第十一話 船出

 若狭は甲板で、潮風に吹かれながら遠ざかる島影しまかげを見ていた。再び、この島を見ることは叶わぬかもしれない。たとえ生きて戻れたとしても、種子島に自分の居場所があるかどうかはわからない。父母のため時堯のために異国の地に出向き、この身を賭してやり遂げねばならないことがある。

 若狭はこれまで種子島を出たことはなかった。それが、船で何十日も掛かるという異国へ行くのだ。しかも、船には倭寇という恐ろしく粗野な輩が二百人も乗っている。ほとんどは明国人だが、高麗人も日本人もいる。あの荒くれた男たちと同じ船で寝起きするのかと思うと、若狭は自分の覚悟がいかに甘いものであったかを思い知らされた。

 しかし後悔はしていない。

『こうするしかなかった』

 若狭は故郷の島が水平線に消えるまで、いつまでも見つめていたのだった。

 あてがわれた船室はポルトガル人の商人や、五峰とその手下の主だった者たちとの並びにあった。若狭と安東は夫婦だという触れ込みなので同室なのだ。寝台が二つあるのは救いだったが。

 安東は予想以上に狭い部屋に顔をしかめた。そして若狭を安心させるために、「私はいまでも神父です」と言った。

「マラッカでは私は罪人ですから神父の地位は剥奪されていることでしょう。でも、私の心はいまも神に仕える神父のままです。たくさんの罪を犯しましたが、マラッカに行きその罪をあがなうつもりです」

 そして安東はこう付け加えた。

「神父は女性と交わることは禁止されているのです」

 たとえ若狭に頼まれてもできないのだ、と笑った。

「私はこれから、今までの罪を悔いて一層正しい行いをするつもりです。でも、五峰やポルトガルの商人には私たちは夫婦だということにしておいてください。それは若狭の安全のためです」

 安東は、西村の屋敷で自分の罪を告白したあと、どうすれば罪が許されるのかと考え続けていたという。それは若狭の言った、「無実の罪を着たままでいいのか。それではマラッカの母が気の毒だと思わないのか」という問いかけが大きく心にのしかかっていたからだという。若狭は津田の船で堺に行くつもりだったが、安東はマラッカに戻るつもりで準備をしていたのだ。

 佐竹が西村の屋敷に乗り込んで来た日は、ちょうどその用意が整った日だった。安東は倭寇の船に人目を忍んで出掛け、五峰に乗船の許可を取り、倭寇たちに武術を教わっていた。倭寇の船が出るまでの数日の間に、もし佐竹が若狭を殺しに来たなら、自分が身を挺して若狭を守るつもりだから安心するようにと言った。

 ポルトガルの商人たちは、昨年一緒にマラッカから乗船した罪人の神父が、生きていたのを驚いていたが、また一緒に旅ができるのを喜んでもいたらしい。

 佐竹が来た日は、倭寇から貰った武器を試しているときだった。それは力のない安東でもこつさえ掴めばかなりの威力を発揮するものだった。流星錘りゅうせいすいというその武器は、二けんほどの長さの縄の両端に鉄のおもりが付いている単純なつくりのものだ。錘の重さはそれぞれが五百匁もんめで、縄の中央を持ち、相手に当てたり縄を絡ませて動きを封じたりする。

 安東が敵、つまり佐竹の足元に流星錘を絡ませて倒し、それと同時に若狭が投卵子なげたまごを投げつけ目くらましをする。そんな相談をしていた。

 投卵子は若狭が時堯からずっと以前に教えてもらったものだ。忍びの者が使う道具で、卵の殻に石灰、唐辛子粉、粉山椒を入れて吉野紙で封をする。白い石灰が飛び散って視界を遮るとともに唐辛子の粉が目つぶし、鼻つぶしとなるのだ。

 佐竹が縁から乱入してきた時、安東は縁と廊下側の襖との間にある物入れに素早く身を潜めた。若狭は投卵子の一つを掴み、床の間を背にして佐竹が部屋に入ってくるのを待った。

 佐竹が縁に躍り上がり、部屋に入ろうとしたところを安東は流星錘を投げつけたのだ。物入れという狭い場所から投げたために、流星錘は十分に遠心力を得ることができず、佐竹の脚に絡みつく前にすねに激突した。結果的にそれはうまく行ったといえる。

 佐竹はもんどり打って倒れ、若狭の投げた投卵子の粉を存分に吸ったのだった。

 若狭は掛け軸の陰の扉から隣の部屋へ逃れ、安東も騒ぎに乗じて屋敷を抜け出した。二人はかねてから、落ち合う場所は金兵衛の家と定めてあった。若狭は市女笠いちめがさを深くかぶり、安東は炭売りに変装して金兵衛の家で再開した。

 死んだものと思っていた娘の無事を金兵衛と嘉女は泣いて喜んだ。

 しかし、それもつかの間。数日後に出航する倭寇船ジャンクに乗ると聞いて金兵衛は驚愕し、と嘉女は狂わんばかりに泣いたのだった。

 その時のことを思い出し、若狭は胸が締め付けられるようだった。寝台に腰掛け声を殺して泣いていると、安東が入ってきた。明かりを持ってきてくれたのだ。いつのまにか日は暮れて、船室の中はずいぶん暗くなっていた。

 若狭が泣いているのに気付いて、安東はどう声を掛けていいか困っているようだ。若狭も見られたくないところを見られてしまい困惑していた。

「若狭、悲しいのはあたりまえです。泣きたいときに泣けばいいのです。遠慮はいりません」

「ありがとう、安東。でも泣くのはこれで最後にします。私にはやらなければならないことがあるから」

 その日の夜は、旅の第一日目ということで、五峰と手下のおもだったものや商人たちと一緒に食事をした。高さのある卓子には豚肉や野菜や果物が所狭しと並べられていた。

 五峰とはこれまでも何度か話をしているが、なかなか教養のある男だ。ものなれた風で若狭に食事を勧めている。会うまでは粗野な盗賊を思い浮かべていたので意外だった。

 五峰の手下は六人が同席していた。この者たちが直接、荒くれた倭寇を指揮するらしい。どの男も腹に一物ありそうな不敵な面構えだった。五峰はその中の一人許盻きょけいを指して、何かあれば言うようにと至極親切に言う。そのほか事務的なやり取りはポルトガル語で交わされた。

 安東は日本語で、「私たちは明国の言葉を学ばなければなりませんね」と囁いた。

 確かにそうだ。種子島を出航した船はまずリャンポーへ向かう。そこから大陸の海岸沿いに泉州、安南アンナン、マラッカへと航海する。目的地のマラッカを除いて、すべて明国の言葉が使われているらしい。しかも船の中は明国人が大勢を占めている。ポルトガル商人は仲間内で結束しているが、旅を快適にしたければ許盻とも意思の疎通ができたほうがいいに決まっている。

 ポルトガル人も倭寇も、酔いが回ってくると、それぞれが母国語で饒舌に話し始めた。安東も久しぶりに同郷人と話ができて嬉しそうだった。

神父パードレが生きていたとは驚いたよ」

 クリストファー・ダモッタが大きな目をさらに大きくして言った。相当に酔っているようで顔が赤かった。この男は城で時堯と対面した男である。五峰は漢字で喜利志多陀猛太キリシタダモウタと時堯たちに教えたそうだが、若狭はもうポルトガル風の発音で言えるようになっていた。安東のことも皆の前ではアントニオと呼んでいた。クリストファーの隣にいるのが、やはり城に行った牟良叔舎ムラシュクシャ、フランシスコ・ゼイモトである。

「あのときは、パードレがいなくなったことに出港してから気が付いたんだ。種子島に置いてきちまった、ってみんな大騒ぎだった」

 昨年の台風で難破し、種子島に流れ着いたときのことを言っているらしい。

「海に落ちたんじゃないかと言う者もいて、パードレは死んだということにしておこう、って話になったんだ」

 どうやら、この商人たちは安東がマラッカで司教を殺したことを疑ってもいないらしい。

「私はもうパードレじゃない」

「そうか、なるほど。結婚もしたしねえ」

 フランシスコが茶色い巻き毛を揺らしながらうなずいた。

「しかし、マラッカに戻って大丈夫なのか」

 安東はそれには答えず、チンダという赤い酒を舐めるように飲んでいた。

 フランシスコは、不快そうな安東には気付かず、盛んにマラッカの話をする。酔っているうえに早口なので半分も聞き取れないが、マラッカに着いたら食べたいと思っているものや馴染みの女について、聞いている者もいないのに上機嫌でまくし立てていた。

 クリストファーはうるさそうにフランシスコを押しのけ、若狭に話しかけてきた。

「ワカサの父上は鍛冶屋だそうですね」

 そうだ、とうなずくとキンベエが火筒を作ってしまったので、売ることができなくて困った、という意味のことを言った。

 突然五峰が話に割って入った。

「まったく、その通りだ。時堯さまが大いに気に入ってくれたのはありがたいが、作ってしまうとは思わなんだ。ポルトガル人にとってはかなりの損失だ。だが我々は硝石を売るので損はないがね」

 五峰が豪快に笑うと、ポルトガル人は苦り切った顔で脚の付いた盃にチンダを注いだ。種子島の鍛冶屋が、ああも簡単に火筒を作るとは思ってもみなかった、と五峰とポルトガル人は口々に言う。

 若狭が比較的丁重に扱われるのはなぜだろう、と五峰たちに会った時から思っていたのだが、その理由がわかった気がした。

 船室に戻ると、安東はどこから持ってきたのか美しい彫刻が施された衝立をベッドの間に立てて言った。

「ペルシャのものだそうです。脚が壊れていて売り物にならないというので許盻から貰ってきました。こうすると若狭もゆっくり眠れるでしょう」

 確かに衝立は片側に傾いていた。しかしこれも器用な安東ならいずれ直してしまうだろう。安東の気遣いを有難いと思うと同時に、それが安東の負い目からきているのではないかと思っていた。

「安東、まだ気にしているのですか」

 衝立の向こうで安東がうなだれる気配がする。

「私は自分でマラッカに行くと決めたのですよ」

「しかし若狭は津田殿と一緒に堺に行くつもりでした。金兵衛殿の家で、あと何日か待っていれば津田殿の船が着いたかもしれません。それなのに私は女のあなたをこんな船に乗せ、遠い異国の地に連れて行こうとしている」

「私もはじめはそのつもりでした。父の家で津田さまの船が来るのを待とうと。でも時堯さまが、お城に上がるようにと言いに来た時に気持ちは変わったのです」

 時堯を一目見た時に別人だと確信した。津田が夢の中で見た三郎という男に違いない。三郎が何者か知らないが、時堯の皮を被った獣か、時堯を操るものなのだ。御付きの者や父が時堯と信じているのが不思議だった。

 時堯は赤い目を光らせ、今すぐ一緒に城へ行くように急き立てた。

「時堯さま、どうか今日というのはご勘弁くださいませ。支度がありますので明日必ず参ります」

 若狭は恐ろしさで時堯を直視できず、床にひれ伏したまま懇願した。

「ならぬ。今すぐ儂と一緒に行くのじゃ」

 何度か押し問答があった。

「なぜ儂の言うことが聞けぬのだ、お珠」

 お珠と呼びかけられ、若狭は背筋が凍りついた。全身に鳥肌が立ち、胃の腑がせり上がってくる。奥歯を噛みしめていても体の奥からの震えが止まらない。

 金兵衛もその様子にただならぬものを感じたらしい。若狭の隣で平伏し、「必ず明日行かせます」と請け負った。

 時堯が帰ったあと、金兵衛は蒼白な顔で、「すまぬ若狭」と言った。

「儂はそなたを堺に行かせとうなかった。だから時堯さまにお許しをいただけば、前のように暮らせると思うたのじゃ」

「父上。時堯さまに私がいることを話したのですね」

「すまぬ。だが他には誰にも言うておらん。あれだけそなたを案じて何度も足を運んでくれた津田さまにも言わなかったのじゃ。だが、時堯さまならお話し申し上げれば、悪いようにはしないと思ったのじゃ」

 若狭は安東が言っていたことを思い出していた。時堯は悪魔に取り憑かれたのではないかと。人は悪魔に取り憑かれると、突然人が変わったようになり、凶暴で凶悪になる。目は赤く光って見える。悪魔はその人の魂が破滅するまで取りつき、また次の獲物を探す。魂の破滅というのは例えば自殺することだとも。

 マラッカには悪魔祓いの神父がいたことを安東は話してくれた。その悪魔を祓うという神父を連れてくれば時堯は助かるに違いない。

「父上、私も安東と一緒にマラッカに行くことにします」

「なぜじゃ。なぜそんな所へ行く」

 時堯に憑いた悪魔を祓うため。そんなことを言ってもだれも信じないだろう。父は全力で反対するだろう。そんな所へ行くくらいなら堺のほうがまだましだと思うはずだ。

「この安東はもとはマラッカに住んでおりました。そこには火筒を作ることを生業なりわいとしている鍛冶屋がいたそうです。その鍛冶屋ならば、父上がご苦労されている尾栓びせん捻子ねじの切り方を知っているはずです」

 これも前に安東が教えてくれたことだ。

「私はマラッカに行って鍛冶屋を一人、連れてまいります」

 こう言えば、金兵衛はきっと若狭をマラッカに行くのを許してくれると考えていた。

 しかし金兵衛はあくまでも反対した。嘉女は、行かないでくれと泣いて取りすがった。

「父上、母上。実は私は安東とは夫婦の約束をしたのです」

 その言葉に父母はもとより安東も驚いた。

「この安東も父上のために鍛冶屋を連れてきたいと言うておりました。そうでしたね、安東」

 安東はうろたえながらも、「はい、そうでございます」となんとか話を合わせた。

「このように、私のために日本語も覚えてくれました。心配はいりませぬ。安東が一緒なのですから。私は夫と離れて一人で堺に行くよりも、安東と一緒にマラッカに行きとうございます」

 金兵衛と嘉女の、許すという言葉はついに聞けなかった。

 時堯には自分が行方知れずになったと言うように念を押し、津田にも決して言わないように頼んだ。知っていれば津田の立場も危ういものとなるだろう。

 その夜のうちに若狭と安東は、二日後に出航する倭寇の船に乗ったのだった。

「私は時堯さまをお助けしたいのです」

 明かりの消えた船室で、若狭は衝立の向こうの安東に言った。

「時堯さまが悪魔に憑かれたなどと私が言ったからですね。悪魔に憑かれているかどうかは熟練したエクソシストでなければわからないはずです」

「エクソシストとはなんですか」

「悪魔祓いの神父をそう呼びます。エクソシストは司教から許可を得た才能のある神父なのです。エクソシストになれる神父はそういるものではありません。訓練も受けていない若狭に、悪魔が取り憑いているかどうかはわかるはずがないのです」

「私にはわかったのです。ああ、これが安東の言っていた悪魔なのだと」

 若狭があまりにもきっぱりと言い切るものだから、安東は引き下がるしかなかった。

「見た目は時堯さまでしたが、ぜんぜん違う人でした。いいえ、人ですらなかった。あんな恐ろしいものは、とてもこの世のものとは思えません。あれが邪悪なものだと、なぜだれも言い出さないのか不思議なくらいです」

「悪魔はそばにいる者も操ると言いますから、周りの者たちは目を眩まされているのかもしれません」

「安東、私は父が心配です。私を逃がしたと責められるのではないでしょうか」

「金兵衛殿には火筒を作る仕事があります。悪魔ならそれを妨げるようなことはしないでしょう」

 船室の小さな窓からは、月の光が海を照らしているのが見える。風も無く波も静かだった。それでも船は揺れていた。新米の船乗りは、船酔いに苦しめられるという話を聞いたことがあるが、この揺れは若狭にはむしろ心地よかった。心に憂いがなければすぐにでも眠れそうだ。しかし、今夜は船旅の第一日目だからなのか、次から次へとさまざまなことが頭に浮かんでくる。

 若狭は枕の下から懐剣を取り出した。薄明りの中で種子島家の家紋が黄金色の光を放った。これは西村の屋敷を逃げだすときに、安東が渡してくれたのだ。安東は津田の文箱に入っていたクルスを取りにいった。津田に持っていて欲しいとあのときは言った。しかしマラッカに戻るのなら、マヌエル司教に返すことは敵わぬが、後継者に渡したいと思ったのだ。

 クルスと一緒に入っていた懐剣を懐に入れ、これからどんな困難が待ち受けているかわからない若狭に、これを持たせることは津田も許してくれるのではないかと思ったという。

 種子島家の家紋を見れば、自然に在りし日の時堯が思い出される。聡明で穏和で愛情深い島主だった。住む世界の違うお方、と幼い頃からわかっていたはずだった。それがなぜ、いつ、そうではなくなったのだろう。

 弥三郎を許嫁いいなずけとすると聞いたときだろうか。

『ちがう』

 それを聞いたときは、恥ずかしかったが嬉しくも思ったはずだ。ところが弥三郎の心は別の女のほうを向いていた。そのときはそれが志津だとはわからなかったが、弥三郎の思いが自分にないことを、それとは知らずに勘付いていたのだ。

『だから時堯さまに……』

 それは言い訳だろうか。自分の行いを正当化したいだけなのだろうか。

『わからない。弥三郎もお志津も死んでしまった』

 二人とも時堯に取りついた悪魔に殺されたのだ。その悪魔を祓うことは、二人の供養になる。若狭は懐剣を胸の上で握りしめ、亡き二人の御魂みたまに誓うのだった。

 三日ほどは順調な航海だった。しかし四日目の昼過ぎ、黒い雲が空を覆った。船室の小さな窓から覗くと、海と空は見分けがつかないほどに、どちらも黒い渦を巻いていた。波頭の先からほとばしる波しぶきは風に揉まれて砕け散った。

 甲板では倭寇たちが大急ぎで嵐に備えている。倭寇たちの怒号も波と風の音に消されがちだった。

 夜になると風はますます強くなった。山よりも高い大波が遥か向こうに現れたかと思うと、あっという間に近づき、若狭たちの船の横っ腹に思い切りぶち当たった。

 どーんという激しい音とともに、すさまじい揺れで若狭は船室の壁に叩き付けられた。船がめりめりという音を立て、いまにもばらばらに砕けてしまいそうだ。

 安東は嵐が本格的になる前から、衝立を倒して寝台の下に固定し、こまごまとしたものもすべてまとめて、動かないようにしてあった。

「若狭、こうやって手足を踏ん張って」

 安東が床の上でやって見せた。若狭もやってみるが、大波が来た時にはどうしても動いてしまう。安東は縄で若狭の体を寝台の脚に括り付けてくれた。眠るときは安東もそうするらしい。

 体の方がなんとか安定すると、こんどは胃の腑のあたりで不快な塊が上下する。酸っぱい唾を飲み下し、やり過ごそうと長い間若狭は努力した。しかしそれも限界に近付いてきた。

「安東」と、声も絶え絶えに助けを求める。安東は若狭の顔を見てすぐに、それと察したようだ。自分の縄をほどき部屋を出て行くと、長い時間かかって戻ってきた。手には桶を持っている。若狭は受け取るとすぐにその中に吐いた。吐いても吐いても楽にはならない。最後には黄色い水すら出なくなった。安東は桶の始末をするのに何度か部屋を出ていくので、着物はずぶ濡れだった。

 一睡もできぬまま朝になった。だが朝になっても嵐は依然として激しかった。

「若狭、体がもたないからなにか食べなきゃいけないよ」

 赤い色の果物を持ってきたが見るのも嫌だった。水だけはどうしても飲まなければいけない、と安東が言うので仕方なく口を湿す程度に飲んだ。

 夜になってようやく嵐の海を過ぎたようだった。

 若狭は寝台に体を投げ出し、ようやく大きく息をついた。

「私は船酔いなんてしないと思っていたけど浅はかだった。嵐があんなにすごいものだとは思わなんだ」

 若狭は自分の乗った船が木の葉のように翻弄される姿を思い浮かべながら言った。

「私が昨年種子島に漂着したときの台風はこんなものじゃなかった。もっともっと揺れたし、五日も続いたんだ」

 若狭は笑った。この嵐を経験していてもなお、安東が出会った台風のすごさは想像できなかった。

「私は運がいいのですね」

 安東も笑った。

 最初の寄港地、リャンポーが近づいてくると船の中はにわかに活気づいた。荷揚げする売り物が次々と甲板に運び出される。久々に土を踏めるというので、だれもが喜び浮足立っていた。

 若狭もまだ見ぬ異国の地をはやく見たくて仕方なかった。まだ影も見えぬうちから甲板に立ち船の進む方を見ていた。

 海鳥が飛び交うようになり、陸があると雲の様子が変わるのだろうか、なんとなくいままでと違っていた。目を凝らすと水平線に小さな点が見える。あれが大陸の端なのか、と胸が高鳴る。

 近づくに従って、点に見えたものは陸地ではなく船であったことがわかった。大小の船が色とりどりの旗をはためかせ、帆を張ってリャンポーの港に集まってきていた。

 安東は隣で、あれがポルトガル船、あれは琉球船と指を差して教えた。他にもジャワの船やマラッカの船も来ていた。

 リャンポーは大陸に沿うようにして並ぶ舟山群島の島の一つにある。日本で仕入れた金、銀、硫黄、樟脳などをここで売る。そしてリャンポーでは南京などの都市から集まってきた生糸、綿布、磁器などを買い入れるのだ。船は南への風を待ちながら数日間リャンポーに停泊する。その間倭寇やポルトガル商人は商売に精を出し、安東は友人に会うという。

「安東の友人というのは神父さまでしたね」

「はい。彼はとても頼りになる男です。私は彼に一緒にマラッカに行ってくれるよう頼むつもりです。彼はとある異能のエクソシストを知っているのです」

「異能の?」

「私も詳しくは知らないのですが、悪魔を自由に操ることのできる人のようです。エクソシストは悪魔を祓うだけですが、その男は悪魔を封印できるのだそうです」

 頼りになるという友人が一緒に旅をしてくれるのなら、こんな心強いことはない、と若狭は晴れやかな気持ちで近づいてくる陸地に目を遣った。

 たくさんの異国の船は、島と島とが重なるように点在する隙間を、帆を上げてゆっくりと進む。その美しい光景は若狭の胸を異国の地に来たという感激で一杯にした。

 突然、甲板上に怒号が飛び交った。リャンポーに向かって進んでいた船は、いきなり南に急旋回した。安東が腕を掴んでくれなければ、若狭はあやうく海に投げ出されるところだった。何が起こったのかわからぬまま、若狭と安東は揺れる甲板を這うようにして船室に向かった。

 若狭が振り返って見ると、小島の陰から四艘の船が現れた。船はぐんぐん近づいてくる。

「安東、あれはなに」

「あれは」

 絶句した安東の顔が蒼白なので、ただならぬことが起きたのだけはわかった。

 若狭たちの船は南に進路を変えなければならない分、どうしても遅くなる。ついに四艘の船のうち、一艘が追いついてしまった。船の上の人までがはっきりと見える。揃いの甲冑を身に着けている。手には弓矢を持つ者や長い槍を持っている者もいる。

「あれは明の官軍だ」

 安東が振り絞るように言った。

 二艘の船がさらに近づいた時、官軍は鉄の鎖の付いた巨大な引掛鉤ひっかけばりをいくつもこちら側に投げてよこした。そのうちの一つが船べりに引っかかると大勢で引き寄せ、それと同時に矢を射かけてきた。すかさず倭寇たちも矢で応戦する。

「安東、はやく」

 恐怖で固まってしまった安東の手を力いっぱい引いた。矢の飛び交う中を転がるようにして、ようやく船室の中に逃げ込んだ。

 若狭は震えが止まらなかった。見れば安東も小刻みに震えていた。もし、倭寇たちが負けて官軍が攻め込んで来たら、若狭と安東はどうなるのだろう。なぜこの船は官軍に攻撃されなければならないのか。若狭は倭寇が負けませんようにと必死に祈り続けた。

 どのくらいそうしていたのだろう。安東を真似てひざまずき両方の手を胸の前で組んで固く目をつぶっていた。いつの間にか外は静かになっていた。恐る恐る小さな窓から外を見ると、遠くで官軍の船が燃えながら沈みかけていた。

「安東」

「助かったのですね」

 若狭と安東は手を取り合って泣いた。

「神の御加護です」

「なぜ明の官軍がこのようなことをするのですか」

「私たちの船は、明国にしてみれば密貿易船なのですよ」

 初めて聞くことに、若狭は言葉も出なかった。

「そもそも明が海禁策かいきんさくなどという無茶な政策を行うからです。朝貢以外の外国商船の渡航をすべて禁止したのです。沿岸の漁業も禁止だなんて無茶もいいところだ。しかしこんなふうに手荒な取り締まりをしているとは知らなかった」

 船室から出てみると、負傷した倭寇が甲板に寝かされていた。中には絶命した者も多くいるようだ。

 商人たちは船室から出てこないが、若狭と安東は負傷者の手当てを手伝った。

 日が落ちる頃、船は小さな漁港に停泊した。そこでは上陸は許されず、二十人ほどの倭寇が水と食料の補給のために小舟で渡った。ここで船を修理し、次の寄港地泉州に向かうのである。

 倭寇もポルトガル商人もあてにした商売ができなくなって不機嫌だった。若狭も久しぶりに陸に上がれるという期待がはずれ落胆していた。だが安東の落胆は、はたで見ていても尋常ではなかった。いらいらと歩き回り、髪をかきむしり長いため息をついた。許盻に、なんとかリャンポーヘ戻れないのか、と詰め寄っているところも見た。

「安東、あなたの友人に会えないのは残念ですが、仕方ありません。リャンポーヘ戻れば、また明の官軍に攻められるかもしれません」

「しかし、彼がいなければマラッカにいるはずのエクソシストを探せない。私は名前も知らないのだ」

「彼が知っているというのは、悪魔を封印できる異能のエクソシストなのですよね。普通のエクソシストなら安東も知っているのでしょう?」

「それはそうですが」

「ならば、それで良いではないですか。悪魔を封印してもらえた方がいいに決まっていますが、時堯さまから悪魔を祓ってもらえれば、それで良しとしようではありませんか」

 若狭はなんとか安東をなだめようとした。しかしなぜか安東は困り切った様子で肩を落としていた。

「安東、どうしたのです。あなたらしくもない」

「実は、彼は金山を持っていてね。マラッカにいた頃はとても羽振りが良かったんだ。かなり蓄財しているだろうと私は見ていた。それで、今回の渡航費用は彼に出してもらうつもりだった。彼も一緒にマラッカに行けば、どうしても払わなければならないでしょう。私たちは払おうにも、ない袖は振れませんから」

 いつ覚えたのかそんな言い回しで、投げやりな言葉を乾いた笑いとともに吐き出した。

 若狭はすべて安東に任せきりだったことを申し訳なく思った。五峰たちが若狭に親切だったのは、安東が払うはずの船賃が約束されていたからだったのだ。少し考えれば、倭寇がただで乗船させるはずのない事くらいわかりそうなものを。

「安東、すまぬ。私はなにも知らずに」

「マラッカに着くまで時間はあります。船賃をどうするかゆっくり考えましょう」

 船の修理には四日掛かった。目の前に陸地があるのに、狭い船室で寝起きするのは想像以上に苦痛だった。なにぶん小さな漁村なので泊るところはおろか、食料さえ十分に調達できないありさまだった。

 リャンポーから泉州まで風が良ければ十日間、そうでなければ十五日間の予定だった。

 若狭は許盻に地図を見せて欲しいと頼んだ。

 船が今いる場所を指差されて愕然とした。あれほど苦しんで長い時間を船の上で過ごしたはずなのに、船はまだ日本をさほど離れてはいなかった。泉州はまだまだ先で、マラッカはさらに先だった。

 食料を積み込み、いよいよ出港となると若狭はまだ見ぬ泉州にはやく行きたいと思うと同時に不安が頭をもたげてきた。泉州もリャンポーとおなじく倭国の密貿易の根拠地だという。それならば、また明の官軍に攻撃されるのではないだろうか。リャンポーは明に近いから、あんなことがあったが泉州は大丈夫だ、と誰に聞いても言う。

 地図を見れば泉州の南には澳門マカオがある。澳門は明国が公的に異国との交易を許可している港だ。近いとは言いがたいが、南京とリャンポーだってかなりの距離がある。澳門が海沿いにある分、泉州にはたやすく来られるはずだ。

 若狭は船室で懐剣を握りしめた。そうしていると不思議と心が落ち着くのだ。悪魔に取り憑かれる前の時堯に見守られているような、種子島の父母に見守られているような気がする。

 リャンポー近くの漁港を出発してから十一日目の夕方、泉州に着いた。途中小さな嵐にあったがおおむね順調な航海だった。若狭は船酔いすることもなく、安東と一緒に明の言葉を学んだり、マラッカでの金策について話し合ったりして過ごした。もっとも金策についてはなに一つ良い案は出なかったのだが。

 泉州は夕日を背に広大な大地と海のような大河とで若狭を迎えた。大きな湾の中には、リャンポーほどではないが異国の船が多く停泊していた。ここにも琉球の船が来ていた。

 こんな広い土地を見たことがなかった。こんなに幅広く、流れていることさえわからない河を河ということさえ驚きだった。ひと月ぶりに踏みしめる土の感触が待ちきれない。あの大きな河で真水を頭からかぶり、飲み、泳いだらどんなに素晴らしいだろう。

 夕日が赤い綺羅きらのように泉州の町を覆っている。その美しさに、若狭はこれまでの航海の辛さをしばし忘れたのだった。

 しかし泉州の港に降り立つと、すべては夕日が見せた幻であったことがわかった。

 土地は夕日のせいばかりでなく赤茶けていた。乾いた土ぼこりで町全体が埋め尽くされていた。河は泥を溶かしたように重く流れ、とても水浴びができるような水ではなかった。土の家、土の橋。ここではなにもかもが土で出来ている。種子島の土地や山や水を思い描いていた若狭はひどく落胆した。ここは異国なのだから仕方ないのだ、と思ってみても若狭の心は重かった。

 リャンポーは切り立った崖を持つたくさんの小島が複雑に入り組んだところだった。いかにも海賊の住処という感じだったが、泉州も荒くれた男たちに似つかわしい広いだけの乾燥した土地だった。

 男たちは港近くの土で出来た家に分かれて寝泊りするらしい。若狭は尼寺に世話になることになった。許盻に連れられて川沿いをしばらく歩くと、後ろから声を掛ける者がいる。

 頭に布を巻き、括袴くくりばかまのような裾をすぼめたものを履いていた。真っ黒に日焼けし、人懐こい笑顔で許盻と何事かを話している。最初は小柄な男だと思ったが、だんだんと女であることがわかって、若狭は好奇の目を向けた。

 許盻はこの女は琉球の女で、若狭を僧院まで案内してくれるのだと言った。許盻の知り合いかと思ったがそうではないらしい。許盻は面倒な仕事から解放されたのがうれしいのだろう、さっさと港のほうへ戻っていった。

 女は、自分はマカトウという名前でちょうど尼寺に荷を届けに行くところだという。マカトウは後ろを振り返り、荷車を引いている男に大声でなにかを叫んだ。早くしろ、と言っているようだった。荷車の上には樽や木箱が積まれていた。

 若狭が日本から来たと言うと、自分も日本に行ったことがある、と嬉しそうに笑った。マカトウは琉球語と明の言葉のほかに、少しだけポルトガル語と日本語がわかるようだった。

「ワカサはハカタから来たのか」

 種子島から来た、と言ってもマカトウは知らないようで、しきりに博多の話をするが何を言っているのかほとんどわからなかった。

 尼寺はこんもりとした木々に囲まれた静かな場所にあった。尼僧は頭を丸め灰色の長い衣を着ていた。年は若狭と同じくらいだろうか、異国人に部屋を貸すのは慣れているようで、物静かな口調で僧院の中にある一室に案内してくれた。食事のときには呼びに来る、と言ったようだった。

 部屋も寝台も清潔だった。ようやく揺れない寝台で眠れるかと思うとほっとする。

 寝台に横になり目をつぶると波の揺れが体に残っていた。これまでのいろいろなことが思い出される。志津が死に、罪人扱いされて森の中を逃げ、津田に助けられ西村の屋敷で隠れ住んだこと。父母に別れを告げて倭寇の船に乗ったこと。すべてがほんの短い間に起きたことだった。

 時堯がもとの時堯に戻らなければ、種子島はどうなってしまうのだろう。マラッカに首尾よくたどり着けるのか。エクソシストを見つけ種子島に帰ることができるのか。考え始めれば不安なことは、あとからあとから湧き起こってくる。

 若狭は小さく頭を振って、「なるようになる」とつぶやいた。

 少し眠ったようだった。誰かが部屋に入ってくる音で目が覚めた。

「ワカサ、行く」

 マカトウだった。僧院での仕事が終わり、どこかへ行くらしい。

 起き上がって、「ああ」と曖昧に返事をすると若狭の手を引いて、さかんに「行く、行く」と言う。

「なに、どうした。私は行かない」

 若狭は日本語とポルトガル語で言った。マカトウは、ここの食事はまずいので、どこかに連れていってやる、と言っているようだった。まずくてもいいから静かなところで休みたいのだ、と言いたいがそれも面倒で渋々ついて行くことにした。

 川沿いの、もと来た道を港に戻るうち、外はすっかり暗くなってしまった。歩きながらマカトウはずっとしゃべり続けていた。聞いているうちに、不思議なもので言っていることがだんだんとわかってくる。マカトウは自分が船乗りであることを誇りに思っていると胸を張った。黒く日に焼け、男のような塩辛声の理由がようやくわかった。マカトウの父親も船乗りで、同じ船で澳門マカオ呂宋ルソンにも行くそうだ。

 呂宋と聞いて、若狭は志津の兄を思い出した。奴隷として売られたというが、どうしているのだろう。この世話好きなマカトウなら呂宋で志津の兄を探し出してくれるかもしれない。妹が死んだことを教えてやりたいが、知らせることが良い事なのだろうか。むしろ知らないほうが幸せかもしれない。そんなことを考えているうちに港に着いた。

 倭寇が火を囲んで酒盛りを始めていた。マカトウは食べ物を商っているらしい店の卓子に陣取った。若狭も仕方なしに向き合って座った。他の卓子にもすでに男たちがいて飲み食いをしていた。出てきた食事は汁の中に野菜や何かの肉が入ったもので、あまりうまいとはいえなかった。

 マカトウはよく喋りよく笑った。若狭と同じくらいの年かと思ったが、もっと年上のようだった。茶色く濁った酒も出てきたが、口に合わないのでマカトウにやってしまった。倭寇の酒盛りはいよいよ活気づき、焚火の輪の中に安東の姿も見えた。

 食事が終わり、マカトウに挨拶をして立ち上がった。月が出たので帰り道は難なく帰れそうだった。

 マカトウが若狭の腕を掴む。空になった器を指差してなにかを言っていた。

「もう帰る。私は帰る」

 若狭はゆっくりと日本語で言った。

「だめ。だめ」

 マカトウは必死の形相で叫び、なにかを早口でまくしたてた。するとまわりにいた男たちが、酔いの醒めた顔で若狭を取り巻いた。

 そのとき若狭は、自分が間違いを犯したことを悟った。マカトウは親切で食事に連れてきたわけではないのだ。今若狭は自分が食べたものの代金を請求されている。言葉はわからないがそれは確かだった。

 マカトウが若狭の肩を小突いた。「盗人ぬすっと」という言葉が聞き取れる。

 かっと頬が熱くなる。だが、若狭にはどうすることもできない。銭を持っていないのだ。

 じりじりと男たちが輪を縮めてくる。琉球の船乗りらしい。同じ船乗りでも倭寇と違って、さっきまでは穏やかに談笑しながら飲んでいたのだ。琉球人は人柄が穏やかで、人買いもしない良識ある人々だと言われている。だが今は若狭に敵意をむき出しにしている。マカトウが若狭を盗人呼ばわりしたからだ。

 マカトウが口汚く罵りながら、再び若狭を小突いた。今度は若狭も小突き返した。男たちが色めき立った。

 若狭は覚悟を決めた。仁王立ちになり腹から声を出した。

「私は盗人ではない。マカトウが私をここへ連れてきたのだ。銭がいるとは一言も聞いていない。知っていれば来なかった」

 言葉はわからなくても、若狭の言いたいことは伝わるだろう。こちらにはよこしまな考えなどなかったのだ。

 しかしマカトウはさらに激昂して喚き散らした。男たちもじりじりと若狭のほうへ詰め寄ってくる。

 若狭は懐剣を取り出し、両手でつかんで鞘から半分だけ抜いた。

「それ以上近寄れば、ただではすまぬぞ」

 その時だった、安東が琉球の船乗りをかき分け乗り込んで来た。

「若狭、刀を収めるのです」

 安東はマカトウに巾着から銭を出して渡した。男たちも自分たちの卓子に戻り、安東は若狭を僧院まで送り届けてくれることになった。

「うかつでした。若狭に銭を渡しておくべきだった」

「その銭はどうしたのです」

 安東も銭など持っていないはずだ。

「五峰から借りました。なにせ私は金山を持っているのですから、すぐに貸してもらえました」

「金山を持っているのは安東の友人ではないのですか」

「ははは、面倒なので私が持っていると言ってあったのです」

 若狭も笑ったが、今頃になって体が震えてきた。

「安東、船が出る時は知らせに来ておくれ」

 安東は少し黙ったあとに、「わかりました」と答えた。

 上陸を若狭がどれだけ楽しみにしていたか、知っているだけに胸が痛むのだろう。せっかくおかに上がっても、尼寺に籠りきりというのは若狭も残念だ。しかしマカトウや琉球の船乗りに出会うかもしれぬと思いながら泉州の町を歩く気にもなれない。

 泉州に着いて五日目の早朝、船は安南に向けて出港した。五日の間、若狭は僧院で十分な休息をとり気分は晴れやかだった。登り始めた太陽が、光の粒子で町の埃っぽさを隠していた。船の上からはじつに美しい町に見える。この町はこうやって、少し離れたところに身を置く方が良さを感じられるのかもしれない。

 船が沖にでると小琉球(台湾)が見えた。来る時は見えなかったが、安南に向かうため大陸からかなり離れたのだろう。大陸は若狭の想像を超える大きさだった。しかし小琉球も島であるはずなのにまるで大陸のように大きい。地図を見せて貰った時にわかったのだが、日本の近くにある大琉球は小琉球よりもはるかに小さい。それなのになぜ大琉球というのか、と許盻に訊くと、国力の違いではないかと言っていた。若狭はマカトウや船乗りたちのいくぶん品のある顔を思い浮かべた。

 安南までは十日の距離だった。途中嵐にあうこともなく予定通り十日目に着いた。安南は小さな漁港ではあったが椰子の木の鬱蒼と茂る美しい町だった。

 港に降り立つと、まるで真夏のような暑さだった。だが不快な暑さではなかった。空気がしっとりと湿気を含んで、まるで絹の衣で肌を撫でられているようだ。椰子の木は種子島のものと違って空に届くほど大きい。椰子の木陰に入ると涼しい風が眠りを誘うように頬を撫でる。建物も人も種子島とずいぶん違うのに、似ている気がするのは地上の楽園のように感じるところだろうか。

 いくつかの寺院に分かれて寝泊りすることになった。今度は若狭は別待遇ではなかったが、安東と一緒のほうがむしろ安心だ。石造りの寺院は複雑な装飾を施された屋根と、色とりどりの石の欠片で飾り立てられた壁が美しい。寺院の石の床に薄い布を敷いて寝るので、快適とはいえなかったが、若狭はさほど苦にはならなかった。

 ここでも倭寇とポルトガル商人は商売に精を出した。泉州では倭刀わとう、つまり日本刀がかなりの高値で取引されているのをみた。それを知っていたら父から二、三振りの刀を貰ってきたものを、と若狭は悔しがった。銭がなければいかに心許ないか、泉州で思い知らされたからだ。

 安南はわずか二日の滞在だったが、食べ物も口に合い、離れがたかった。しかし次はいよいよマラッカである。渡航費用の問題やエクソシストをどうやって探すか、ということの他に、安東は自分の潔白のあかしをどう立てるか、頭を悩ませているに違いない。

 若狭にとってはさし当たって、渡航費用のことがもっとも気がかりだった。マラッカに着いたとたんに請求されたら、どう言い逃れをするのか。その場をなんとか切り抜けてエクソシストを探し出したとしても、支払いができなければ日本に帰ることはできない。

 安東は次第に口数が少なくなっていった。嵐が来ても寝台に座ったまま動こうとしない。若狭は安東の邪魔をしないように、黙って嵐の備えをする。幸い大きな嵐ではなかった。寝台の上で眠ることもできたし、船酔いすることもなかった。ただ安東の様子が気になった。食事の量が少ないし話もほとんどしなくなった。

「安東、どこか悪いのではないですか」

 ずっと考え事をしているのだと思っていたが違うようだ。

「実は口が、どうもおかしいのです」

「おかしいとは、どういうことです」

「開けようとしても、うまく開かないのです」

 安東は、たったそれだけを言うために苦しそうに顔を歪め、手で顎を押えた。

「私がなにもかも安東に頼っていたからじゃ。すまぬ。船賃のことは私がなんとかする」

「なんとか?」

「種子島に帰るまで待ってもらうよう頼むのじゃ。島に帰れば父の刀がある」

 安東はわずかに安堵したようだった。やはり心労が祟ったのだ。

 若狭はマラッカに着くまでに、どうやって五峰を説き伏せるかを考えなければならない。それは大変な難題であると思えた。

 マラッカまであとわずかというとき、また嵐に遭遇した。今度のはかなり大きかった。寝台の上に寝ていたのでは振り落とされそうだ。

 若狭が寝台の脚に自分の体を括りつけようと起き上がった時だった。船が大きく揺れて、あやうく体が投げ出されそうになった。だが、すんでのところで寝台に取りすがった。ところが安東は寝台から転げ落ちてしまった。

「どうしたのじゃ、安東。そなたらしくもない」

 若狭は笑ったが、安東の返事がなかった。床の上で苦しそうに呻き声を上げていた。

「安東、どこか打ったのか」

 慌てて駆け寄ると、安東は背を反らせ歯を食いしばり呻いていた。

「安東、どうしたのじゃ。どこが痛いのじゃ」

 若狭は背中や腕や足を撫でさすってみるが、落ちた時に怪我をしたわけではなさそうだった。そうしている間も大波が容赦なく船に打ち付け、二人は床の上を小石のように転がった。

「若狭、たのむ。私を、寝台に、縛り付けてくれ」

 安東は途切れ途切れに言った。安東の身にただならぬことが起きているのがわかった。若狭は必死に安東を抱きかかえ、なんとか寝台の上に戻すと縄でぐるぐると縛り付けた。

 安東は縛り付けられていながらも、力いっぱい背を反らせるので、縄がすぐに緩んでしまう。若狭は揺れる船室で何度も縄を締め直し、安東の名を呼びながら腕をさすり続けた。許盻を呼びに行こうにも、若狭自身、寝台に取りついて揺れを遣り過ごすのがやっとだった。

 船に叩き付ける大波と雨、咆哮する風、いまにも分解しそうな船体の悲鳴が安東の呻き声と重なる。若狭は自分がどこにいるのか、なにをしているのかさえ分からなくなりかけていた。空に放り出されるかのような大波に押し上げられた次の瞬間は、地獄の底に叩き付けられるほどの勢いで落下する。そんなことが三日三晩続いた。

 精根尽き果てた若狭は、船室の小窓から差し込む光が現実のものとは思えなかった。どのくらい放心していたのだろう。ようやく波と風が収まっていることに気が付いた。

 嵐の間一度だけ許盻に来てもらった。しかし安東の姿を見ると首を振って、嵐が収まりマラッカに着いたら医者に見せようと言っただけだった。

 安東は亡者のように様変わりした人相でまだ苦しみ続けていた。

 若狭は安東の縄をほどき立ち上がった。三日の間、安東と若狭は水を摂るのが精一杯だったために、立ち上がると、まだ大波に揺られているように体が定まらない。

 甲板に出ると船は小島の蝟集する磯を過ぎたところだった。眼前には溢れるばかりの緑の陸地が続いていた。反対側には遠く細長い陸地が見える。ここはマラッカ海峡らしい。

 許盻がやって来て、「もうすぐマラッカだ」と言って通り過ぎた。

 安東を戸板に乗せ倭寇が船から降ろした。マラッカのポルトガル人街は高い城壁に囲まれていた。城壁の門まで来ると門番に呼び止められた。槍を持ち羽の付いた兜をかぶった門番は、病人は入れない、と戸板の上の安東から目をそらしながら言った。

 一緒についてきたポルトガル商人と許盻が、「医者に見せなければ死んでしまう。彼はポルトガル人だ」と言って食い下がったが、ついに城壁の中には入れてもらえなかった。

 仕方なしに、許盻たちが宿泊する華人街にむかうことになった。ポルトガル商人はすまなそうに門の中に入っていく。

「お待ちくだされ」

 若狭は商人たちを呼び止めた。

「アントニオの母御がどこにいるか知っておるか。会わせてやりたいのじゃ」

 商人たちは調べておいてやる、と約束した。そして商人たちの宿の場所を教えてくれたのだった。

 華人街は川の対岸にあった。入り組んだ路地を進むあいだも、戸板に乗った安東は手足を突っ張り、顎を上げて反り返り苦しみ続けていた。

 一軒の比較的大きな建物に着いた。それは五峰の持ち物だという。いまにも崩れそうな粗末な家が建ちならぶ中では立派さと堅牢さが際立っていた。

 安東は一階にある部屋の寝台に寝かされた。許盻の指示で倭寇が連れてきた医者は華人だった。黒い衣をゆったりと着た気の小さそうな老人だった。

 安東を見るなり後ずさり、「これは、私には」と言葉を濁した。

「はやく診てやってくれ。こんなに苦しんでるんだ」

 許盻が医者の腕を掴んで揺さぶると、小柄な老人はまるで折れた小枝のようにがくがくと振り回された。

「私には無理だ。とてもこんな病人はもう……」

「診もしないで何を言っておる」

 医者はとにかく帰らせてくれ、と懇願する。逃げるように外へ出ようとする医者を、若狭は追いかけ、腕を掴んで小声で訊いた。

「もう助からぬ、というのか」

「そうだ。ああなっては、もうどうすることもできない。死ぬのを待つだけだ」

 医者は吐き捨てるように言った。

「あの苦しみだけでもなんとかできないのか。とても見ていられない」

 若狭はこの数日、ずっと安東の苦しむさまを見てきたのである。マラッカに着けばなんとかなる、とそれだけを心の支えにしてきた。

「たのむ。苦しみが少しでもやわらぐ方法を教えてくれぬか」

「そんなものはない。苦しむのを見るのが嫌なら殺すしかないのだ。それをやる医者もいるが、私はやらない。後味がわるいからな」

 医者は早口で言うと出て行ってしまった。

 若狭は、がっくりと肩を落とし振り返った。許盻たちがもの問いたげにこちらを見ている。若狭は小さく首を振った。

「だれがあんな医者を連れて来いと言った。今度はポルトガル人の医者を連れてこい」

 許盻は手下の倭寇を殴りつけた。だれもがどんな医者を連れてきても無駄なことを知っていた。石造りの部屋に安東の苦しむ声と、なすすべもなく立ち尽くす者たちの絶望感が重く立ち込めている。

 若狭はその重さを振り払うように安東の傍らにひざまずくと、硬直した手を両手で包んだ。

「安東、そなたの母上を連れてくるほどに。気を確かに待っておるのだぞ」

 若狭が立ち上がって外にでると、さっき殴られた倭寇もついてきた。ポルトガル人の医者を連れてくるつもりらしい。

 倭寇はすらりと背の高い美しい男だった。華語があまり得意でないところから高麗人かと思われた。長い髪を無造作に後ろで束ね、泥色にくすんだ着物は膝の上で千切ったように切れていた。

 門番に見咎められることもなく城壁の中に入ると、そこはこれまで上陸した異国とは趣を異にしていた。石畳の道、立ち並ぶ白い石造りの建物の弁柄色べんがらいろの赤い屋根がまぶしいほどに美しい。四角い塔は空を突き刺すようにそびえ立っていた。若狭が口をあけて見上げると、あれは教会なのだと、たどたどしい華語で教えてくれた。道行く人は長い衣を肩から下げ、半裸の従者に巨大な傘を持たせ、胸を張って歩いていた。馬に乗っている男たちの厳めしい軍服姿ですら美しかった。ポルトガル人に混じって、たくさんのマレー人の物売りが、天秤棒を担いだり荷車を引いたりしていた。

 倭寇は、こっちだ、と顎をしゃくって「商館に行けば医者がいる」と言った。

「先に、アントニオの母を探したい」

 若狭がポルトガル人に教えられた場所を言うと、倭寇が先にたって案内した。路地に入っても町の美しさは少しも変わらなかった。細い石畳の道には表通りのにぎわいとは違った静かな華やぎがあった。

 教えられた家にはだれもいなかった。ポルトガル商人の荷物らしいものが置かれているので、さっきまでここに居た気配はある。倭寇は、やはり商館に行こうと言う。そこはいつもたくさんの人が出入りするので、商人たちの居場所もすぐにわかるのだそうだ。

 教会のすぐそばの商館は、倭寇の言うとおりたいへんな賑わいだった。周辺の道には物売りの屋台がひしめいていた。腰掛をならべて酒を出す店もあって、酔っぱらった老人が気炎をあげていた。

 突然、酔っぱらいの老人が腰掛ごと、ひっくり返り若狭の足元に転がってきた。店の主人に罵声を浴びせられ、突き飛ばされたようだ。

「銭ならあると言っているだろう」

 老人は起き上がりながら、聞くに堪えない言葉で悪態をついた。店の主人も負けずに言い返す。

「この飲んだくれの詐欺師野郎が。お前なんか猿の小便でも飲んでおけ」

「儂をだれだと思っている。この薄ら馬鹿が。バーデンでフィリップ一世の赤痢を治したのは儂だぞ。それをあの、しみったれのフィリップが銭を出し惜しみしおって。それから儂はバーゼルで医学教授になって奇跡の医者と呼ばれていたのじゃ。儂の名前を知らぬものはいなかった。儂の教えを請うために家の前には長い列ができたものじゃ」

「わかった、わかった。それから奇跡の薬を作ったんだろう?」

 店主は小馬鹿にして笑った。酔っぱらっていた老人が急に真顔になって得意そうに胸を反らせた。

「その通り、ローダナム」

 老人は右手の人差し指を振りながら歌うように言った。

「ラテン語で称賛という意味じゃ。別名アヘンチンキ。これはどれほどの人を苦しみから救ったことか」

「もう何べんも聞いたよ。このインチキじじい。そんな話をだれが信じるか。商売のじゃまだ。どっかに行っとくれ」

 店主は持っていた桶の水を勢いよくかけた。生臭い飛沫が若狭にも飛んできた。老人は真っ赤になって怒り、手当たり次第に卓子と腰掛をなぎ倒して暴れた。

 若狭は老人の手を押さえて、懐から布を取り出し、汚れた着物や耳の上だけに残った縮れた白髪を拭いてやった。

「ご老人はお医者でございますか」

「おおそうじゃ」

「その、なんとかいう薬は苦しむ者を救うのですか」

「ローダナムじゃ。痛みをやわらげる最良の薬じゃ」

「死にかけている者も救われるでしょうか」

 老人は若狭の顔をじっと見つめた。

「そなた、琉球人レキオにしてはポルトガル語がうまいな」

「琉球人ではないわ。日本人ジャポネスじゃ」

「ほう」

 今度は上から下までをじろじろと見る。

「病人がいるのか」

 若狭はうなずいた。

「とても苦しんでいる。その、なんとかいう薬をわけてもらえぬでしょうか」

「ローダナムじゃ。日本人なら黄金をたんと持っているのであろうな」

 老人は狡そうな目で横から若狭を見た。若狭は、ここでもやはりものを言うのは銭なのだと暗澹とした。若狭と安東が持っているもので、銭に換えられそうなものは、懐剣とクルスくらいだ。しかしどちらも手放したくはない。困った末に若狭は苦し紛れに、「黄金を持っている」と嘘をついた。

「ならば病人のところへ案内あないせい」

 道すがら、老人はスイスの生まれで、「名はテオフラストゥス・ボムバストゥス・フォン・ホーエンハイムだ。凡人は覚えられぬであろうから、テオと呼ぶがいい」と言った。自分のような天才で立派な人物を、気軽にテオと呼べるのは名誉なことだと付け加えるのを忘れなかった。

 安東の母を探すのは倭寇に任せ、若狭はテオと一緒に安東のところへ戻ることにした。テオは途中自分の宿に寄って薬の入った鞄を持ってきた。

 苦しむ安東を見るなり、テオはずかずかとそばへ行き口を開けさせたり目蓋をひっくり返したりした。いつからこうなったかを聞き、若狭が答えると、「怪我はしなかったか」と訊いた。

「怪我をしたかどうか知らぬ。そんな様子はなかったが」

 テオは、安東の手に切り傷の痕を見つけた。

「これじゃ、この傷からよからぬものが入ったのじゃ」と、鞄から小ぶりな壜を取り出し、そばにあった器に注いだ。

「待っておれ。すぐに楽にしてやるからな」

 その言葉を聞いて、周りの者たちは、はっとして顔を見合わせた。若狭も背筋が寒くなった。まさか殺そうというのか。とんでもない男を連れて来てしまったのか。若狭は青くなって見つめていた。

 テオは安東の顔と体を押えるようにと命じ、口の中に器の液体を流し込んだ。

 安東が激しくむせる。ぷんと酒の臭いがする。

「それは酒なのか」

 若狭は不安に駆られて訊いた。

「ローダナムじゃ。酒に阿片と砕いた真珠、麝香じゃこう琥珀こはくを溶かしこんだものだ。他にも入っておるがそれは秘密じゃ」

 大口を開けて笑うと意外にも揃った白い歯が覗いた。若狭が思っていたほどの老人でもないらしい。

 安東は心なし表情が和らいできたように見える。テオは若狭を入り口のそばまで連れていって、小さな声で言った。

「あの男はもう助からぬ」

「だが、薬が効いたようにみえる。助かるのではないのか」

 テオは黙って首を横に振った。

「痛みだけは取れるだろう。だが、背中の筋の硬直はますます強くなり、いずれ背骨が折れて死んでしまう」

 若狭の頭をよぎったのは、情けないことに自分のことばかりだった。安東がいなければ、どうやって船賃を払えばいいのか。どうやってエクソシストを探せばいいのか。種子島に帰る船に乗ることはできるのか。そのどれも思うようにならなかった時、若狭はどこでどう暮らせばいいのだ。安東に頼り切っていただけに、この先どうすればいいのかまったくわからないのだった。

 その時扉が開いて、高麗人の倭寇と老婦人が入ってきた。若狭はすぐに安東の母親であることがわかった。ずんぐりとした体躯や大きな目鼻立ちがよく似ていた。

 母親はすっかり面変わりしてしまった息子の頬を撫でながら泣いた。だれにもかける言葉は見つからなかった。

 安東は薬が効いてどうにか口がきけるようになった。

「私は無実です。信じてください」

 それだけを言うとまた目を閉じてしまった。しかしそれが安東のもっとも言いたかったことなのだろう。母親も聞きたいことはたくさんあるに違いない。いままでどこでなにをしていたのか。どうやって帰ってくることができたのか。だがそのどれも訊くこと敵わず、時々名を呼びながら手を握りしめていた。

 安東は眠ったようだった。たぶん何日もまともに眠っていなかったのだろう。母親はその時初めて、この部屋にいる人々が息子のために骨を折ってくれたことに気付いたようだった。今頃気づいたことを恥じるように、母親は息子が世話になったことの礼を言った。そして息子がどうしてこのようなことになったのかを遠慮がちに訊いた。

「俺たちは明国の商人だ。アントニオとその妻を日本から船に乗せてきた」

 許盻が簡単に答えると母親はひどく驚いて、「日本」と叫んだ。

「そしてあなたが、アントニオの妻なのですか」

 若狭は仕方なしに、「そうだ」と答えた。

「アントニオは死んだものと思っていました。大司教様を殺し、奇跡のクルスを盗んだ罪を恥じて海に身を投げたのだと。でも、こうやって帰ってきたからには、ほんとうに無実なのでしょうね。私は信じてやりたいと思います」

「私も信じています」若狭も言った。

「アントニオは生来の善人です。この人ほど良い人は日本にも稀です」

 若狭を息子の妻だと信じている母親は、この異国の娘を慈しみ深く見つめ、手を握って涙にくれた。

 夜が更けると許盻は手下たちとともに別の部屋で寝ると言って出て行った。若狭と母親は床にうずくまり、つかの間の休息をとった。反対側の壁には、テオが倭寇から貰った酒を飲んでいぎたなく眠っていた。

 夜中に一度、安東の苦しむ声で目が覚めた。ローダナムを飲ませると楽になったようで、母親に頼みたいことがあると言う。母親が安東の口に耳を寄せると、安東は切れ切れの声で言った。

「若狭のことを頼みます。この人を日本へ帰してあげてください。それから私をキリスト教徒の墓地に埋葬してください」

 そして若狭には、「私の身の証を立ててください」と言って涙をひと筋こぼした。

 安東はまた静かに眠った。奇跡の薬というのは本当だった、と若狭は今更ながら思う。手も足も突っ張り、背中もこんなにひどく硬直して、見ているだけで苦しくなるほど反り返っているのに、安東は眉間に深いしわを刻むだけで眠ることができるのだ。このまま治ってくれるのではないかと、つい希望を持ってしまう。

 しかし明け方近く、その願いはもろくも崩れた。若狭はなにか予感のようなものを感じて目を覚ました。母親もテオも眠っていた。小さな明り取りの窓から見える空は、ほんのわずか白んできているようだった。部屋の中も夜の闇がいくらか薄くなっていた。

 安東が身じろぎする音が聞こえる。喰いしばった歯の間から声が小さく漏れた。次の瞬間、枯れ木をへし折るような、おぞましい音がした。背中の筋の収縮に耐えかねて、安東の背骨が折れた音だった。

 若狭がそばに行ったとき、安東はすでに事切れていた。

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