惨劇

見咲影弥

本編

 凍てつく寒さのうちに散々喚き立ててみたけど、その行為に及んだからと言って特段何かが変わるわけでもなかった。むしろ状況は刻々と悪化している模様で、それに気づかせまいと平静を装っている風に見えた。変化を望んでも無駄だと知っていた。それでも何かに縋っていないと心が破れそうだったから。赤みの射した空さえも大半を灰色に塗り込められて、抵抗するわけでもなく色味とは対照的な冷静さで傍観していた。



 期待していました、恐ろしいほどに。正体不明の自信が、擬物の信用が、其処にあったのです。



 無邪気な声の残響が耳の奥底に留まり続ける。下校を告げるチャイムはとうに行方知れず。白い線を食み出したら死ぬんだって。訳も分からないジンクスを訳も分からず垂れ流しにする脳みその空っぽな少年少女。アスファルトに何かを賢明に打ち付ける音までも昇華してゆく。万人の群れに逆らって進む。歪んだ十字路、一刹那のうちに小天地が暗転するなど、彼らは知らなかった。クラクションは間に合わない。たったその一瞬を掬い取るように、鉄塊は幼い子供を空に打ち上げる。他愛ない、他意のない、単純な言葉と共に爆ぜる。あの日の悲鳴が、鼓膜を未だに擽るのだ。その節はどうも。御愁傷様でした。言葉は空中分解を起こし、宛先無く彷徨い歩く。

 


 交わるべきではなかったのです。私が間違っていました、貴方も、きっと。



 夕闇に溺れて、やっとのことで息をする。雑踏に紛れて佞悪な獣たちは牙を剥いて、獲物を待ち構えている。繁華街の一角の廃れた路地裏で取引される、一服で飛んでしまえる素敵なクスリ。曇り硝子の小瓶に遠慮ばかりに詰め込まれた、小指の爪ほどの粉。煎じて飲みましょうか。現実を忘れるための代償としてはお手頃価格。次第に高くなっていくのも、蕩けた脳味噌では考えにも及ばないんでしょうね。今宵も、働き盛りの疲れ顔のサラリーマンが、恋人にフラれて自暴自棄になったセーラー服の少女が、生ける屍のような痩せこけた老人が、ご厄介になるようです。けたたましいサイレンと不安を助長させるあの赤いランプに怯えながら過ごす日々を、どうかお楽しみなさってくださいな。揺らめくのは青い炎、燻る煙はアチラガワの香り。



 一番の悪者は誰でしょう。彼等を作ってしまった社会、なんて答えは責任転嫁でしょうか。



 禁じられた遊びだなんて嘯いて、乾いた笑い声を空に浮かべていた頃が懐かしかった。崩れ落ちる落日に総てを委ねて死んでほしかった。それが報いだと本当に信じていた馬鹿共は荒廃した街並みの端に倒れ込む。後に咲くのはどうせ干からびた感傷でしょうけど。酩酊の夜明けに答えなんてないし、有ってたまるかと強がった。本当は欲しくてしょうがないものを喫煙所の灰皿の上で、公衆の前で炙り散らかす。隅に健気に咲く、名も知らぬ花は面白半分で意味なく引き抜かれ、足蹴にされる。結局それが関の山。世界の亀裂の狭間で身を寄せ合って怯えることしかできない。所詮他人。助けようなんて思えないし、助けられたいとも思わない。そういう人種で、この街はできている。



 承認でなくともよかった。寛容で充分だったのです。



 無意味に適当なことをほざいた末に、結局皆其処ら辺の土だか泥だかに還るのが普遍の原理なら、いくら変わろうとしたって、それはこの世界に何ら影響を及ぼさない。どんなに美しくったって、どんなに醜くったって、行き着く先は代わり映えのしない地獄なのだから。顔の蒼い青年、春を鬻ぐ少年、痣だらけの少年。小走りで過ぎ去ってゆく過去には一瞥もくれない。後悔と名付けられたものも、凍え死んだ小動物の死骸が虫や風雨によって朽ちて消えてゆくように、それも気づいた頃には解けてなくなっているはずだ。媚びへつらったところで、何も与えてくれやしないのだから。得体のしれないものを溶かし切った腐葉土が花屋のプランターからぶち撒けられる。色とりどりの花は漆黒に呑まれる。死にゆくものを看取る、一瞬の温もりを感じた。



 いつかは皆同じ土に還ります。私は貴方になり、貴方は私になる。



 その他大勢の会社員の群れに逆行して、地下鉄の改札口を通り過ぎる。改札を通り抜けた後の静寂は、まるで映画が終わった後のエンドロール。喧騒だけが置き去りにされて、最後まで見ている人なんてほんの少数。その少数者さえも、揃いも揃ってスーツ姿。小さな液晶に気を取られている。自分を守ろうと必死に罵詈雑言の並ぶ字面に目を落として、また新しく書き連ねる。いつか自分が足元を掬われるとも知らないで。この街は酸素が薄い。生あるうちの話、どうせ私は私で貴方は貴方。それを分かっていながら、間抜け面で他者批判しかできない者たちが酷く哀れに思えた。相手への嫌悪感を正当化したいがための感情的な屁理屈論によって裁かれる必要など全くなくって、あくまでそれは貴方一人の意見だということを、貴方はまだ分かっていない。多数派というのは、多数派になりすました者たちの寄せ集めだ。 



 貴方だって、ほら。マジョリティのなりすましに過ぎないのですから。



 階段を下り、プラットホームに降りる。息をしているだけの死者のせいで空気が重い。下ろし立ての真っ黒な革鞄が宙にぷらんと浮いていた。窒息寸前の青い顔が目の前を蹌踉めきながら横切る。神経を逆撫でするように、やけに明るい音楽がスピーカーから聞こえる。まもなく、電車が来る。寸分の違いも、数分の遅れもなく、定刻通りに。迫りくる轟音に迷いは感じられない。さもそれこそが信念であるかのような顔をして突き抜ける。次々、線路へと気の狂ったように走り出す。身を捩り、衝突。肉が躍り、裂かれ、咲き乱れる。弾けた腕がブーメランのように飛び、隣に佇む女の顔を突き抜けた。女は貫かれた顔を後ろに倒し、視界から消えた。血雨が構内を濡らす。爆ぜて飛び散った肉塊がぬらぬらと電車の窓に貼り付いていた。ただぼぉとして、その情景を眺めていた。貴方もまた、同じように。自動ドアが静かに開いた。



 私達は貴方に宣戦布告します。



 世界がゴムのように縮んで、落下して、また跳ね上がる。今更やり直せるはずがないのだから。透明な血肉をガラス越しに慈しむ。とうに忘れたはずの鉄の匂いが再び蘇る。いつまで経っても消えることのない傷に思いを馳せる。鼓動が高鳴る。じりじりと終焉へと加速してゆく。いよいよ、一世一代の大舞台が始まる。黒光りするカバンから取り出したのは五百ミリリットルのペットボトル。中身をゆっくりと音を立てないように、私自身の体を伝わせて流してゆく。周りの連中は何ら不審がらず、液晶と対峙している。四本目のボトルを流し切った。準備は終わった。ライターを取り出す。ゆらりと白い炎が現れた。ふっとそれを地面に落とす。小さな世界が、あっという間に火柱に包まれる。私は燃える。彼らは逃げ惑う。引火してしまった者たちは必死に火と格闘するが、それも虚しくあっという間に火達磨になって転がり、また別の者へと燃え広がってゆく。まるで生き地獄。否、端からここは生き地獄。私は嗤う、嗤う。心地よいグルーヴに酔いながら。哀れな贄共を嘲笑う、嘲笑う。せめてもの抵抗。私なりの、曲がりなりにも考えた末に選び取った結末。美しい物語でした、そんな綺麗事で終わるものか。終われるものか。私だって誰かの傷痕になりたい。死んでも消えない記憶になりたい。どうしようもない彼らに一矢報いたい。貴方の、痛みになりたい。灼熱の中で、もはや熱さも痛みも感じなかった。畝り、響動めき、赫々たる炎と戯れる。



 さぁ、おいでなさい。

 貴方で、最後にします。        




【暗転】

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