第十話 敗北

「兄上、また種子島に行かれるとか」

 弟の明算みょうさんが足音も高く部屋に入ってきた。算長は読んでいた書物を置きかけて、また目の高さに上げた。文字を追うわけでもなく、広縁の向こうの池とよく手入れされた庭を見ていた。さらに奥の木立の向こうには二重屋根の大塔だいとうが見える。かれこれ百年の間、中断されつつ造営され続けてきた巨大な大塔であるが、あと数年で完成する見通しがついたのだ。この造営中の大塔にも参詣者は引きも切らずにやってくる。

 紀州根来寺ねごろじは空海以来の学僧といわれた覚鑁かくばんが開創した。ここには学問と儀式をつかさど学侶がくりよと、寺の管理と防衛を行う行人ぎょうにんと呼ばれる僧兵が二万人以上住んでいる。堂や塔などの建造物が二千七百余り、坊舎は八十を数える。これを総じて根来衆と人は呼ぶが、この中でいくつかの坊に分かれており、その一つが算長率いる杉之坊なのである。

「兄上」

 明算がれて声高に呼ぶ。

「相変わらず耳が早いな」

 算長は書物を膝に置いて、ことさらのんびり返答した。

「昨年の暮れに戻ったばかりだというのに。此度こたびはいつお戻りでござるか」

「ふむ。すぐに戻ってくるほどに」

 明算は兄の言葉をまったく信じていないようだ。腹の中を見透かしたように、冷ややかな目を庭に転じた。

「さようでございますか。ならばよいのですが」

「なんじゃ、すぐに戻ると言うておるではないか」

「ですから、なにも言うておりませぬ」

 算長は杉之坊の院主という立場ではあるが、坊を実質動かしているのは弟の明算であった。算長がほとんど根来寺にいないためにこのようなことになったのだが、明算は頭脳も人望も申し分ない男であるため、つい任せきりにしてしまうのだった。

 昨年の夏、時堯の襲名の祝いという名目で種子島を訪れ、予想外に長居をしてしまった。根来寺に戻ってすぐは体調がすぐれなかった。眠りが浅く嫌な汗をかいて目が覚めることもあった。しかし、ここで修法ずほうを修め武術に励むうちに、次第に心身ともにもとの自分に戻った気がする。現に根来寺に戻ってからは、あのおかしな夢をまったく見ない。

 そうなると、ここでじっとしているのにも飽きてくるのだった。

 屋久島の禰寝氏を時堯が殲滅したという話を聞いたのは、梅の時季が終わり、そろそろ桜が咲こうかという頃だった。

 種子島家が親戚筋の禰寝家と争いになったのは、そもそも父の恵時しげときの不行跡が原因だった。それは昨年の二月のことだ。敗れた種子島家は屋久島の一部を要求されたに過ぎない。それを屋久島全島を差し出すと言い出したのは種子島家のほうだった。一年ののちに取り返すつもりであったのかどうかは定かではないが、火筒を手に入れたことがそれを早めたことは間違いない。

 投降した禰寝兵をいかにして皆殺しにしたかを子細に聞いて、さすがの算長も気分が悪くなった。あの時堯の所業とはとても思えなかった。

 明算には済まないと思いながら、再び種子島に行くことにしたのは、時堯の様子が気になって仕方がなかったからである。種子島家は今後も大切な商取引の相手であるが、それ以上に時堯への友愛の情を感じていた。

 そしてもう一つ気になることは、若狭と安東の行方であった。まさかとは思っても、若狭が時堯に保護を申し入れたにもかかわらず、即座に斬り捨てられたなどという、ある筈もない憶測が振り払っても振り払っても湧いてくる。時堯が残忍な島主に成り果てたと聞けば、可能性は否定できない。本当に時堯は変わってしまったのかどうか、この目で確かめなければ信じられないのだった。

 根来寺から種子島へは、紀ノ川を下り一度海に出てから堺の港に繋留してある船に乗り換える。運び込んだ木箱には明銭がぎっしりと詰まっている。大金を持ち出す算長に明算は目を丸くした。算長が「土産を持って帰るからな」と、にやりとすると、明算もにやりと笑った。目を輝かしているところを見ると、だいたいの予想がついているようだ。

 火筒を一挺買い取って、根来の門前町でこれを大量に作らせるつもりだ。火筒を初めて目にしたときには、実戦で使うなどということは考えもしなかったが、時堯のおかげで見方が変わった。火筒を大量に所有し、効果的な使い方ができれば戦の歴史を変えることになるだろう。

 春の海は穏やかだった。山深い根来寺も嫌いではないが、やはり広々とした海は自分の性に合っている。空と海の境は分かちがたく、ただ一色の青である。途中、土佐の浦戸に寄港し、順風ならば五日ほどの船旅だった。算長は潮風を全身で受け止めながら、すべてがうまくいくような予感で胸が満たされていた。

 しかし、種子島の赤尾木あこうぎの港に着いた途端、算長は不快な臭いを嗅いだ。船の上で感じた明るい望みも一瞬にして砕け散った。港は数か月前となんら変わるところはなく、潮の香りもごく普通だった。根来寺を発つ時には、桜のつぼみはまだ固かったが、種子島では散りかけていた。時折吹く風に乗って花びらが舞い散っていた。種子島には何度も来ているが桜の季節は初めてであった。春の風は柔らかく、陽は陽炎が立つほどに暖かい。山にはぽつりぽつりと桜の木が白い飾りのように花を咲かせていた。不快な臭いは気のせいかと思われるが、この一見のどかな風景に不吉な胸騒ぎを感じるのはなぜなのか。

 数か月離れていただけで、故郷のようにも感じていた種子島は、妙によそよそしい島になってしまった。道を行く島人もなぜか生気が感じられない。

 算長は時堯に会いに行く前に、若狭の消息を訊くために金兵衛の家に行くことにした。

 金兵衛の屋敷に近づくにつれて、鎚の音があちこちから聞こえてくる。前は畑だった場所にも鍛冶場が作られていた。

 金兵衛の家の鍛冶場は、注連縄が張られておらず出入口も開け放たれ、始終人が忙しげに出入りしていた。活気にあふれているというよりは殺気だっていた。鍛冶場の外から覗くと金兵衛は見る影もなく痩せていた。目玉ばかりをぎょろぎょろとさせ鬼神のごとくに鎚を振るっていた。

 とても金兵衛に話を聞けるような状態ではないので、嘉女を探しに母屋へ向かった。

 嘉女もまたひどくやつれていた。算長を見るとうっすらと涙を浮かべた。

「大層な賑わいじゃな。したが、そなたも金兵衛も大丈夫か。働きすぎではないのか」

 すると嘉女は小さく首を振って、目顔で庭を見るように言った。庭には役人が、いつの間に来たのか六尺棒を持って立っていた。こちらの話しを聞いて不都合があれば上に報告するつもりなのか。そういえば鍛冶場にも一人、役人が立っていた。金兵衛と嘉女が憔悴している理由はこの辺にあるらしい。

 ここでは何も話せぬ、と思った算長は早々に引き上げることにした。

「顔を見に寄っただけじゃ、西村殿の屋敷に世話になるつもりであるから、いつでも訪ねて参れ。金兵衛にもそう伝えよ」

 嘉女は苦しげに眉を寄せてごく小さな声で囁いた。

「日が落ちましたら、お千の家へ」

 と、それだけを言うと何食わぬ顔で、「この次は、ぜひごゆるりとお出でくださいまし」と言った。

 寄留するつもりだった西村の屋敷は閉ざされていた。ここにも役人が番をしていたが、事情を訊ねる気にもなれず算長は城へ向かった。

 城の門番は知らない男に代わっていた。算長が名を言っても無礼な態度で遇され、ひどく気分を害した。控えの間でもこれまでにないほど長く待たされた。その間に、時堯の家来を何人か見たが、どれも知らない顔だった。

 対面の間に案内され、時堯が入室する合図があったので算長は平伏して待った。襖が開き畳を踏みしめる音がする。

 平伏していた算長は突然の悪心に襲われた。

「よう参ったな。津田殿」

 以前と変わらぬ時堯の声だった。しかし、算長はどうしても顔が上げられない。

「長旅で疲れたであろう」

「はっ、畏れ入りましてございます」

 それだけを漸く言い、算長はなにかに押さえつけられているように重い頭を必死に持ち上げた。

 時堯の顔を見て、声が出そうになるのを辛うじてこらえた。時堯の目が不気味に赤く光っていたのだ。しかし、瞬きを繰り返してよく見るとそれは算長の見間違いであるようだった。さっきまでの頭の重さも、もう感じなかった。

「西村殿の屋敷に行って参りましたが、門が閉ざされておりました。なにかあったのでございまするか」

「ふむ。彼奴あやつ、血迷うた」

「といいますと」

「儂を斬ろうとした」

「ええっ」

 まさか、という言葉は飲みこんだ。島主の言葉に異を唱えるわけにはいかない。しかし、あの西村が主君に叛くとは到底信じられない。

「西村はなぜそのようなことを」

「儂にもわからぬ。近頃おかしなことを口走っておったと言う者もおるが」

「それで西村はどのようなことに」

「妻子共々打ち首じゃ」

 なんということだ。あの人のいい西村が。あの優しい妻女が。京に勉学に行っていると聞いていた二人の息子の命乞いをする者はいなかったのか。西村の名を聞いて嘉女が苦しげな顔をした理由がわかった。算長は胸が掻き毟られる思いだったが、口から出た言葉は別のものだった。

「殿が御無事でなによりでござった」

 時堯は満足そうにうなずいた。

「ときに津田殿。此度こたびもゆっくりしてゆけるのだろう。儂も火筒が揃うまでの間、存分に羽を伸ばそうと思うておる。狩りでも釣りでも共に行こうぞ」

「ははっ、お供いたします。火筒といえば鍛冶屋がずいぶんと増えたようでございますが、火筒はどれほどお作りになるのでござりましょうか」

「うむ。とりあえず二千挺ほど作る予定じゃ」

「二千挺」

 算長は息を呑んだ。それほど大量の火筒をどう使うつもりなのか、問いたい誘惑に駆られたが、ぐっとこらえた。ほんの一言の間違いで時堯の勘気を蒙りそうな気配がある。話題はなるべく戦から離れたほうがよいと直感した。

「鍛冶場には殿の御家来衆が出張でばっておりましたが、あれはどういうお心積もりでござりますか」

「ああ、あれか。火筒の作り方を盗もうなどという輩を警戒してのことじゃ。禰寝との戦で威力を見せつけたからのう。どこかで聞きつけて盗人がやって来ぬとも限らん。それと怠けるやつを見張るためじゃ」

 時堯は声を上げて笑った。だが目は笑っていなかった。役人を置いている理由はほかにあるものと思われる。算長が鍛冶場を覗いたときも特に咎められるようなことはなかった。それに怠ける職人を見張るためなら嘉女と算長の話に聞き耳を立てる必要もない。算長は金兵衛と嘉女の憔悴した顔を思い浮かべた。

「時堯さま。金兵衛の娘、若狭が生きていたという話はご存じですか」

「おお、知っておる。そなたが匿っておったそうじゃな」

 時堯はそう言って笑った。

「畏れ入ります」と算長は頭を下げた。

「その若狭でございますが、その後どこへ身を隠したか、ご存じありませぬか。中途半端に手を貸したまま、あとがどうなったか知らぬというのでは寝覚めが悪うございます」

「儂も確かなことは知らぬ。だが、一度金兵衛の家に顔を見せたのじゃが」

「では、金兵衛がどこかへ匿ったということでござりましょうか」

 算長は幾分ほっとして訊いた。

「金兵衛はどこに行ったか知らぬと申しておった」

 時堯は腹立たしげに唇を曲げた。

「それでは、若狭は西村の屋敷を出たあと父母の家に顔を出し、また姿を消したというのですか」

「そうじゃ。儂が城へ来いと申したに逆らいおった。偽りの噂を流した佐竹は成敗したによって案ずるなと言うてやったが」

「佐竹殿は蟄居を申し付けられたと聞きましたが」

「いや打ち首じゃ」

「打ち首。まさか妻子共々」

「妻子も連座させた」

 算長の背中を冷たい汗が流れた。たぶん役人は若狭の動向を探るために遣わされたのだ。だが時堯が、なぜそこまで若狭に執着するのかわからない。正室を迎えるのに邪魔な存在だったのではなかったか。

『もしや』

 時堯がすでに若狭を殺していたとしたらどうだろう。安東もその時に一緒に殺されたか、それともどこかへ逃げたか。金兵衛も嘉女もそれを知っていて、そのことが漏れないように見張られている。そういうことも考えられるだろうか。いずれにせよ、この島に長居は無用だ。時堯は噂通り別人になってしまった。若狭と安東は殺された可能性が高い。こうなれば残り一つの目的を早いところ済ませ、一日も早くこの島を離れるのだ。

「殿、火筒を一挺、この算長に売ってはいただけないでしょうか」

「構わぬぞ。火筒のことでは津田殿にも世話になったゆえ」

 しかし時堯は渋面を作り、「だがな」と続けた。

「禰寝との戦で二十挺ほどを使ったが、撃っているうちに弾が出なくなったのじゃ。戦の前に火筒隊に訓練させたのと合わせて、そうさな、三十数発じゃ。たったそれだけで使い物にならぬとは。儂は金兵衛を呼んで原因を調べさせた」

「して、わかりましたか」

「うむ。そうじゃ、あのとき津田殿もおったな。金兵衛が火筒の尾栓びせんを見せてくれと言って来たときじゃ。尾栓の捻子ねじを切るのに時間が掛かって予定の数を仕上げられないと泣きついて来おった。それで儂は言ったのじゃ、捻子を切って尾栓を外す理由がわからぬのなら塞いでしまえと」

「はい、確かにそう仰せでございました」

「しかしあの尾栓は、重要な役割があったのじゃ。金兵衛が調べてみると、火筒の中には火薬のかすが詰まっておった。戦の前に尾栓を外し、滓を取っておかなければならなかったのじゃ」

「それで今は、尾栓は捻子を切ったものを作っているのでござりますか」

「そうじゃ。だが、一挺作るのに何倍もの時間が掛かる。捻子の切り方をなんとか工夫せねば、千挺はおろか百挺も揃わぬわ」

「金兵衛はまだ捻子の切り方を……」

「夜も寝ずに考えておるらしいが、まだわからぬと言うておった。仕方なく儂は人手を増やして作らせておるのじゃ」

 金兵衛ならば時間さえあれば、いずれ捻子の切り方を考案するだろう。しかし時堯は急いでいる。算長もまた急いでいる。尾栓の捻子の問題が解決するまでは、また種子島に足止めを食うことになるかもしれない。

『何事もなければよいが』

「いまなんと申した」

 なにも申しておりませぬ、と言おうとして時堯の顔を見上げた。算長は、息を呑んで思わず身を引いた。時堯の形相が一変していたのだ。

「そのほう、若狭の居場所を知っておるのだな」

「いいえ存じませぬ。時堯さま、どうなされたのです」

 時堯の目は入ってきた時以上に赤々と異様な光を放っていた。皮膚はどす黒く、唇は白くひび割れていた。顔は、もはや時堯ではなかった。いつか夢の中で見た男の顔だった。三郎と名乗った、時堯にどことなく似た男。

『これも夢なのか。いや違う』

「お珠は俺のものだ。だれにも渡さぬ」

 魚の臓物のような臭いは時堯の吐く息の臭いだった。

「お前はだれだ。三郎か」

 三郎が西村の言うように百年前に死んだ男なら、これは迷い出た悪霊に違いない。 今ここで対峙している悪霊を直ちに降伏こうぶくしなければ自分の身が危ない。かつてこのようなものと相対したことはなかったが、邪悪な夢で見た得体の知れないものとはまるで違う、明らかに算長を害する意識を感じた。

 時堯は奇妙に歪んだ顔で薄く笑っていた。

りん」「ぴょう」「とう」「じゃ

 算長は九字くじの印を切った。算長の喉は、認めたくはないが恐怖で渇きひりついていた。これはもともとは日本古来の修験道から発したものである。仏教伝来以前からの、日本土着の神々への信仰と、密教の山中修行とが結びつき、修験道という独自の信仰が成立したのだ。算長の恐怖心が、本能的に修験道の根源的で目前の敵を倒すという、より明確な効力を求めたのだ。

かい」「じん」「れつ」「ざい」「ぜん

 読み下せば、「のぞめるつわものたたかう者、みなじんやぶれて前に在り」となる。

 一音一音に相応する印を結び剣印を四縦五横に切る。この間、降伏こうぶくする魔の滅びるさまを頭に描くことに集中しなければならないのだが、算長はどういうわけか時堯の様子を窺ってしまった。剣印を切る手の向こうの、不敵な面構えと目が合ってしまった。

『負ける』

 こんなふうに思ったことは初めてであった。腹の奥に脆弱な己が現れ算長を脅かした。負けてなるものかと剣印に力を籠め、最後に魔を斜めに切り下ろす。しかし剣印によって切られたのは算長だった。右の顳顬こめかみから左の胸、腹にかけて鋭い痛みとともに鮮血が噴き出した。算長の切った印がそのまま鏡に反射するように跳ね返されたのだ。

 臓腑が、頭の中が、邪悪な手でかき回される感覚がある。

 算長は自分の負けを悟った。しかし、このまま引き下がるのはあまりにも無念だった。

「三郎、お前は時堯さまをどうしたのだ。あのお人を返せ」

「算長、俺の狙いはお前だったのだ。ともに大日如来を信奉する者として、役に立ってくれるかと思うたが、お前には失望させられたぞ。まあ時堯のほうが御しやすいからよいわ」

 時堯の顔で、時堯とは思えぬよこしまな笑い声で笑った。

「お珠は俺のものだ。だれにも邪魔はさせぬ」

「お珠とはだれだ」

 算長は叫んだつもりだったが声が出たとは思えなかった。三郎の前から逃げなければ、という焦りで算長は不様ぶざまに床の上でのたうった。その間も算長は耐え難い苦痛を全身に感じていた。

『そうだ、あの時も自分の力を制御できずに、自らを傷つけてしまったのだ。あの時は夢であったから助かったが……』

 意識が遠のく。視界は暗闇に閉ざされたが、それでもなお算長は三郎から逃れようと必死に手足を動かした。しかし自分がどこにいるのかついにわからなくなり、指一本すら動かす力を失ったのだった。


 算長が目覚めたのは粗末な家の中だった。灯火が低い天井を照らしている。空気の重さで今が深更なのがわかる。視界に入らぬところに人が何人かいる気配がする。確かめようとほんのわずか首を動かしただけで全身が錐もみするような痛みに襲われ、思わず声を漏らした。

「お目覚めのようでございます」

 千の声がした。視界の中に金兵衛と嘉女が入ってきた。

「津田さま。お気がつかれて、ようございました」

 嘉女が額の上の布をとりかえながら言った。

「儂はどこにおったのじゃ」

「鍛冶場近くの藪の中に倒れておいででした。嘉女と私が見張りの目を盗んでここに来るために、裏口から家を出るとちょうどお姿が見えました」

 金兵衛は背負ってここまで連れてきたが、その時には意識がまったくなく、死んでいるのかと思ったらしい。

 算長は三郎から逃げながら、意識を失う寸前まで自らが助かる道を必死に考えたのだろう。金兵衛や嘉女に見つけられる場所まで、どうにか自力で来られたことは幸いだった。

「いったい、なぜこのような目に遇われたのですか」

「時堯さまじゃ」

「ああ、やっぱり。時堯さまは変わられてしもうた。私はそれを知らずに、なんということを」

「金兵衛、どうしたのじゃ」

「私はとんでもないことを……たった一人の娘を……とんでもない目に合せてしもうた」

 泣き崩れる金兵衛に、嘉女もまた泣きながら身を寄せた。

「若狭はそなたのところへ顔を出したあと行方がわからないと聞いたが」

「ああ、そうでございました。津田さまにまだお礼を申し上げていなかった。役人に引っ立てられた若狭を助け、匿ってくださったのは津田さまなのだと若狭が教えてくれました。ですが、そこもいられなくなったそうで、そのあとは私の家に数日の間、隠れ住んでいたのです。津田さまにお知らせしてはどうか、と言ったのですが、これ以上迷惑は掛けられないと申しまして」

「若狭は一人だったか」

 金兵衛と嘉女は、まるで凍り付いたように表情を無くした。

 ようやく口を開いたのは金兵衛だった。

「安東という南蛮人の男が一緒でした。聞けば、もともとはこの千の家に隠れ住んでいた者だとか」

 視界の外で千が身じろぎをする気配がする。

「若狭は自分と安東がいることは、だれにも言わないでくれと言い張るのです。私は、このままずっと隠れ住むわけにもいかないだろうと説得しました。せめて、あの南蛮人さえいなければ、若狭一人を匿うこともできたものを。いや、それよりも時堯さまにお願いし、すべてを明らかにしてお許しをいただこうと、私は何度も若狭に言ったのです」

 しかし、若狭は頑として聞かなかった。金兵衛はその時のことを思い出すだけで頭に血が上り、苦しくなるのだった。

「では、これからどうするつもりじゃ」

 金兵衛は若狭の頑固さに辟易しながら声を荒げた。

「私は津田さまの船が着いたら、それに乗って堺にいくつもりです。この安東は倭寇船に乗りマラッカへ帰るのです」

 金兵衛はどうしても若狭を堺にやりたくなかった。若狭がなぜ時堯に許しを請うことに同意しないのか、その訳もわからなかった。そして金兵衛は若狭がいることを、秘かに時堯に話し保護を求めた。

「若狭が家にいると聞いた時堯さまは、すぐに私の家においでになりました。そして若狭に城に上がるようにと厳命したのです。とてもお断りできるような様子ではありませんでした。若狭もそれを感じたのでしょう。支度がありますので明日の朝参りますと返事をしておりました。ですが、その日の夜に安東共々この家を出たのでございます」

「それで、二人の行く先をそなたらは知らぬのか」

「知っております」

 金兵衛は苦しげに言葉を吐き出した。

「倭寇の船に乗りましてございます」

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