお珠のことばかりであった。

 数日の間若狭は、早くテオを呼んで時堯から悪魔を祓って欲しい、と切に願うようになった。それはお珠のことだけではなく、悪夢を見るようになったからだ。津田が言っていたように、まるで現実に起きたかのような夢で若狭の心は消耗していった。

 城の中の至る所で嫌な臭いがする。いずれ慣れるだろうと思っていたが、慣れるどころか日が経つにつれて不快感は増すばかりであった。甘さの中に心を苛立たせるような刺々しい刺激がある。それは時堯のそばにいる時に強く臭うようだった。

「時堯さまの首のところの傷は、ずいぶん治りが遅いのでございますね」

 若狭はある日、思い切って言ってみた。

「いかがでございましょう。マラッカから連れて来た薬師に診させては」

「薬ならば儂が自ら煎じているゆえ要らぬ」

 また別の日には、よく眠れぬので薬師を呼んでもいいかと直截に訊いた。すると時堯は、薬師など呼ばなくてもよい、と笑い飛ばした。

「城の中に閉じこもっているのが窮屈なのじゃろう。そなたはそういうおなごじゃ。のう、お珠」

 激しい悪心が若狭を襲う。あの嫌な臭いもかつてないほどの強さで鼻をつく。

「ですが時堯さま。昨晩も時堯さまが戦に出て大勢人を殺す夢を見ました。私は恐ろしゅうて」

 若狭は吐き気をこらえようやく言った。

「お珠のような男勝りの女は外で体を動かすのが一番じゃ。儂も次の戦に備えて鍛えておるぞ」

 しかし時堯は、皮膚の色といい、充血した目といい明らかに病に蝕まれている。とても戦に赴く武将には見えなかった。

「お珠、いつかのように鉱脈の精気を見せてくれ」

「と、いいますと」

「二人で空から見たではないか。阿蘇の向こうの空に火柱が立ち、それが青い龍になった。あの美しさは忘れられぬ。鉱脈のある山にはあのように金の精気や銀の精気が立ち昇るのだと言ったな。他の鉱脈も見せてくれ」

 時堯は直ちに出かけようとするかのように立ち上がった。

「時堯さま、どなたかとお間違えではないでしょうか」

「なにを言う。儂がそなたと誰かを間違えるはずがなかろう。のう、お珠」

「確かに私はお珠でございますが、それは幼き頃の名。今は若狭でございます。時堯さまも先ほどは若狭とお呼びくださったではありませぬか」

「儂がそなたの名を呼び違えたというのか。そなたはお珠じゃ。儂が間違えるはずがない。そなたは儂に日本中の鉱脈を教えるためにここにいるのじゃ。なぜなら鉱山の占有こそが、天下統一のための重要な足掛かりとなるからじゃ。金、銀、鉄、銅、水銀みずがね、硫黄、これらすべては戦のための富と武器とに変わる。他国に奪われる前に全国の鉱山を儂のものにしなければならないのだ」

 時堯からの臭気が耐え難い。若狭は平伏したまま、ひたすら時堯の勘気が解けるのを待った。しかし、時堯は自分の言葉に刺戟され、さらに興奮の度合いを強めていった。言葉が頭の上を行き過ぎていく。怒りの熱を帯びた言葉が自分を直撃しないように、若狭は身を縮めていた。若狭の反応がないことに時堯は苛立っているようだ。一瞬、懐柔するように、「のう、お珠」と声を和らげた。優しい声であった。その優しさに引かれるように頭を上げると、時堯の異様に光る赤い目に射すくめられた。時堯の人相はすっかり変わっていた。

 若狭は声にならない悲鳴を上げて後ずさった。

「儂は何度も試みた。この護摩を焚けばまた鉱脈の精気を見ることができるのではないかと思った。しかし、そなたがいなければ、それは敵わぬのじゃ。そなただけが儂に鉱脈の精気を見せてくれる」

 時堯はそう言って、手に握っていた護摩を香炉にべた。甘ったるく刺激のある臭いが一際強く臭ってくる。

 臭いは若狭の頭を揺さぶり、極彩色の幻覚を見せた。その中では時堯があこうの木の前にいた。何かから逃げてくる志津を捕まえ、生きたまま榕の木に縛り付けた。泣き叫び、命乞いをする志津に構うことなく、時堯は脇差しを抜くと腹を十文字に裂き肝を取り出した。

 若狭の視界が赤く染まった。

『やはり時堯さまがお志津を』

「お珠にも見えるであろう。あの榕の木が。あの森で、そなたとよく語り合ったものじゃ」

 若狭は幻の中の榕が、一枚また一枚と葉を落とすのを見た。志津の血が地面に吸い込まれ、それを榕が吸い上げると葉は枯れて茶色に変色し落ちてしまうのだ。あれだけあった葉はついにすべて落ちてしまった。

 その時、空に火筒の音が響いた。空飛ぶ鳥を撃ち落としたのだろう、白い羽が舞い降りてくる。羽にはあの臭気が色濃く纏わりついている。

『火筒が鳥を撃ったのなら、火薬の臭いがするはずじゃ』

 これは幻だと気付いた瞬間、恐怖で胃の腑が縮みあがった。

『悪魔に取り込まれようとしている』

 そう直感した。

『だめじゃ。私にはお珠がいる。ここで負けるわけにはゆかぬ』

 若狭は搦め捕られた手足を解くように、渾身の力を振り絞って這いずった。無意識のうちに明かりのある方へ這っていったらしい。手に明り障子が当たった。若狭は全身に思い切り力を籠めて障子を突き倒した。新鮮な空気を胸一杯に吸い込み、顔を上げるとそこには、赤ん坊のお珠を抱いたテオが立っていた。

 若狭は頭を振って目を凝らした。霞んだ目には二人の姿が現れては消える。お珠に会いたいと願う気持が幻を見せているのだろうか。しかし幻とは思えないほど血肉が通っているように見える。若狭は思わず声をかけた。

「なぜここに」

「お珠の名を何度も呼んだであろう。赤子と死にゆく者は最も天に近い存在なのだ。ワカサ、悪魔に対峙する方策が立ったぞ。そなたは悪魔をここから連れ出すのじゃ。津田殿もあとから加勢にくる。なんとかして時堯さまを森の榕の木へ誘い出すのじゃ」

「榕の木へ」

 榕の木のもとへ時堯を連れ出したそのあとはどうなるのか。それを聞きたいが、後ろから時堯の足音が迫ってくる。

「急ぐのじゃワカサ。ここにいる限り生身の人間は幻を見続けることになるだろう」

 テオの声が遠くに聞こえる。

 再び時堯に纏わり付いていた臭いがして、若狭はぐっと奥歯を噛みしめた。臭いと幻や悪夢が初めて結び付いた。激しい幻覚に襲われたのは、護摩を焚いた直後からだ。津田が悪夢を見たのは、時堯のそば近くに仕えていた西村の屋敷に寝起きしていたからではないだろうか。西村の着物に護摩の臭いがついていたからか。護摩の臭いと悪魔の思惑とが作用すると、幻や悪夢を見るのではないだろうか。

 若狭は時堯に向き直った。不思議と怖れはなくなっていた。お珠の姿を見て肚が据わったのだろう。

「時堯さま。では森へ参りましょう。あの榕の木のもとでまた語り合おうではありませぬか」

「お珠」

 歓喜に震える時堯の声が、まるで呼んだかのように一陣の風を連れてきた。空は黒い雲に覆われ、秋風のように冷たい風が吹き付ける。

 森に着く頃には、風には雨が交じってきた。雨が木々の葉に当たる。その音が若狭のはるか頭上で、はじけるような音を立てている。森の中は暗く雨は冷たかった。体の奥から来る震えは、寒さからなのか恐怖からなのかわからない。前を行く時堯が時々立ち止まって振り返り、若狭が付いてきているのを確かめる。その顔は次第に醜く崩れ、笑っているようにも見える口元がだらしなく垂れ下がる。

「お珠、榕が見えてきたぞ。懐かしいのう」

 時堯は瘡のできた手を差し伸べる。その手を取るために、若狭は息を止めて思い切らねばならなかった。

 榕の木は前に見たように無残に立ち枯れていた。この木に志津がむごい屍となって張り付けられていたのだ。

 木の根元に、なにか白いものが見える。それは座禅を組んでいる津田だった。若狭がそれに気付くのと、時堯が立ち止まるのは同時だった。

「時堯さま」

「お珠、そなた儂を裏切ったのだな」

「いいえ、そのようなこと」

「四郎と示し合わせ、儂を殺そうとしておる」

 時堯は怒りを露わにして掴みかかってきた。

「時堯さま。あそこにいらっしゃるのは津田さまではありませぬか。よくご覧ください」と時堯の手を掴む。瘡が潰れ、ねっとりとした粘液が手のひらを濡らした。

 津田は白装束に身を包み、半眼で真言を唱えていた。しかし時堯の目に津田は見えないのか、あらぬ方へ視線を彷徨わせている。おそらく津田は法力を使って、自分の姿を時堯から隠しているのだろう。

「本当に四郎はおらぬのか」

「おりませぬ。そのようなお方を私は知りませぬ。それに、私は若狭でございます。あなたさまは時堯さまでございます。種子島家当主の時堯さまでございますよ」

 若狭は時堯の両腕を揺さぶった。

「若狭・・・・・・」

「はい。若狭でございます」

 津田の真言が次第に熱を帯びて高くなる。時堯はそれが聞こえているのかいないのか、崩れた顔を宙に向け、ゆっくりと若狭の目をのぞき込んだ。時堯の頼りなげな目は一瞬、昔の善良な時堯の目になった。

 暗い森に真言が響き渡り、風はさらに強くなった。冷たい雨は心持ち勢いを増したようだった。

「ワカサ、もうしばらく刻を稼ぐのじゃ」

 いつの間に現れたのか、お珠を抱いたテオが津田の後ろに立っていた。

「津田殿は今、雷を呼んでいる。さすれば悪魔を倒すことができる」

「テオ、時堯さまをお助けください。このお方は確かにここにおられるのです」

 テオは悲しげに眉を寄せ何も言わない。

「お珠、だれと話しておる。やはりそなたは」

遠くで雷鳴が起こる。

 お珠が突然泣き出した。

 時堯は訝しげに頭を巡らせた。

「赤ん坊の声が聞こえる」

 彷徨っていた時堯の視線が、榕の木に釘付けになった。

「ワカサ、今じゃ。時堯さまに刀を抜かせるのだ」

 テオは若狭に向かって叫ぶが、お珠の激しい泣き声と津田の真言とがテオの声に重なる上に、いよいよ強くなってきた風雨がそれをかき消そうとする。

「赤ん坊がおる」

 時堯は若狭に背を向けていたが、その凶悪な思念が背中を通して伝わってくる。

「時堯さま」

 若狭が叫ぶ声に、時堯はゆっくりと振り向いた。

「なんじゃ」

 時堯の目は赤い光を放っていた。獲物を見つけた悪魔の邪悪な目だった。

 若狭は津田が拝領した懐剣を取り出し、鞘を払った。

「お珠、なにをしておる」

「時堯さま、志津を殺したのはあなたさまですね」

 若狭は懐剣を胸の前で構えた。

「儂を殺そうというのか」

「志津を殺した者を許さぬと誓いましたゆえ」

 若狭は時堯の胸めがけて突進した。時堯は意外にも身軽に若狭のやいばをかわした。たたらを踏んで振り返ると、ざっと風が吹いて森の木々を揺らした。

「たとえお珠でも許さぬぞ」

 時堯が若狭に襲い掛かり、懐剣を奪い取った。

 その時、暗い空に亀裂が走った。同時に、どん、という音と共に時堯の体が飛んだ。振り上げた懐剣に落雷したのだ。

 テオが、さっと腕を振る。気を失った時堯に、なにかわからない言葉をまるで降りそそぐように投げかけている。左の腕にはお珠を抱き、右の手を決然と振るテオの姿は、なにか神々しいようにも見えた。その手の先には榕の幹がある。一瞬、時堯によく似た男の顔が幹に吸い込まれるのを見た気がした。


 倭寇船がリャンポーに向けて出航する日。若狭はお珠を抱いて港まで見送りに出た。金兵衛と嘉女、津田もテオとの別れを惜しんでいた。テオとルシムは南京を目指すのだそうだ。

「若狭、そなた儂に謝ることはないか」

 テオが口をへの字に曲げた。

「さあ、なんのことでございましょう」

「儂はこの数か月間、一度も黄金の寝台を見なかったし、黄金の盃で酒も飲んでおらぬぞ」

「申し訳ありません。あれで許してもらえぬでしょうか」

 若狭は、日本刀を束にして担いでいるルシムに目を遣った。

「まあ、仕方なかろう。そなたの父母にもずいぶんと世話になった。ところで、時堯さまの容体はどうじゃ」

「ずいぶん良くなられました。まだ手足に多少の不自由はありますが」

 雷に打たれたあと、時堯は数日間、意識が戻らなかった。意識が戻ってからもひと月ほどは寝たきりだった。夏も終わりごろになって、ようやく歩けるようになり、それからはめきめきと回復していった。雷に打たれる前のことは、忘れていることもあるが大体は覚えていた。だが夢の中のことのようだ、と時堯は言う。

「時堯さまは本当に悪魔に取り憑かれていたのでしょうか」

 若狭は、常々心の中にあったことを口にした。

「悪魔の正体は三郎だったということでしょうか」

「三郎はもとは人間であったものが、何らかの原因で邪悪なものに変じたのであろう。もとは天使であったものが堕落したのが悪魔なのだよ。だから儂はたやすく連中を操ることができるのじゃ。しかし三郎は、儂の力の及ばぬものだった。もとが人間であっただけに悪魔よりも手に負えぬということかのう」

 テオは笑ったがすぐに真顔になって、「時堯さまは危ないところであった」と言った。

「時堯さまが焚いていた護摩の中にダチュラの種が交じっておった」

「ダチュラ、ですか」

「そうじゃ、日本では曼荼羅華まんだらげと呼ぶそうじゃな。あれは危険な植物じゃ。人に幻覚を見せるのだよ。幻覚を見せるだけでなく精神をも蝕む。あと少し時堯さまが、護摩を焚き続けていたら、たとえ三郎を祓ったとしても、もとの時堯さまに戻ったかどうか」

「あの時、私はお珠に危険が及ぶと感じて、時堯さまを殺そうと思っていました」

「うむ。儂も時堯さまのお命は救えぬと思っておった。しかし見込み違いがあったおかげで、すべて首尾よく運んだのう」

「見込み違いでございますか」

「儂は、時堯さまの体に入り込んだ者を怒らせ、刀を抜かせるつもりじゃった。そこへ津田殿が法力で雷を落とす手筈だった。しかしワカサに儂の声が聞こえなかったのは誤算であった」

「それでは私が時堯さまに斬られてしまうではありませんか」

「まあ、そういうこともあるじゃろうが、そのときは津田殿が法力でなんとかしてくれるだろうと。ははは。それに、万が一斬られても、ここに世界一の名医がおるではないか」

 高らかに笑うテオを、若狭は横目でにらんだが心の中ではテオに感謝していた。なんにせよ、三郎は時堯から祓われ榕の木に封印された。時堯の命も、テオの懸命な治療で助かったのだ。

 若狭は三郎という男が、百年も前に死んだ者だと聞いて驚愕した。それがなぜ、今頃になってよみがえったのか。それは誰にもわからぬことではあるが、若狭には火筒がこの島にやってきたことが無縁ではない気がしていた。火筒の到来はこの島の男たちの隠れていた残虐な質を目覚めさせてしまったのではないか。

 若狭は小さく首を振った。

『考えても詮ないこと』

 すべては終わったのだ。

 捻子は容易く切れるようになったが、時堯は火筒を量産するつもりはなく、津田と島津にそれぞれ一挺を献上したという。

 春から秋までを種子島で過ごしたテオは、生来の放浪癖が頭をもたげてきたらしい。ルシムは一向に日本語を覚えられないのと、すっかりテオの従者のようになっているので同行することになった。

「お珠のことは、時堯さまに言わぬのか」

 テオがお珠の顔を覗き込みながら言った。

「はい。テオ殿の占術を信じるなら、私の手元に置いて運命を変えてやりとうございます」 

 テオはお珠が人並み外れた美貌と、強い心を持つ娘に成長し、いずれ天下を取る武将の子を生むことになるだろうと予言した。さらにその子も珠と名付けられ、胸にはクルスが揺れているという。

 その予言に若狭は胸を突かれ、お珠の未来に不吉な影を感じた。そして運命に逆らってみようと決心したのだった。

 お珠は鍛冶屋の娘として平凡な人生を歩むだろう。

 若狭は、港を出て行く倭寇船を見送りながらお珠に頬ずりをした。

 乳の匂いが若狭を包む。

 お珠が声を上げて笑った。


                 * 


 運命とは人の手によっては変えられぬものなのだろうか。鍛冶屋の娘として育ったお珠は、どういう巡りあわせか、明智光秀の側室となり一人の娘を産む。娘は長じてキリシタンとなりガラシャと名乗のだった。

 しかし、それは若狭がこの世を去ってのちの話である。



                 〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

プリマ・マテリア 和久井清水 @qwerty1192

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ