第十二話 錬金術師

 若狭はアントニオの母、イラーナの家の家に逗留していた。そこでアントニオの妹の死を知った。半年ほど前にやせ細り、眠るように逝ったという。

 イラーナは、「苦しまなかったのがせめてもの救いだ」と微笑んだが、若狭は涙が止まらなかった。娘を亡くしたばかりでまた息子を亡くしたイラーナの胸の裡を思うと、たまらなかった。アントニオがいなくなってから、教会の善意にすがって細々と暮らしていたが、この先はどうなるのか不安だと言葉尻を濁した。

 イラーナはアントニオが今までどうしていたのかを話してほしいと言う。どのようにして日本の種子島へ流れ着き、種子島でどのように暮らし、どのようにマラッカに戻って来たのかを、若狭は細大漏らさず話した。

 アントニオが西村の屋敷で佐竹を倒した話は、母親を相当に喜ばせたが、母親以上に喜んだのはテオだった。

 テオは若狭から薬代を取り立てるために毎日イラーナの家に来ていた。夜は自分の宿で寝るが朝になるとやってきて、日が暮れるまでいるのだった。

「薬代はいつ払ってくれるのじゃ」

 テオは部屋の隅で、イラーナからもらった酒を飲みながら言った。

「あるところに預けてある。アントニオの身の潔白が証明され、埋葬し終わったら払いまする」

 テオは疑わしげに若狭を見た。

「そなた、儂を騙しておるのではないだろうな」

「だ、騙してなどおりませぬ。アオントニオがあのままではかわいそうじゃ。はやく埋葬してやらねばならぬが、咎人とがにんのままではキリスト教徒の墓に埋葬できぬ。テオ、そなたが天才だというなら、アントニオの無実を証明してくれませぬか」

「なんで儂がそんなことをせにゃならんのじゃ」

 テオは盃を呷り盛大にげっぷをした。

 アントニオの遺体は倭寇の根城の地下室に安置した。今は比較的涼しい雨季であるから、数日ならもつだろうと許盻は言っていた。しかしこの暖かなマラッカでは、いくら雨季でもはやく埋葬しなければ遺体が腐りだすのではないかと心配だった。

「ほんに、こんなクルスのためにアントニオは罪人にされてしまったのですね」

 イラーナは手の中のクルスを悲しげに見た。

「なにが奇跡のクルスじゃ。アントニオの命も救えなかったではないか。これはむしろ不吉なクルスじゃ」

 若狭はこみ上げる怒りを抑えきれなかった。

 いつの間にかテオがそばに来ていた。クルスをイラーナの手から取り上げ、子細に眺めたあと、「これは磁気を帯びておるな」と言った。

「磁気が人の体に何らかの影響を及ぼすことはわかっている。それでたまたま病が良くなった者がおったのだろう。なんでも治るという訳にはゆかぬはずじゃ。アントニオはそんなことも知らなかったのかのう」

「奇跡のクルスだと信じていたようでした。殺されたマヌエル司教のことを心から尊敬していたようです。その方がこのクルスを手に入れたとき、聖母マリアが現れたのだそうです。ですから疑いもしなかったのではないでしょうか」

「それで妹の病を治そうとマヌエル司教に頼みに行った」

 若狭はアントニオからその話を聞いたときのことを思い出しながらうなずいた。

「そんな大事な物なら。そこらに置いておくはずがない。アントニオのように首に掛けておくか、どこかにしまっておくだろう。司教が首に掛けていたとすると……」

「アントニオがマヌエル司教のところへ行ったときには、すでに死んでいたと言っていました。アントニオが死体からクルスを取るなんて考えられませぬ」

「そうじゃ。それならクルスの置き場所を知っていたということか」

 そんな大切なクルスの場所を教えてもらえるほど、アントニオは信頼されていたということだろうか。それに、司教が殺される日に、なぜアントニオは出かけて行ったのだろう。若狭がその疑問を口にすると、イラーナはその日の事は思い出すのも辛くて考えないようにしていた、と言いながら記憶をたどり始めた。

「娘は長いこと寝付いていました。医者にも診せ、いろいろな薬も試しましたが少しもよくならず、だんだん弱っていくのを私とアントニオは辛い思いで見ているしかなかったのです。そんな時、ゴアからマヌエルさまが司教としてマラッカの教会に赴任されることになりました。マヌエルさまの評判はこのマラッカにも聞こえていました。アントニオはマヌエルさまに心酔しておりました。それで、なんとか妹にも奇跡を起こしていただきたいと、お願いしていたのです」

「それでマヌエル司教は承諾したのですか」

「それがアントニオとは直接話をできるようなおかたではありませんので、人伝にお願いしていたのです。それで、あの日……」

 イラーナは遠い目で続けた。

「あの日、マヌエルさまから使いが来たのです」

「使いが」

「はい。話を聞いてやるので家に来るようにと。アントニオは喜んで出かけて行きました。私も娘もどれだけ喜んだかしれません。でもアントニオはそれきり帰ってこなかったのです」

「アントニオは追手が待ち構えていたので家には入れず、出航間近の倭寇船ジャンクに乗り込んだのだと言うておりました」

「その船で日本に行き、ワカサに出会ったのですね。それがせめてもの救いです。アントニオはひと時でも幸せだったということが」

 若狭の胸がちくりと痛んだ。

「おかしいとは思わぬか」

 酒を飲みながらクルスをひねくり回していたテオが言った。

「なにがおかしいのです」

「マヌエルの家で死体を見つけ、クルスを持って自分の家に向かった。すると追っ手が家の前で待っていた。手際のよいことじゃな」

 若狭は、「あ」と小さく声を上げた。

「するとアントニオは嵌められた、ということでしょうか」

「アントニオは誰かに恨まれていなかったか」

 テオがイラーナに問うと、イラーナは即座にそんなことは考えられないと答えた。 母親ならばそう思うのも当然だろう。しかし若狭もアントニオなら人に恨まれるようなことはないと確信を持って言える。たとえ村田屋をあやめた男だとしても。

「イラーナ、その使いというのは知っている者でしたか」

「それが、戸口のところで話をしていたので誰が呼びにきたのか、私にはわからないのです。でもアントニオはよく知っている人のようでした」

「マヌエルを殺して得をしたもの。あるいはアントニオがいなくなって得をした者がいるということでしょうか」

 若狭はいつの間にかテオを信頼していることに我ながら驚いていた。飲んだくれの誇大妄想狂だと警戒していたのだが。

「そうじゃな。どうだイラーナ、そういう者に心当たりはあるか」

 イラーナは首を振るばかりだった。

「たとえアントニオの存在が邪魔だとしても、こんな手の込んだことをするでしょうか。人徳のある司教を殺してまでアントニオを陥れるとは考えられません」

「儂もそう思うな」

「とすると、司教を殺害することで得をする者……今の司教……でしょうか。自分が司教になるためにマヌエル司教を殺した」

「よし、儂が教会へ行って探ってこよう」

 止める暇もなくテオは外へ飛び出していった。若狭はイラーナと顔を見合わせた。 信頼できそうだと思ったことを後悔した。

「テオなら司教さまに直接、あなたが犯人でしょう、などと言いそうですね」

 若狭が言うとイラーナは笑った。初めて見る笑顔だった。

「イラーナ、私はあなたに言わなければならないことがあります」

 もっとはやく言いたかったのだがアントニオが亡くなったばかりだったし、ずっとテオがいたので、などと長々と言い訳をした。その間もイラーナは丸い正直そうな目で若狭の言葉を待っていた。

「実は、アントニオとは結婚していないのです」

 なぜ夫婦だと偽ったのか、経緯を話すと最初は驚いていたイラーナだが、だんだんと悲しげな顔つきになってきた。

「あなたはエクソシストを見つけたら、日本に帰ってしまうのですね」

「イラーナ、私は種子島の王、時堯さまを助けたいのです。どうか許してください」

「許すもなにも……アントニオがお世話になったかたですもの」

 そう言われると、若狭は苦しくてたまらなかった。世話になったのは若狭のほうなのだから。

「アントニオはリャンポーの友人がエクソシストを知っているのだと言っていました。でも、リャンポーには上陸できず、その人に会うことができなかったのです。私は名前すら聞いていませんでした」

「リャンポーにいる友達といえばオルランドではないでしょうか。マラッカにいた頃には親しくしていましたから」

「ではそのオルランドがよく知っているエクソシストというのはご存じですか」

「さあ、それは。でも近頃評判の高いエクソシストなら知っていますよ」

 若狭はイラーナと一緒に、エクソシストを訪ね教会へ行くことになった。その神父の名は、クリストヴァン・ロドリゲス。アントニオがあんなことになってから、なにかとイラーナの面倒を見てくれるのだそうだ。教会の中ではアントニオは人望が厚かったらしく、殺人犯であることにはほとんどの人が懐疑的なのだという。

「クリストヴァンにも、ワカサはアントニオの妻だということにしておいてはどうでしょう。クリストヴァンに、はるばる日本へ来てもらうのなら、そのほうがいいと思うのです」

 イラーナの言う通り、若狭はもうしばらくアントニオの妻でいることにした。

 表通りに出て教会へ続く道に差し掛かった時、向こうから五峰と許盻が連れ立って歩いてくるのが見えた。若狭の心臓は縮みあがった。

「イラーナ、こっちへ」

 イラーナの腕を引いて、家と家の隙間に身を隠した。

「どうしたのです」

「船賃を催促されているのです」

 息をひそめて通りを窺うと、五峰と許盻は若狭たちには気づかずに前を通り過ぎていった。ほっと息をつき、二人は教会に向かった。

「リャンポーでオルランドにあったなら、その人から銭を借りるつもりだったのです。オルランドは、なんでもマラッカに金山を持っているとか」

「オルランドが金山を持っているなどという話は聞いたことがありませんが」

「そうなのですか? 私はアントニオを頼りにここまで来ましたが、アントニオはオルランドをあてにしていたので、とても困っています」

「船賃が払えなければ、日本へも帰れないのではないのですか」

「私の父は刀鍛冶なのです。日本へ帰れば五峰たちが珍重している日本の刀剣で払うつもりでいるのですが、うまく話を付けられる自信がないのです」

 そんな話をしているうちに教会に着き、エクソシストのクリストヴァンを呼んでもらった。

 クリストヴァンは色の浅黒い大きな男だった。黒く短い髪は縮れていて眉が太く目がくぼんでいた。イラーナを見ると両手を広げ大げさな身振りで、「元気ですか。変わりはないですか」と迎えた。

「ありがとうございます。おかげさまで、なんとかやっております」

 ひと通りの挨拶がすむと、若狭をアントニオの妻だと紹介した。

「するとアントニオは帰って来ているのですか」

「はい。帰って来るには来たのですが、すぐに死んでしまったのです」

 クリストヴァンは、「なんということだ」と嘆いて、長い時間アントニオのために祈ってくれた。祭壇の奥の壁にはクルスに磔にされたキリストの像が掛けられている。船の中でアントニオから、キリストの話は繰り返し聞いたし、アントニオの持っていた聖書ビブリアも少し読んだ。それでも手足を釘で打ち抜かれたキリストの死の様をこのように像に刻み、日夜祈りを捧げるのは残酷に感じられて馴染めなかった。

「それで、アントニオが奪ったとされているクルスはどうしました」

「私が持っています」と若狭は首から下げているクルスを着物の中から引っ張り出して見せた。

「これは人に見せない方がいい」

 クリストヴァンは、慌てて若狭にしまうように言った。

「そうですね」と若狭は胸元にクルスを滑り込ませた。

「これを持っているということは、アントニオが殺したと言っているも同然ですものね。無実が証明されて本当の犯人がわかったときに、クルスはしかるべき人の元へ渡したいと思っています。アントニオもそれを望んでいました」

 だからこそ安東は西村の屋敷を出る時に、津田に預けたクルスをわざわざ持ってきたのだ。

 教会の中は薄暗く、高い天井の近くにある窓から光は射し込んでくるが、若狭のもとに届くうちに、薄墨色のしゃを掛けたような色合いになってしまうのだった。

 何列にも並んだ木の長椅子の一番前に腰掛け、三人は思い出話を交えながら、アントニオがマラッカを出て戻ってくるまでを語り合った。若狭はイラーナに話して聞かせたことを、今度はかいつまんでクリストヴァンに話した。

「アントニオの身の潔白が証明され、埋葬が済んだらクリストヴァンさまにお願いがあるのです。どうか私と一緒に日本へ行き、悪魔に取り憑かれた種子島の王を救っていただけないでしょうか」

「日本へ、ですか。それはまた遠い所へ」

 クリストヴァンは眉を寄せて笑ったが、「私はここで必要とされていますので」と真顔になって遠まわしに断った。

 若狭も一度で承諾してもらえるとは思っていなかった。承知してくれるまで何度も足を運ぶつもりだ。

 いつしか話は、いまの司教へと移っていった。クリストヴァンが言うには、なかなかの人格者でマヌエル司教が殺された時には、まだゴアにいたのだそうだ。マヌエルが殺され急きょマラッカへの赴任が決まったという。

 教会を辞したあと、若狭とイラーナは港へ出てみた。マラッカに着いてからというもの慌ただしく時を過ごしていたので、まだマラッカの海をよく見ていなかったのだ。

 海が故郷の種子島に続いていると思うと、寂しさも辛さも耐えることができた。だがマラッカの海は、これまで見てきた海とはずいぶん違っていた。まず海の色が違う。種子島の海は濃い紺碧の海だったが、ここは青というよりむしろ緑に近かった。真っ白な砂浜は、種子島の砂鉄を含んだ黒い砂浜を見なれた目には、まるで塩の結晶に見えた。そうなると空の色までが違って見えた。果たして、このように遠い場所から種子島に帰ることができるのか、若狭には、いよいよ心もとなく思われるのだった。

「司教さまが殺人を犯したなどと、一瞬でも疑ったのを申し訳なく思います」

 イラーナは波に浮かぶ白い水鳥を目で追いながら言った。

 若狭もそれは同感だった。今の司教が人格者だと聞けば、自分が司教になるためにマヌエルを殺すなどとはありえない話だ。しかもその時にはマラッカにはいなかったのだから。

 翌日、若狭は再び教会に来た。マヌエルが殺された日、だれがアントニオを呼びに来たのかを調べるためだ。

 手始めに厨房へ行った。下働きの女たちがたむろしているところへ、おずおずと近づく。すると若狭の顔を見て、まるで知り合いにでも会ったように笑顔を返してきた。そして、「あなたがアントニオの妻か」と訊くのだ。

 話を聞いてみると、昨日テオがやって来て、若狭の話をしたのだという。あちこちでいろいろと訊きまわっていたので、教会の中では若狭のことは誰もが知っているらしい。

 女たちは、「アントニオは気の毒だった」とかわるがわる若狭を慰めてくれた。肝心のマヌエル殺しについては、はかばかしい話は聞けなかった。ここの女たちは入れ替わりが激しいので、その頃のことは知らないのだそうだ。落胆する若狭を気の毒に思ってか、庭師の男なら、もう何年もここで働いている、と教えてくれた。

 庭師は真っ黒に日焼けした、痩せた老人だった。庭師も若狭を見ると、「日本から来た人だね」と歯の抜けた口で不器用に笑ってみせた。この男はマレー人だった。

 若狭がマヌエル司教が殺された日のことを聞きたいと言うと、「昨日も聞かれたが、すまんのう」とようやく通じるポルトカル語で謝るのだった。

「あんときは、俺は孫が生まれたんで休みを貰って、顔を見に行っとったんじゃ。三日ぶりに仕事に出てみれば司教さまが殺されたって、大騒ぎだった」

 だから、役に立つような話はできないと言う。

「そうですか。ではマヌエル司教やアントニオと揉め事があった人など知りませんか」

「司教さまもアントニオも、人と争ったりするような人ではないからねえ。俺にはわからねえな」

 若狭は礼を言って帰るときに、「どんなことでもいいので、なにか普段と違うことがなかったかどうか、思い出したら教えてください」と付け加えて、イラーナの家の場所を教えた。

「あ、そういえば」と庭師は帰りかけた若狭を呼び止めた。

「前にはよく来ていたマレー人の男がいたんだが、司教さまが亡くなったあと、ぱったり見なくなったんだ。だけど今朝久しぶりに見たな。俺が挨拶しても知らん顔して行っちまったよ」

「その人も教会で働いていた人ですか」

「いいや、ちょくちょく教会に来ていたが、どんな用だったのかは知らない」

 庭師はだれのところに来ていたのかも、そのマレー人の男の名前も知らないと申し訳なさそうに言った。

 若狭は教会を出て商館に向かった。テオがそこにいると聞いたのだ。今朝、久しぶりに現れたマレー人の男、というのが気に掛かる。どうやってその男を探したらいいか、テオの知恵を借りるつもりだった。

 テオは商館の中ほどで、ポルトガル人の役人風の男となにやら話し込んでいた。商館の中は天井が高く広々としていた。太い柱がいくつも立っている。箱詰めにされた商品や樽などが至る所に積み上げられ、商談をしているのだろうか、ポルトガル人の他、異国の衣をまとった人々が話をしていた。

 入り口でためらっている若狭に、テオは入って来るようにと手招きした。大勢の人がみな忙しく立ち働いているので、場違いな若狭をだれも見咎めることはなかった。

 二人は奥にある小さな部屋に入った。小さいけれどもそこは、立派な家具の置かれた部屋だった。どうやら商館長の部屋らしい。テオは我が物顔に一番大きな椅子に座り、若狭にも向かいの椅子に座るように言った。驚くほど座り心地のいい椅子だった。

「儂は商館長の病を治してやったことがある。それ以来、ここでは儂は特別な待遇を受けるようになったのじゃよ。ワカサ、お前にいいことを教えてやる。実はな、儂は死んだ人間なのだ」

「死んだ?」

「そうだ。儂は三年前に死んだとされている、偉大な医者で化学者で錬金術師、そして占い師であり悪魔使いであるパラケルススなのだ。どうだこれで儂を尊敬する気になっただろう」

「あなたはパラケルススという名前なのですか」

「なんだその顔は。なぜ驚かぬ。パラケルススがここに生きておるというのに。お前はパラケルススを知らんのか」

「知りませぬ」

 テオはがっくりと肩を落とし、ぶつぶつと文句を言った。

「テオ、そんなことより、あなたはいろいろと教会の人に訊ねてまわったそうですが、なにかわかりましたか」

「おお、それだ。司教は関係ないことがわかった」

「まさか司教さまに直接訊いたのですか」

「そんなことをするか。馬鹿め」

 テオは自分で司教がゴアにいたことなどを調べたらしい。

「ではアントニオを呼びに来た者は?」

「それがどうしてもわからぬ。マヌエルはその日、来客があると言っていたそうだ。その客というのはアントニオだったとだれもが思ったらしいが、アントニオの前に来た者がいたに違いないのだ」

「その者がだれかわかればいいのですが」

「そうだ、面白い話を聞いたぞ。マヌエルが持っていたクルスはめったなことでは人に見せないのだが、見せて欲しいと度々頼んでくる男がいて困っている、というようなことを言っていたらしい」

「怪しいですね。その男」

「うん。怪しいな。クルスを見たがっていた男がだれなのか、知っている者がいないかほかを当たってみよう」

 若狭は、庭師から聞いた不審なマレー人をどうやって探したらいいか、と訊いた。 テオはマレー人に知り合いが何人かいるので、それも訊いておいてくれるという。

 若狭はイラーナの家に帰るつもりで商館を出た。商館の前の広場は、荷揚げされた荷を運ぶ男たちでごった返していた。人や荷にぶつからないよう歩いていると、後ろから勢いよく誰かがぶつかってきた。その者と、もつれるように倒れた。揉み合うようにして地べたを転がり、気が付くと子供が一人走り去っていった。

 若狭はすぐに懐剣がなくなっていることに気が付いた。人をかき分け子供を追いかける。

 子供が逃げ込んだ狭い路地に入ると、突然頭に袋のようなものを被せられ、うつ伏せに倒された。後ろ手に両手を縛られる間、マレー語と思われる男の声がなにかを言った。すると、さっきの子供なのだろうか、小さな手が若狭の首をまさぐってクルスを引っ張り出し持ち去った。

 男と子供が遠ざかる足音が聞こえる。若狭は恐ろしさで震えるばかりで身動きができなかった。

 どのくらいそうしていただろう。ようやく震えが止まると、やっとの思いで身を起こし頭を振って袋を落とした。袋と一緒に黒い粉が膝の上に落ちた。目の粗い袋にはその粉が大量に付いていた。

 縛られていた手は、何度か動かすと簡単に縄がほどけた。路地を出て表通りに出る。人が若狭の顔を見て驚いたり笑ったりする。

 腹を立てて広場を横切ろうとすると、ばったりと許盻に出会った。若狭は、「あ」と声を上げて立ち止まったが、許盻は若狭にすぐには気が付かない。わずかな間のあと、「若狭ではないか」と叫んだ。

「その顔はどうしたのだ」

 袋に付いていた黒い粉で顔が真っ黒だったらしい。人が見て笑うはずだ。

 許盻はイラーナの家までついて来てくれた。そこにはテオも来ていた。たったいまマレー人らしい男に襲われた話をすると、テオは珍しく気が咎めたように言った。

「若狭が日本人だと言ったからかのう。黄金を持っていると思ったか」

「私はそうは思いませぬ。最初からクルスが狙いだったという気がします。ひょっとすると、マヌエル司教はクルスのために殺されたのではないでしょうか」

「奇跡のクルスを手に入れるために、か。もしそうだとすると、クルスを見たがっていた男が犯人ということになるな」

 テオはイラーナの家に酒を飲みに来ていたのだろう。飲みかけの盃を置いて腕を組んだ。

「しかし、なぜアントニオを巻き込んだ」

「だれかを犯人に仕立てれば、自分は疑われないと考えたのかもしれませぬ」

「それがアントニオか。だが、クルスを手に入れるために殺したのに、その時は手に入れられなかったのだな。アントニオが持っていたからな」

「そうですね。殺しておいて目的の物を盗らないなんて、おかしいですね」

「まあ、いろいろあって大変だろうが」と許盻が立ち上がりながら言った。

「そろそろ船賃を払ってくれ。五峰にもまだかと催促されている」

 許盻が行ってしまうと、テオは若狭を睨み付けた。

「なんじゃ、ワカサ。お前は船賃も払っておらぬのか。さては銭を持っておらぬのだな。黄金をあるところに預けてあるというのも嘘なのじゃな。やはり儂を騙したな」

「騙してはおりませぬ。銭は持っていないが、黄金を預けてあるというのは半分は本当じゃ」

 若狭は苦しい言い逃れをした。

「なんだその、半分本当というのは」

「リャンポーにオルランドというアントニオの友人がいるのですが、そのオルランドの知り合いに金山を持っている人がいるのです。その人から借りるつもりでした。でもリャンポーには上陸できず、オルランドの知り合いというのもわからないのです」

 テオはたるんだ頬と腹を揺らして大笑いした。

「なにがおかしいのです」

「オルランドの知り合いとは儂のことじゃ。お前は儂の銭をあてにしていたというわけか」

「ええっ」と若狭とイラーナは一緒に叫んだ。

「オルランドめ。儂のことを金山と言ったか」

 若狭はてっきりオルランドのことを失礼な奴だと憤慨しているのかと思った。

「儂は金のる木と言っておったのに」

 どうやら自分のことをそう言っていたらしい。

「金の生る木とはどういうことですか」

「そのとおりの意味じゃ。儂はいくらでも黄金を作りだせる錬金術師なのだ」

 そういえば、自分は偉大な医者で化学者で錬金術師で占い師だと言っていた。そのあとに言っていたのは……。

「テオ、悪魔使いとはなんじゃ。エクソシストのことか」

「そんなものじゃない。エクソシストは悪魔を祓うと言いながら、自分が取り憑かれたりする間抜けな神父のことじゃ。儂は違うぞ。悪魔に負けたことはない。なにせ彼奴あやつらは知能が低いでな。所詮儂の敵ではないのだ」

「悪魔を封印したりもできるのですね」

 テオは得意げに鼻をうごめかした。

「テオ、私と一緒に日本に行ってくれますね」

「なぜ、儂が行かねばならぬのじゃ」

「日本の種子島の王が悪魔に取り憑かれているのです。このままでは種子島の領民がどうなるかわかりません。お願いです。悪魔を祓ってください」

「銭も払わぬやつが、なんという厚かましいことを言うのじゃ。儂は帰る」

 若狭が待ってくれと懇願したが、「銭のないやつに用はない」と言い捨てて、さっさと出て行ってしまった。

 気落ちしている若狭に、イラーナは黙って肩を抱き寄せた。

「大丈夫です。イラーナ。きっとなんとかなるでしょう。まずはアントニオの汚名をすすがなければなりません。明日はもう一度、教会へ行って調べてきます」

 イラーナは腕に力を籠め、「ありがとう」と涙声で言った。


 翌朝早く、テオが旅支度をしてやってきた。

「ワカサ、早くせい」

「早くとは、なにをです」

「黄金を作るところを見たかろう」

 テオはにやにやと笑っている。別に見たくもないが、ここでテオの機嫌を損ねてはならぬと、イラーナに手伝ってもらって支度をする。水と食料を持ち、頭に布を被った。

「毒蜘蛛や毒蛇がおるからな」

テオの差し出した塗り薬を手足に塗った。

 城壁を出てジャングルの中を半刻も歩いただろうか、開けた土地にマレー人の集落が現れた。

「ここは鍛冶屋が集まって暮らしている村じゃ。お前の父も鍛冶屋だったな。黄金の作り方を教えてやったら喜ぶぞ」

 テオは意味ありげに笑った。

「黄金を作れるものでしょうか」

「世の中の多くの者が黄金づくりに労力と時間を費やしているが、できたものはいない。だが儂にはできる。天才だからな」

 鍛冶屋の村といっても鍛冶屋だけが住んでいるわけではなく、ここで生活するために必要なものは一応揃っているようだ。狭い畑も見えるし竹細工を作っている男もいる。床の高い家が住居なのだろう、鍛冶場や畑の間にいくつも建っていた。屋根を掛けただけの鍛冶場ではたくさんの男たちが鎚を振るっていた。腰に布を巻き付けただけの姿だった。鍛冶のすぐそばには犬が寝そべり、女や子供も自由に出入りしていた。

 若狭は自然、父の仕事場と引き比べていた。種子島の鍛冶場は注連縄を張り、俗界とは厳密に切り離された清浄な場所だった。鍛冶場には必ず神棚があり火の神を祀っている。鍛冶屋は水垢離を取り心身を清めて火の神の力を借り、強靭な鋼を作るのだ。

 しかし、この村の鍛冶屋はなんと暢気で明るく自由なのだろう。

 雑然とした鍛冶場で、よく日に焼けたマレー人が鍬に似たものを作っていた。

 テオはそこを通り過ぎ、少し離れたところにある鍛冶場の前で足を止めた。

 そこでは小刀を作っていた。先端から持ち手に掛けて扇を半分開いたように幅が広くなっている。両刃の小刀は刃がまっすぐのものもあれば波打っている者もあった。日本では見ない形に、若狭は思わず身を乗り出して見入っていた。

 テオはマレー語で鍛冶屋と話をしている。顔見知りのようで和やかに話をしたあと、「ワカサ、こっちだ」と隣の鍛冶場へ連れていかれた。

 一際広い鍛冶場を見回して若狭は息を呑んだ。ものすごい数の火筒が専用の木の台に立てかけてあるのだ。それは父金兵衛が作っていたものとまったく同じだった。

 手に取って見ていいか、と断って子細に見てみると、細部に至るまでそっくりだった。ポルトガル人が持ってきた火筒はここで作られたものだったのだ。しかし筒の鋼や、火挟みなどの作りは金兵衛が作ったものよりも荒いという印象を受けた。

 若狭は胴金を外し尾栓どうがねびせんを確認した。尾栓は固く締められていたが捻子ねじが切られていた。

「テオ、この尾栓の捻子はどうやって切るのか訊いてもらえませぬか」

 座り込んで火筒を分解する若狭を、テオは目を丸くして見ていたが、若狭の真剣さに気圧されてマレー人の鍛冶屋に訊いた。

 マレー人は鍛冶場の隅を指差した。手のひらほどの大きさの鉄の棒が無造作に置いてある。

「その道具を使うらしい」

 見たところ特に複雑な道具でもない。これをどう使うのか見せて欲しいと頼むと、テオもマレー人も怪訝な顔をした。無理もない。鍛冶とは縁のなさそうな女が捻子切りの道具に異様な関心を示しているのだから。

 若狭は故郷の種子島で、父親が火筒を作っているのだと説明した。

「種子島の王から直々に頼まれて作っているのですが、尾栓の捻子の切り方がわからず悩んでいるのです。この道具があれば捻子を切ることができるのでしょうか」

「無理だと言っておる。こつがいるのでお前にはできぬと」

「私がやるのではありません。日本の鍛冶屋がやるのです」

「それでも道具があればできるというものではないと言うておる」

 マレー人は面倒くさそうに首を振って背を向け、仕事を始めてしまった。

「まあ、諦めろ。お前ではなく父親が来ていれば、なろうて帰れただろうが」

「テオ、その捻子切りはいくらで売ってくれるか訊いてくだされ」

 若狭は諦めきれず食い下がった。

「銭も持っていないのに、なにを言うか」

「これからテオが山ほどの黄金を作ってくれる」

 テオは呆れて肩をすぼめた。

 黄金を作るための道具は、この鍛冶場に預けてあったらしい。テオは火床ほどに火を入れるため炭の入った袋を持ってきた。それを見て思わず声が出た。盗人にクルスと懐剣を盗まれた時、頭に被せられた袋と同じだった。あの黒い粉は炭のようだと思ったが、やはりそうだったのだ。

「テオ」と、そのことを言おうとした時、通りからこちらを見ていた子供が若狭を見て、はっと息を呑み、慌てて走り去ったのだ。

「テオ、昨日の盗人がそこに」

 若狭は皆まで言わず、あとを追いかけた。

 子供の足は異様に速かった。若狭はあっという間に見失ってしまった。遅れてやってきたテオは息を切らしながら言った。

「あの子供なら知っておる」


 村のはずれにある高床の家には子供が六人ほど暮らしていた。子供といっても年長者は十六、七歳だろうか、大人とさほど変わらない体格をしていた。その中の一番年下が、さっきの子供なのだそうだ。六人の子供たちはみなしごで、ここで村の仕事を手伝うなどして共同生活をしている。

 テオは年嵩の男の子とマレー語で話している。十歳くらいの女の子が洗濯物を干していた。若狭は下から家の中を覗いてみた。高床の家は古く、手入れをされているとは言いがたいが、中は思いのほか整理されていて住み心地は良さそうだった。

「ワカサ、ここの子供たちはみな働き者で、盗みをするような子供ではないのだ。儂も何度か仕事を手伝ってもらったことがある。さっきの子供はディンというのだが、ディンも盗みを働くような子供ではない」

「それではなぜ私の懐剣を盗ったのでしょう」

「ルシムという飲んだくれのろくでなしがおってな」

 テオにそう言われる男とは、いったいどれほどの者だろう。

「そいつは最近、ディンを使って悪事を働かせているのじゃ。盗まれたものもルシムのところにあるに違いない」

 テオと一緒にルシムの家に行ってみたが留守だった。テオは主のいない家に構わずに入っていくので若狭も続いて入った。風通しのいい家は外よりもずっと涼しく、住み心地はよさそうだった。だが一人暮らしだという家の中はあまりの散らかりようだった。テオは手当たり次第に物をひっくり返し家探しをする。

「盗んだものを隠しているかと思ったが見つからぬな。ルシムは女房が死んでから仕事もせずにぶらぶらしていたのだが、まさか泥棒に落ちぶれていたとはな」

 あとでもう一度来ることにして、二人はもとの鍛冶場に戻った。

「ルシムはなんの仕事をしていたのですか」

「鍛冶屋じゃよ。腕のいい鍛冶屋だったのだがな」

 鍛冶屋と聞いて、また志津の兄のことを思い出した。奴隷として売られた佐平はどうしているのだろう。まさかルシムという男のように道を踏み外してはいないだろうか。

「ワカサ、なにをしておる。もっと風を送らぬか」

 テオに叱られ、気が付くとふいごを押していた手がおろそかになっていた。黄金を作るところを見たいだろう、などと言って若狭を連れてきたが、本当の理由はこうやって手伝いをさせるためだったのだ。

「まったく、鍛冶屋の娘だというのに要領がわるい」

「私は炭をおこしたことなどありませぬ。鍛冶はおなごのする仕事ではありませぬから。鍛冶場にも入ったことがないのです」

 若狭は板に蛇腹のついたふいごを力いっぱい押した。火のついた炭が音を立てて赤く燃え盛る。金兵衛の鍛冶場にあったふいごとは形がまったく違うが、父もこうやって炭を熾し鋼を鍛えているのかと思うと懐かしさで胸が熱くなる。

 日が暮れる頃、テオの仕事は一段落したようだ。若狭も仕事から解放されほっと一息ついた。

「こんなに簡単に黄金ができるとは知りませんでした」

「馬鹿者、この作り方を発見するまでにどれほどの苦労があったと思うておる。穀粒こくつぶは穀粒を生み、人は人を生む。そして金は金を生む。そう言われていても、久しい間黄金を作り出せるものはいなかった。儂はアリストテレスの言うところの四大元素、すなわち土、空気、水、火が世界を成立させているという考えを進め、四大元素は硫黄、水銀、塩の三原質から成り立つと考えた。硫黄は物質に燃える原質を与え、水銀は液態と気態の性質を与える原質であり、塩は物体に気化しない原質と燃えない性質とを与える。この三原質はどこまでも原理的な質であって、質の変化に応じて様々な種類の金属があるのだ。つまり、金と鉄や銅、鉛などとでは含まれている三原質は別の種類なのだ。だから原質の種を変化させればどんな金属も金や銀になりうる。金の原質は完全なものだが、鉄や鉛の原質は不完全な病んだ原質なのだ。病める不完全な原質を治療してやれば金となる」

 テオは、「どうじゃ」と誇らしげに言い放ったが、若狭にはなんのことかさっぱりわからなかった。

「黄金を作り出せたのは、世界広しといえども儂だけじゃ」

「とにかく、これが冷めれば黄金になるのですね」

 テオは拍子抜けして、「まあそうじゃ」と答えた。

「黄金が作り出せるのなら、なぜこのようなところに居られるのですか。あまり裕福そうにも見えませぬが」

「そこじゃ。儂は死んだことになっていると言ったのを覚えておるか」

 そういえば、いいことを教えてやるともったいぶったわりに、つまらない冗談を言ったことがあった。

「儂はザルツブルグの酒場で刺客に追われてな、間抜けな客が身代わりになってくれたので、なんとか逃げることができたのじゃ。儂の作った黄金で払った代金を試金石しきんせきで確かめた馬鹿者がおってな。偽ものだの騙されたの、と大騒ぎをしよったのじゃ。まったく腹立たしい」

「テオ、それでは今作ったものは、黄金ではないのですか」

「厳密に言えばそうじゃが、儂の黄金は黄金よりも黄金なのだ」

 意味がわからなかった。ふいごを押し続けた腕が急にだるくなる。

 だが若狭の頭に素晴らしい考えが閃いた。

「テオ殿、私もそなたにいいことを教えて差し上げましょう」

「ほう、なんじゃ」

「実は私は日本の王の乳兄妹ちきょうだいなのです」

「お前は鍛冶屋の娘ではなかったのか」

「鍛冶屋の娘ですが、母が王の乳母なのです。私は王と兄妹同然に育ちました」

 誇張と嘘が交じっているが、それほどの大嘘でもない。しかしこの先は嘘になるが仕方がない。

「いままで黙っていたのは、そなたが信用できる人物かどうかわからなかったからでございます。私を日本に連れて帰り、悪魔に取り憑かれた王を救ってくだされば、褒美は思いのままでございます」

「そなたを日本に連れて帰るということは、儂が五峰に船賃を払うということか」

 心なしかテオの言葉遣いが丁寧になっていた。

「そうでございます。そなたの、黄金よりも黄金だという黄金で払ってくださいませ」

「ふむ。日本はなにもかも黄金でできているというのはまことか」

「なにもかも、というわけにはまいりませんが、たいていの物は黄金でできております。黄金の寝台で眠り、黄金の盃に黄金を浮かべた酒を飲みまする」

「ほう」

 もう、やけくそだった。

「人々は黄金の器で飯を食べ、黄金の桶で顔を洗います。王は黄金の糸で織った着物を着て黄金の帯を締めておりまする」

「それほど黄金があるのに、なぜ一つも持たずに船に乗った」

「それは……とても急いでいたからでございます。それに、日本ではありふれております物ゆえ、これほど人々が欲しがるものだとは思いませなんだ。私の願いを聞き届けてくだされば、思うままの褒美を約束いたしまする」

 テオの頬がわずかに緩んでいる。目は相変わらず抜け目なさそうに光っているが、そこには期待の色が浮かんでいた。

「思うままか」

「はい。なんでも思うままでございます」

 テオはゆっくりと振り返って、できたばかりの黄金を確かめ、袋に詰め始めた。

「ワカサ、手伝うてくれ」

「はい」

 黄金は袋に二つになった。若狭はその一つを持たされた。両手で抱えるとずっしりと重い。

「ルシムのところへ参るぞ」

 テオの張り切っている横顔を、若狭は多少の後ろめたさを持って見ていた。

 その日、ついにルシムは帰ってこなかった。若狭とテオは鍛冶場の隅で眠り、翌朝早くにもう一度ルシムの家に行ったが、やはり姿はない。ディンに話を聞くために、みなしごたちの家に向かった。

 ディンは若狭から隠れるように、年長の少年の陰に座っていた。テオと話をしている間も、ちらちらと落ち着きなく若狭を盗み見る。

 若狭はディンが利発そうな顔をしているだけに、余計にかわいそうだった。

「ディンはルシムの居場所は知らないと言っておる。ルシムはだれかに命令されて、若狭のクルスと懐剣を盗ったのだそうだ」

「テオ、もうルシムの言うことを聞いてはいけないとディンに言ってくだされ」

「儂も前からそう言っておるのだが、ルシムに脅かされれば言うことを聞かぬわけにゆかぬのだろう」

 ルシムの行方はどうしてもわからなかった。何度か村に足を運んだが姿を見たものは誰もいない。

 若狭とテオは毎日のように教会に出掛けていったが、はかばかしい結果は得られなかった。ただ、庭師の言っていた、以前によく教会に来ていたマレー人というのが、ルシムであることがわかった。

 そんな時、許盻が若狭とイラーナを呼びに来た。アントニオの遺体を見て欲しいと言うのだ。そろそろ手を打たなければ遺体が臭ってくるだろうと、許盻が地下室に降りて行くと、アントニオはまるで眠ってでもいるように、少しも傷んでいなかったと言う。

 信じられない思いで行ってみると、確かに許盻の言うとおりだった。

 薄暗い地下室で、アントニオは生きていた時よりももっと生気にあふれた姿で眠っていた。死ぬまでの数日間は苦しみ抜いていたために、かなり人相が変わっていたが、今は元気な頃のアントニオそのままだった。

「聖人の遺体は腐らないと聞いたが、アントニオは聖人だったのだな」

 いつのまにかやってきたテオが感慨深げに言った。

 それからひと月ほどの間、ルシムの居所はわからず、アントニオの濡れ衣を晴らすのは無理なのではないかという気配が漂っていた。

 その日も、これまでにわかったことなどを話し合っていたが、ルシムさえ見つかれば、という何度も繰り返された話をまたしていた。

「アントニオを呼びに来た人がよく知っている人だとどうして思ったのですか」

 若狭はふと思い出してイラーナに訊いた。

「気の毒だったね、というようなことをアントニオが言っていましたので」

「気の毒」

 若狭は、はっとしてテオに向き直った。

「テオ、ルシムの妻が死んだのは、病かなにかですか」

「そうじゃ、長いこと病気だったと聞いた。最後は気が狂って死んでしまったと」

「悪魔に憑かれたのではありませんか」

 テオが小さく、「あ」と声を上げた。

「イラーナ、これでアントニオの無実が証明できるかもしれませぬ」

 若狭とテオは一度、華人街へ行き許盻と手下を数人頼んで教会に向かった。そして案内も請わず、クリストヴァンの部屋へ全員で一気に駆け込んだ。

 クリストヴァンの部屋には思っていた通りルシムがいた。クリストヴァンは若狭とテオの後ろにいる人相の悪い倭寇を見て、抵抗する気力を失ったように椅子に座り込んだ。

 テオの発案で司教立ち合いのもと、クリストヴァンを白状させることになった。

 場所は司教の部屋に移された。司教と数人の神父の前で、クリストヴァンとルシムは罪人として跪いていた。その後ろにはテオと若狭が、さらに扉の近くには倭寇たちが陣取っている。

 若狭のクルスと懐剣をルシムに盗ませたのは、やはりクリストヴァンだった。懐剣はルシムが腰布に挿していたものを、おずおずと出してよこした。

「クルスはどうしたのです」

「クリストヴァンさまのお言いつけで潰しました」

 ルシムは片言のポルトガル語で答えた。

「潰したとは、どういうことじゃ」

「もとの鉄に」

「奇跡のクルスをか」

 これには司教をはじめ神父たちの間にどよめきが起こった。

「あれは奇跡のクルスではありません」

 クリストヴァンが抜け殻のような生気のない声で言った。そして本物のクルスはここにある、と胸元から引き出し床に置いた。そのクルスは色も形も若狭が持っていたものとよく似ていた。

「私が本物そっくりにルシムに作らせたのです。マヌエル司教はなかなかクルスを見せてくれなかったが、何度か頼み込んで見せてもらいました。磁気を帯びさせるために教会の塔のてっぺんに置いて雷に当てました。ちょうど雨季でしたから幾日も待たずに雷はクルスに落ちてくれました。私はエクソシストとして限界を感じていました。あの頃は失敗が続き、ルシムの妻も死なせてしまった」

 ルシムは、「え」と声を上げた。クリストヴァンを見る目には驚き以外のものはなかった。妻が死んだ理由をクリストヴァンの力が足りなかったから、とは聞いていなかったようだ。

「私はあの日もマヌエル司教にクルスを見せてくれるよう頼みました。そして出来上がった偽のクルスと取り換えるつもりでした。ところが、マヌエルはクルスをテーブルに出した途端、頭が痛いと苦しみ始めました。私はクルスを取り換え、人を呼ぼうとしました。ところがマヌエルはすでに息をしていなかったのです。その時にすぐ人を呼べばよかったのです。マヌエルは病で死んだのですから。でも私の心は疚しさで一杯でしたから、自分が疑われると思い込んでしまったのです。気が動転していたのです。それで、アントニオのことを思い出しました。アントニオは奇跡のクルスで妹を治して欲しいと私を通じてマヌエルに頼んでいました。私はちょうど来ていたルシムに、アントニオの家に行って呼んでくるよう言い付けました。あとは皆さんの知っている通りです。アントニオが罪を着てくれたおかげで私が疑われることはありませんでした」

 イラーナに何かと親切にしたのは、罪の意識があったからなのだろう。イラーナはクリストヴァンのことを近頃評判のエクソシストだと言っていたが、それは奇跡のクルスを持っていたからなのだろうか。

「日本の女の懐剣とクルスを盗ませたのは、どういうわけだ」

 居並ぶ神父の一人が詰問した。

「それは、アントニオの無実を証明しようとしていると聞いたからです。そっくりのクルスがあれば、こんどこそ私が疑われると思いました。しかし、信じてください。私はマヌエル司教を殺したりしていません。本当なのです」

 告白を終えたクリストヴァンは、床に突っ伏して泣いた。

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