ぼたん

池面36/2

一話完結の短編

「ごめんねぇ、遅くなって」


 冷蔵庫から出した缶ビールをプシュッと開けてから、母は仕事のバッグを置いた。


「まーくん、今日はとくにおいしそうね。お父さんにも見せてあげましょ」


 せっせと晩ご飯をスマホで撮って送信する。そしてぐいっとビールをあおってから箸をつける。

「明日からだね。独りで大丈夫?」


「うん。母さん、仕事だし。それより晩飯は大丈夫なの?」


「遅くなるんだったらどこかでお惣菜買って帰るから。親の心配なんかしないでよ」


 僕の料理をつまみに晩酌を始める。


 仕事が好きで陽気な母だ。


 だけど、ビールの缶についた口紅が目に毒だ。


「あ、お父さんから返事来たよー。今度帰ったときはフルコースにしろだって。あはは」


「じゃあ、勉強しとくよ」


「そんなに料理が好きなら、料理人になればいいじゃない」


「別に……そこまで好きってわけじゃないし」


「まあ、お父さんも大学には行ってほしいみたいだけどね」


 母の言葉からはアルコールと麦の香りがした。



 高速バスに乗ってしばらくすると、ビル街がいつの間にかなくなり、広大な田畑が広がった。


 ほかの乗客はイヤホンしてたり、寝てたりだけど、僕は太いエンジン音をBGMにキャベツとかネギとかが無限の遠くまで植えられた風景を眺めている方がリアルに思えた。


『いろいろ知らない世界に行ってみるのもいいかもしれませんね』


 進路がいつまでも決まらない僕に、三者面談の時に担任はこう言った。


 それはただの話の流れで出てきた言葉であって、強く勧められたとかじゃない。


『お父さんのところへ行くのもいいんじゃない?』


 母はそう言ったが、あそこも家と大して生活が変わらないような気がする。


 高速バスを降りて路線バスに乗り換える。


 田畑と山と古びた民家しか見当たらない風景がしばらく続いて、目的の民宿前で降りる。


 晩秋の夕日に映える美しい山村の風景が広がっていた。



 両親も先生も僕の意思を尊重してくれる。


 言い換えれば何も要求しない。


 必要としてないなんて言えば悪意がありすぎるけど、僕はちょっと困っている。


 自由でいられることはありがたいのだけど、無限の選択肢から一つだけを選ばなければならないというのはなかなか決断が難しい。


 この旅で何かを見つけられればいいのだけど。


 チェックインして、お風呂に入り、出された夕食を食べ、動画でも見てから寝る。


「…………」


 場所が変わっただけでいつもの生活と変わらなかった。


 僕はこの旅にあまり期待しないことにした。



 翌朝、朝食をいただいてからとりあえずバスに乗ってみた。


 気づいたのは、美しい山村の風景というのは手入れがされているからそう思えるのであって、人の手が行き届いてない場所に来るととてもじゃないがそんな形容はできない。人を拒むような眺めを、バスが無理矢理に通り抜けているようだった。


 僕は適当なバス停で降りた。


 受け入れられているわけでもないだろうけど、、襲いかかってくるわけじゃない。


 あ、でもクマとか出たりするのかな?


 そんなことを思いながら目的もなくぶらぶらしてみることにした。


 何もない山道だけど、舗装はしてあるから何とかなるだろう。



 そう思って小一時間ばかり歩いてみたが、民家もなければ畑もないし、人はおろか車とすれ違うことさえなかった。


 さすがにもう戻ろうと思ったが、もと来た道がどうだったか地図アプリを開いてみてもわからなくなった。せめてバス停の位置くらいマークしておくべきだった。


 とはいえ、警察に電話するのも恥ずかしい。


 いよいよになるまではなんとか自力でどうにかしたい。


 そんなこんなでさまよっていると、一台の軽トラックを見つけた。


 誰も乗っていないようだが、おそらくここから山に入っているに違いないと考えた。


 下りてきたら、事情を説明してバス停まで送ってもらおう。



 ほどなく山から人の声が聞こえてきた。


「村上さんも無理なんですか。うわー、どうしよー」


 オレンジのハンティングベストと帽子をかぶった女性が下りてきた。


「あの、お困りでしたら僕が手伝いましょうか?」


「え? なにきみ」


「すいません、迷子になっちゃって。もしよければ近くのバス停まで乗せてもらいたいのですが、さすがにただはまずいかと思いまして」


 こんなに積極的に話すのは自分らしくないけど、このチャンスを逃したら本当に帰れなくなるかもしれない。


「ああ、いいよいいよ。それなら送ってあげるから。そんな格好で山の中には入れないよ」


 ショートコートにジーンズ、スニーカーは山に入るべきじゃないらしい。


「でも申し訳ないというか……」


「そんなこと気にしなくていいよ。って……道悪くないしね。箱の中で死なれても困るし……」


 なんだその不穏な表現は?



 女性は僕を山の中へ案内した。土の山道は乾いて歩きやすく、紅葉が美しかった。


 進むとガシャンガシャンと金属を殴りつける音が聞こえてきた。


「箱罠を壊そうとして体当たりしてるんだけど、ほっといたらたまに勢いで頭割って死んじゃうこともあるんだよね。だから、今のうちになんとかしたかったんだよ」


 鉄格子を組み合わせて作ったような箱の中には、一頭のイノシシが入っていた。


 いきり立って何度も何度も頭を鉄格子にぶつけていた。


 強烈な獣の臭いが漂ってきている。


「じゃあ、この電気槍で刺すから」


 バッテリーのコードの一方を箱罠に、もう一方を槍につなげてイノシシに突き刺す。


 向こうも暴れるのでかなり苦戦したが、急所に刺さった瞬間に動かなくなった。


 箱罠を開けると、四肢をロープでぐるぐる巻きにし、間に大きめの木の棒を通す。


「じゃあ、きみはこっち側もって」


 ここで初めて僕は仕事にありついた。


 二人で死んだイノシシを木にぶら下げて運び、軽トラックに乗せた。



めてから三〇分以内に血を抜かないと、臭くて肉が食べられなくなっちゃうのよね」


 バス停に送ってもらう道中、女性はこれまでしていたことの説明をしてくれた。


 彼女はこの地域で農業と狩猟で生計を立てている。


 イノシシは田畑を荒らすので駆除対象になっているのだという。そのために箱罠を仕掛けていて、見回りの最中にこの荷台のイノシシを見つけたのだが、猟友会の仲間が誰も都合がつかず困っていたのだそうだ。


 たしかに女性一人で運ぶのは無理だろう。


 捕った獲物は食べるのが一番いいらしい。死んだまま放置しておくとクマとかのもっと危ない獣が近寄るようになるからだ。つまり、人間の目の届くところでめて、できるだけ早いうちに捌いて肉にするのが最もよいということだ。なるほど。


 この女性、初めて見たときは母と同じくらいの年齢かと思ったけど、近くでよく見たらもっと若い。多分二〇代じゃないだろうか。化粧をしてないからよくわからなかった。


 そして、きれいだった。



「あー、しまった!」


「どうしたんですか?」


「ごめん、うっかりしてた!」


「何がですか?」


「服、臭いついちゃってるよ。絶対臭い!」


「えぇ?」


「ごめんね。やっぱり手伝ってもらうんじゃなかった」


「そうなんですか? もう鼻がきかなくなってわからなかった」


「それじゃバス乗せてもらえないかもしれない。宿でも文句言われるかも」


 田舎の人は優しいと思ったけど、必ずしもどこでも通じるわけではないようだ。


「時間ある?」


「え? まあ、今日一日なら」


「うちにおいで。洗濯してあげるから」


 いきなりの展開に僕の頭の中には不純な未来が広がった。


「ついでだから、イノシシ捌くところも見せてあげる。お肉も食べて帰るといいよ」


 血みどろの内臓を想像して、僕は急激に冷めていった。



 山村の農家のイメージそのままの家は実に生活感にあふれていた。


 身体についた臭いを落とすために風呂も貸してくれた。


 服を洗っている間用に男性ものの着替えを用意してくれた。


「死んだ旦那のだけど」


 あまりいい気はしなかったが、臭いまんまよりは多分いい。


 風呂を出て軽トラックを駐めた辺りの小屋に行くと、台の上に横たわるイノシシの足を女性がつかんでぐいぐいと動かしていた。動きに合わせて心臓辺りに開かれた穴からどぼどぼと血が出てくる。


 正直、萎える光景だ。


「ちゃんと保健所に認可された施設だから安心してね」


 あらかた血が出なくなると、ウィンチでイノシシを吊り上げて小さなプールに落とす。新鮮な水が注がれると同時に赤く染まった水があふれる。


「本当は一日くらい流水で血抜きするんだけどね。腕くらいなら食べれるんじゃないかな」


 がしがしと全体を洗った後に、鉈のようなナイフで前足を関節で切り落とした。


 鮮やかな手つきで毛皮を剥ぎ、脂肪を削り落とすと、一本の骨付き肉ができた。



「おいしい?」


 肉は丁寧にたたかれてから塩こしょうをまとったステーキになった。


 テキパキとした作業で遅めの昼飯くらいの時間で食べることができた。


「ちょっと堅いですね」


「野生だからね」


「でもおいしいです」


「うふふ。でもけっこう平気な顔して食べるんだね。気持ち悪がって食べないかと思った」


「あ……」


 言われて初めて気づいた。


 目の前で殺され、捌かれた肉だ。普通の神経じゃ無理なのかもしれない。


 もしかすると自分は残酷で無神経な人間なのだろうか。


「あはは、ごめんね。おいしく食べてあげることが供養なんだから。気にしないで食べてね」


「はい」


 そう言うと、頬づえをついて僕が食べる様をじっと眺めていた。



「……あの、お名前を聞いてもいいですか?」


「え? もうこれっきり会うこともないと思うけど」


「いや、その……こっちから話しかけるのになんて言えばいいか……」


「ああ、そうね。私は雪菜ゆきなだよ。きみは?」


「僕は昌紀まさきです」


「そっか。じゃあ、まーくんだね」


「あはは……うちの母もそう呼びます……」


「まーくんは自分探しの旅に来たんだね。イノシシ殺すなんていい刺激になった?」


「いや、あの……よくわかんないです」


「だよねー」


 母とは全然違うのに、屈託のない陽気さがあってちょっと似ていると思った。



「雪菜さんは、ここで猟を昔からやってるんですか?」


「昔っていっても、三年前からかな。ここに住んで四年目だし。その前は東京でOL。出身は名古屋だし」


 直感で聞いてはいけないことを聞いてしまったと思った。


「やばいこと聞いたと思ったでしょ。どうする? やめとくなら今のうちだよ」


 雪菜さんはいたずらっぽく笑った。


「聞きたいです」


「いいよ、たいしたことじゃないけどね。私がここに住んだのは四年前。旦那と結婚したときに引っ越したんだ。だけど、ここに来て一年目で死んじゃった」


 旦那さんが亡くなっていることはさっきも聞いた。


 そのことに対して僕が返した質問はあまりに無神経だった。


「何でですか?」


「自殺」


 そのときの口調だけ、重くゆっくりだった。


「もともと鬱の気はあったのよね……

 同じ会社だったんだけど、私が知ってるだけでも二回長期休暇とってたし。

 だけどさ、なんか好きで……二人一緒に寿退職して、こっちにやってきたの。

 田舎でのんびり農業でもしながらってね。

 彼を支えてあげられる自信あったんだけどな。

 別にここの誰かともめたわけでもないし、私がきちんと向き合ってこなかった訳でもないのに……突然」


「す、すみません。悪いことを聞いてしまいました」


「こらこら、感情こもってないよ」


「す、すみません!!」


「あはは。まあ、それなりには心の整理もついてるから。あ、まーくんも都会っ子でしょ。田舎に来たらストレスなく暮らせるとか、あれって都会人の幻想だからね。人付き合いしないと集落が機能しないから、これ必須だよ。面倒くさい。そもそもすっごい不便だし」


 僕はそれ以上何も答えることができなくなってしまった。



「ここにいる理由もなくなったし、名古屋に帰ろうかなって思ったんだけど、この集落も高齢化がすごくってね。いずれ廃れて荒れ果てるんだろうなってわかってるんだけど、なんか見捨てられなくってね。猟銃免許取ったり、大型特殊免許取ったり……なんか本気で猟師と農業やってるし」


 気づくと雪菜さんは、右手に何かの服のボタンをもっておもむろにいじっていた。

 旦那さんの服についていたものだろうか。


「私ってさ、もう助かる見込みのない人に寄り添ってあげたくなっちゃうタイプなのかな? そんな自覚ないけど」


 答えに困った僕は、とにかく食べることにした。


 そして、食べ終わった後雪菜さんはこう言った。


「まーくん、おいしかった?」


 僕はこう返した。


「……命の、味がしました」


「あははは。わかる」



 その後、服の乾燥も終わり、雪菜さんは僕を民宿まで送ってくれた。


 分かれるときの表情は寂しそうでも何でもなく、普通に笑顔だった。


 宿に預けた荷物を受け取って、僕は帰りの高速バスに乗った。



 次の日からいつものように学校に通った。


 あの旅は結局有益だったのか。


 めったにない経験はしたと思うけど、じゃあ自分の中で何か変化があったのかと言われるとよくわからない。


 少なくともいえるのは、何と言うか……リアルに触れたということだ。


「昌紀、飯食おうぜー」


 昼休み、仲間と一緒に昼食を摂る。


 母さんの作ってくれた弁当箱を開ける。


 って、ほとんどが冷凍か僕が作った夕食の残りだけど。


 視線の先には同じように女子たちが集まって弁当箱を開ける。


 あんまり意識したことなかったけど、この年頃の女の子ってなんかふわっとした肌なんだなと思った。


 意外にうちのクラスの女子ってかわいい子多いんだな……


 その箸がひとつの唐揚げをつまんで、ピンクの口唇のさらにその奥へ運んでゆく。


 そして、それを噛んだ。


 噛んだ。


 何度も噛んだ。


 見えない口の中では、その唐揚げはぐちゃぐちゃに潰されているはずだった。


「おいしそー」


「ちょうだいよ」


「やだよ。最後の一個だもん」


 その子はとくに表情を変えたわけでもなかったけど、幸せなんだろうなと思った。


「昌紀。お前、あいつのこと好きだったの?」


「え、なんで?」


「ずっと見てたじゃん」


「そう?」



 次の週末。


「あの、イノシシの肉まだ残ってますよね」


 突然の訪問に呆れる雪菜さんはやっぱり化粧なんてしてなくて、その肌はふわっというよりもしっとりだった。


「あるよ。冷蔵庫で熟成させてるところだから。来週だったらもう売っちゃってたけど」


 イノシシは解体され、保存バッグに小分けにされていた。


「もしかして解体作業全部見たかった?」


「まあ、見てみたかったかも」


「ネット動画で検索したらあるよ」


「そうか」


「豚肉と同じようなものだから。これがバラで、これがロース……って、わかる?」


「それなりには」


「へぇ、感心だね。で、どこが欲しいのかな? せっかく遠くから来たんだし、ちょっとだったらタダでもいいよ。さすがにたくさんだったらやっぱりお金はもらわないといけないな」


「あの、雪菜さん。いくつか料理させてもらってもいいですか?」



 借りた台所は、自分の家よりも手狭だった。


「まーくん、料理好きなら料理人になればいいじゃん」


「毎日毎日、一日中やり続けるのはどうかなと思うんです」


「ああ、なるほどね。じゃあ、進路に迷うならとりあえず大学に入っといた方がいいよ。少なくとも学生という社会的身分はできる」


「だけど、これをやりたいって勉強があるわけでもないし」


「そんなの、ほとんどの子がそうじゃないの?」


「…………ああ、そうかも」


 雪菜さんはテーブルの椅子に座って、進路について一緒に考えてくれた。


 背中で受けながらも、僕は目の前の肉に意識が傾いていた。


「そこに行ったらそれをしないといけないって思うから決められないんじゃない?」


「そうなんですかね」


「例えば、医学部に行ったら医者にならないといけないとか、工学部に行ったらエンジニアにならないといけないとか。なんかそんなイメージあるでしょ」


「ああ確かに」


「でも手塚治虫は医学部出身の漫画家だし、工学部卒業して配属は営業なんてざらだよ」


「でもそれって、大学行った意味なくなるんじゃないですか?」


「じゃあ、まーくんは大学出た後の、それまでよりも長い人生を大学に縛られ続けて生きていくのかな?」


「あ……」


 僕は包丁を持っていた指をくわえた。口の中に血の味が広がる。


「え、けがした? あらら、大変だ」


 持ってきてくれたトイレットペーパーで傷口を押さえ、あらかた止まったところで防水の絆創膏をしてくれた。


 その過程で僕に触れた彼女の手は、なんだか水っぽい冷たさがあって、吸いつくようだった。



「普通、けがするなら反対の手じゃない?」


「なんでだろ」


 なぜか僕は包丁の刃元に自分の人差し指を押しつけていた。


 こんなことは初めてだった。


 だけど、痛くなかった。


「大丈夫?」


「全然大丈夫ですよ」



 そのまま料理を続け、僕は五品を雪菜さんの前に並べた。


「おっほっほ。フレンチだー」


「イノシシ骨のスープ、ローストイノシシ、スペアリブの煮込み、小間肉のリゾット、そしてデザートに腱で作ったゼリーです」


「待った甲斐あるね」


「すみません、柔らかく煮込むのに思った以上に時間がかかりました」


「骨のスープ作るのだって一時間そこらじゃ無理なんだから」


「修行が足りません」


「いいじゃない。向上心があって」


 雪菜さんは本当においしそうに僕の料理を食べてくれた。



「なかなか獣臭さの残るデザートもおつなものだね」


「あの臭いってどうやったら消せるんでしょうか」


「そんなの知らないよ。ゼラチンメーカーに聞いたら?」


 片付けは雪菜さんがしてくれた。


 その後はまた高速バスまで送ってくれる予定だ。


『だったら、まーくん。ここでお店開いたらいいじゃん。ジビエ料理店でも喫茶店でも』


 冗談でもいいからそんな感じで誘ってくれないかなと思ったけど、雪菜さんは言わなかった。



 あのボタンは旦那さんの遺品だろうか?


 旦那さんをいつまでも想って一人で過ごしているのだろうか?


 それとも、この村で誰かいい人ができてるんだろうか?


 だから旦那さんの服を捨てないでずっと持っているのだろうか?


 こんなことをくどくど考えるのは、なんでなんだろうか?



「……大人はね、みんなバカだから」


「そうなんですか?」


 突然、話題が変わった。


「そりゃそうでしょ。昔っから日本にはいろいろ問題はあるのにちっとも解決できてない。先生も親も国の役人も政治家もみんなバカだからだよ。だから、大人の言うことを真に受けたらだめだよ」


「はあ」


「大人はみんなこう思ってるんだ。自分より想像力のはたらく子供は面倒くさい、って」


「国民がバカな方が政治家には都合がいいとか、そういうことですか?」


「そしてみんな、バカになる。世界は終わる」


「すごい飛躍ですね」


 カチャカチャと食器を洗う背中に、僕はぼんやりとした答えしか返さなかった。



「自分の人生は自分のものなんだから、自分できちんと決めないとね……きゃ!」


 雪菜さんは小さな悲鳴を上げた。


 僕が後ろからそっと抱きついたからだ。


 こんなこと、今までしたことない。


 だけどなぜか、身体が自然に動いた。


 細い身体から目に見えない何かが放たれ、鼻をくすぐる。


「命の、においがします……」


「ちょっと、まーくん。放しなさい!」


 でも僕はその背中にそっと耳を当てた。


 心臓の鼓動が伝わってくる。


「命の、音がします……」


 腕には服越しに血液の流れが感じられた。


「生きてるって……ちょっとだけわかったような気がします……」


 窓からは秋の夕日が差し込んでいた。



「……あははは。わかる」


 言葉の趣旨は肯定的にさえとれるのに、声色は重かった。


「でもね。だめだよ、まーくん」


 雪菜さんは僕の腕に手を添えてきた。


「こうしてるのも、きみが私に決めて欲しいと思ってるからじゃないの?」


「え……」


「自分で自分のことを決められない人が、誰かを巻き込むような選択をしたらだめだよ」


「あ……す、すみません、すみません!」


 僕は慌てて雪菜さんから離れた。そしてここに来て初めて、自分がとんでもないことをしていたことを恥じた。


「あははは。まだまだ修行が足りないね」



 高速バスのバス停までの軽トラック。 雪菜さんの声は明るかった。


「後悔した?」


「……はい」


「うふふふ。そうか」


 その後はへこんでいる僕を気遣ってか、雪菜さんは何か声をかけようとしては、そのたびに小さく首を振っていた。


 バス停で降されると、運転席から励ますように言葉をくれた。


「後悔のない人生なんてないよ!」


「私も後悔してばかりだ」


「だから、後悔してもいいから前に進むんだ!」


 笑顔でグーを突き出してきた。


「……はい」


 僕はできるだけ心を落ち着かせて、元気に答えた。


「じゃあね」


 軽トラックは僕を置いて去って行った。


 そうだ、きっと最適だと思う選択をしてとしても少なからず後悔はするんだろう。


 だったら迷っていても仕方ないんだ。


 前に進むことを考えよう。うまくいかなかったらそのときまた考えればいい。できるなら、やりたいと思うことは全部やればいいじゃないか。


 迷惑をかけちゃいけないし、もうここには来ない方がいいだろう。


 ――――だけど、


 遠ざかる軽トラックのサイドミラーに映った雪菜さんは、


 泣いていた――。

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