『火曜日』
この季節の朝陽にしては暴力的過ぎる日射しだ。まるで針
「小さな湖だったんだ」
湖とボートの波を受け不規則に揺れるブイを見ながら今も尚、真実の記憶を信じる事ができずにいた。だから僕はどうしても確かめなくてはならない。僕の犯した罪の全部をもう二度と忘れるなんて赦されないからだ。アレがアソコに今もあるのか、自分自身で確かめるんだ。
僕は上着を脱ぐとボートの上からブイを目がけて湖へと飛び込んだ。飛び込んだ音なんてしなかった、僕は湖の優しさを感じていたからだ。湖のブイが中央から流されないのは、大きな重りとブラスチック製の鎖でブイは繋がれている。実は以前、ジュンと二人だけで冒険と称しながらボートㇸコッソリ乗り込み、ブイまで漕いで来た事があった。
そのブイの真下、10mも潜らない場所にアレはまだちゃんとあった。
黒くて
7時。
腕時計はまだ生きていた。こんな湖の仄暗い場所なのに、あれからずっと······
あの日の夜。
僕は、気付いたら、メイを、殺していた、首を、僕の両手が、絞めていた、メイは、抵抗した、ような気がする、けれども、思ったほどの、抵抗じゃなかった、気もする。
絵しか描けない無能な手だと何度も思っていたが、こういう事もできる手なんだ、と少しだけ驚いた記憶がある。
僕はメイの死体を絵にして
絵を描き終わった後、僕は暫くメイと二人っきりで過ごした。まだ、ほんのりと温かさのあるメイの
「ありがと、さよなら」
三流以下のチープな別れを告げた。
やがて外が白くなり始めてきたので、僕は裸のままのメイを肩に担ぐと別荘を出た。行き先は湖、娘の死体を隠す為だった。桟橋にあるボートへメイの死体を乗せると、朝陽が無数に反射している湖へとゆっくり漕ぎ出した。目指すはブイ、直後に僕の腕時計のアラームが鳴った。あの時も湖の優しさがアラームの音を小さくしてくれた気がする。時間は7時、僕もメイも湖でさえも必要としない情報だった。太陽の光は今日みたいに針
戻る時の息を考えるならこの辺りが丁度いいな、そんな
誰かが僕の足首を握り締める。
僕以外の誰もいない冷たい湖底なのに、恐ろしい程の力が足首を掴むと湖面への帰還を拒んだ。僕は慌てて足首を見る。
それはメイだった。メイは死んではいなかった。僕は恐怖のあまりメイの手を左手で剥ぎ取ろうとしたが、今度はそのまま僕の手首を掴まれてしまい、もう離そうとしない。メイは僕を道連れにしようとしている。しかし、愛も憎しみも悲しみすらも映す事のないメイの表情から、これはメイの仕業ではないのに気付いた。メイのお腹に宿った新しい生命の、正にメイの
最初こそ、そんなオカルト地味た事を考えたけど、メイは最初から死んでなかっただけなんだろう。確かにメイはこの
僕の肺の中から、湖面へと戻る為に残してあった酸素が急激に消費されていった。口から漏れた気泡が水面に向かって昇ってゆく。その泡を見ながらメイも少しだけ口元を歪めてみせた。笑っているつもりなのか。左手にしていた僕の腕時計の所にメイの指先がかかった。メイの口が開いて大量の空気が泡となって吹き出る。
パ······パ······
メイはそう言った。湖の底でも確かに聞こえた。
僕は咄嗟に腕時計のベルトを外す。そのまま腕時計と一緒に僕の左手首からメイの手も離れていった。まるで宝物のように大切に時計を掴んだまま、僕から離れていくメイ。正確には僕が湖面へと上がっているだけだから、離れているのは僕の方なんだが。メイは相変わらず嬉しそうにしながら、僕が遠ざかって行くのを見つめていた。
僕は情けなくも湖面への生還を果たした。激しく
今こうして僕の目の前にあるモノ。ブイの鎖にロープで繋がれて水中で揺らめいているモノ。それは僕が殺したメイの成れの果てだった。黒く変色し、ブヨブヨに
僕は湖から出ると車へとそのまま乗り込んだ。マンションに向かう為だった。服はまだ濡れたままだったけど、今更どうでもよい事だ。SUVのシートは疾っくに汚れている。これも何となくだが理由を思い出していた。
僕はもう何度も同じ事を繰り返している。時々こうやって別荘に来てはメイを殺したのを思い出し、湖に潜っては確かめているのだろう。僕はその
僕という罪を犯した人間の、その御都合主義にまみれた妄想を乗せて、車はマンションへと走った。全ての望みが叶わない、僕のマンションへ。
真夏の太陽がアスファルトを焼いている。
空を見上げれば呆れ果てる快晴だ。SUVはマンションの駐車場へと着いた。車から降りた僕を夏の熱気が抱き締める。クスリは僕から季節まで奪っていた。あの薄ら寒い
ジュンが、僕の目の前にいる。
いつも見せてくれる愉しそうな笑顔。小さな王様の最高の特技だ。その笑顔のまま、ジュンは嬉しそうにエレベーターへと走っていった。
「ジュン、転ぶから走っちゃダメだぞ」
僕も何だか嬉しくなりながら笑顔で注意していた。幸せを思い出す。目を離せばすぐに走り出すのがジュンだ。ミキもよく呆れていたっけ。
「どうして男の子は突然走るのかしら」
ダッシュボタンを身体のどこかに隠してるんだわ、と
エレベーターの中にはもうジュンが乗っている。ジュンはよく、一人で先にエレベーターに乗ると勝手に最上階の僕らの部屋へと上がっていった。一番乗りが大好きなジュンだ。湖に飛び込むのも部屋に着くのも。エレベーターの中のジュンはいつものように
そして、誰も乗っていなかった。
僕は、ゆっくりと一人、エレベーターに乗ると、最上階のボタンを、押した。
静かに上昇するエレベーターの中で、せめてジュンだけでも、と誰かに願っていた。この地獄の燃えるクソより最悪な現実を変えてくれるんなら、どんな奴でもこの命を
ただ、起こってしまった過去は何を捧げようとも元に戻る事は絶対に、無い。
僕を乗せたエレベーターは最上階で停止した。そのままエレベーターを降りると、部屋の前でジュンが待っているのが見えた。一度だけ僕を見て大きく笑うと、その勢いのまま元気よく玄関を開けて、
「ただいま!」
僕を乗せたエレベーターは最上階で停止した。それはクスリが見せてくれた最後の
「あのちょっと······ここのご主人?」
階下の住人かマンションの管理人か。不審がる表情はそのまま僕の今の様子を体現している。僕との距離を置いた場所から声を掛けていた。
「この臭い、お宅からじゃないですか?ちゃんとゴミとか出してます?」
部屋の中から、黒くて小さな大群が壁となって飛び出してきた。
キッチンへ向かうと天井から妻が、ミキがぶら下がったままだった。ただし、ぶら下がっているのはミキの首から上だけで、下は疾っくに腐ってしまって床へとぶち
メイを殺した後、僕はメイの部屋で恐ろしい発見をしてしまった。娘は母親のスマートフォンへとメールを送っていた。メールは2通、1通目は妊娠検査薬の結果が出るまでの
メイは自分の身に危険が迫った時の為に保険を掛けていたのだ。僕を脅迫するつもりだったのか、
タイマーは7時1分にセットしてあった。僕が湖でブイを目指してボートを
僕は急いで車に飛び乗るとマンションへと戻った。途中、何度もミキのスマートフォンに連絡をしたが、出る事はなかった。クスリを使ってでしか正気を保てないミキに、僕とメイとの関係がバレたのだから、もう悪い予感しかしなかった。それに連絡が取れたとしても、では一体何をミキに話せばよいのか。
「アナタは子供と一緒だよね」
と、笑って赦して欲しかった。
でも僕は運転しながら泣いていた。きっと僕はこのまま一生、ミキからは赦しを貰えない、と直感してしまったからだ。その直感はそのまま物理的な意味合いで、
自分の犯した責任に伴う犠牲を、どうしても最小限にしたい気持ち。罪の後に誰もが持つであろう感覚が、せめて妻だけでも、いや、それでもまだどこかで家族の皆がいっぱいの笑顔を僕へ向けてくれる、そんな
一つの罪は多くを失う。
そうして今の僕は、一つの記憶の前にまた涙を流していた。ドロドロに腐ったミキの死体の中にジュンは隠れていた。変わる事のない王様の太陽のような笑顔で、今もこんな僕を見つめてくれる。
よかった、ジュンだけはちゃんと見つけられて。
僕は
息子の、ジュンの突然の死。ミキが狂ってしまった原因である。僕は
あの日の僕は珍しくマンションからの景観をデッサンしていた。この味気無い景色を絵にするのも、
不穏な絶叫がこの最上階まで響いたのは、デッサンの手を休め、
エレベーターが1階に着くなり、騒然としている周囲に僕は驚く。
「まさかな」
自然に口をついた言葉は、僕が頭で思っていた言葉とは違い過ぎて、その事に不安を抑えられなくなった僕は、ミキの姿を探した。それでも妻は程なく見つける事ができた。道路の真ん中で血塗れでしゃがみ込みながら、まだ獣の悲鳴を上げていた。僕はミキへと走り寄ると、獣と化したミキはコチラを向いて叫んだ。
「まだ大丈夫っ!ジュンは生きてるっ!」
上半身だけしか残ってないジュンに文字通り、死に物狂いになって人工呼吸を繰り返しているミキを見た時、出来のいいジョーク番組だな、としか感じなかった。
そのトラックは、街となる部品を運んでいた。トラックの前輪はジュンを
後に警察からそんな説明を受けた時ですら、とうしてそんな冗談ばかりを言うんだろう、と思うだけだった。
ジュンの
「本当なの、ジュンはまだ息をしてたんだよ」
そして必ずその後に、
「······だって······胸が動いてたの」
と言って泣き崩れた。けれどもジュンの顔面は半分近く欠けていた。だから少なくとも即死だったんだ、と思う事ぐらいがジュンへのせめてもの鎮魂になるんじゃないか。僕は自分自身にも妻にもそう言い聞かせた。でもミキはジュンの死を自分の所為としか思えなくなってしまっていた。
「私が······ジュンに手を······振ったら、あの子······大喜びで突然······走り出したわ」
あの事故の瞬間を、クスリを飲ませてもまだ
あぁ、そう言えば殺される前のメイが、
「お腹の子供はきっとジュンの生まれ変わりなんだから!」
とか言ってたっけ。そんな訳がないのにメイは真剣にそう信じていたみたいだった。僕も一瞬だけど、メイの考えに心が流されて喜びそうになったが、
「メイ、そんな事は現実に起こるなんて無いんだ」
と冷静に語りかけた。それでも僕は、突然のジュンの名前に少し動揺していた。涙を我慢して鼻がツンと痛かった。
「そんな事は無いっ!パパとメイの子供だよっ!ジュン以外の子供が生まれてくるワケ無いじゃんっ!」
メイの言葉は悲痛というよりも、勢いだけのデタラメと
「パパが悪かった。けれどお腹の中の子供の事は諦」「私、産むから」
僕の身体のどこかで、メイの宣言を嬉しく感じたのを忘れない。唯一、ジュンをこの世へと取り戻す為の方法、この背徳の結末こそ僕が望んでいたものだ、という確信犯。なのに現実は違い過ぎて恐ろしい。メイの子供を抱えてミキに対して、
「ミキ、この子は僕とメイの子供でジュンの生まれ変わりなんだ」
が赦される世界には程遠い。僕もまた知らない裡に狂ってしまってたんだろう。それに気付いてしまった僕は、途端に目の前の全てが怖くなってしまった。
そして恐怖に負けた僕は、新しい罪を重ねてしまった。狂気に狂気を重ねても世界なんて変化はしない。よくある狂気としてマスコミに紹介され、数日もしたら忘れ去られる。僕はちっぽけな狂気の人生を選んでしまった。そっちの方が楽だったからだ。ジュンが事故死した日から家族全員が狂ってしまった。それでも、もっと時間を掛けて妻と娘に寄り添いながら、元へと戻す努力を惜しまなかったら、或いはこんな結末なんてなかったんだろう。
そんな事は疾っくに判っている!判っていたんだ······
僕はたった一人になってしまったこの部屋でジュンの遺影を抱き締めながら
僕は、ミキの自殺を誰にも話していない。誰かに話すという事は自分の罪が表になってしまうのもあったが、認めたくなかったのが大きかった。今でも心のどこかで妻の自殺を信じていない自分がいる。
ミキが自殺して3日ほど経った頃から様子が変わり始めた。死斑が身体の末端に集中するのは死ぬと心臓が止まる為で、血液や体液が重力に負けて下の方へと溜まるからである。最初は紫色だったものが黒色になり、やがて腐り始める。これより前にどこから嗅ぎ付けてくるのか解らないが、蝿がやってくる。蝿は何よりも先に、ミキの軀に蛆を直接生み付ける。蝿の尻から出た蛆達はミキの軀のアチコチから入って死肉を貪る。初めこそ一匹一匹取っていたが、数の多さに僕は早々に諦めた。僕は死んでいるミキに対して積極的には動けなかった。
あの時の感情は上手く説明できない。このまま蛆がミキを消してくれればいい、なんて考えた頃もあった。美しかった妻が無惨に喰われていくのを見ながら泣いた事もあった。でも僕は変化してゆくミキの姿を、
僕も死んだらコレと同じ。
そう思うと、今のミキは僕に大きな安心を提供している。死人は何も持たない、持てない。僕が必死になって手に入れたお金や家族や地位や名誉や幸せも自信までも、死んでまで持っては行けない。死んだら皆が平等なのだ。燃えて灰になるか、虫や魚に喰われるか、これだけの差だ。不思議とミキを見ていれば、あれだけ恐怖していた、死、が何とも思わなくなっていた。不死を手に入れたのでもないのに、僕は甦っていた。
やがて僕は奇妙な現象を確認する。
ある朝、ミキの死体の下に山盛りになったクスリが現れたのだ。それは妻がジュンの死後に服用していたクスリで、その全ての種類がそこにあった。昨日まで何万匹と蛆がいた場所にだ。気付けばミキの死体まで消えている。キッチンには山盛りのクスリだけがあった。その中のモスグリーンのピルを1錠飲んでみた。
「パパ、おはよう」
後ろにメイが眠そうな顔をして立っていた。
ミキの軀は、ジュンが死んでからずっとクスリ漬けの日々だったな。車の中でメイの幻も言ってたっけ。だとしたらクスリ漬けだったミキの軀を食べた蛆もまた、クスリ漬けと同じになったんじゃないのか。だから蛆はクスリと同等の効果を持っていたのかもしれない。きっと僕はジュンの事故死、メイへの殺人、ミキの自殺のショックで発狂したんだろう。蛆とクスリの区別もつかない狂人となってしまったんだ。
いや、有り得ない!
大体、蛆をクスリと間違えるなんて馬鹿げている。蛆にクスリの効果なんて残りはしないんだ。でも僕はずっとクスリを飲んでいた。アレは妻が遺したクスリだった。いや、妻はあんなにクスリは残していなかった。じゃあ、僕は何をクスリと思って飲んでいたんだ?今日まで僕が飲んでいたのは本当にクスリだったのか?
まさか、でもしかし······
僕はミキの下でゆっくりとへたり込んだ。そこには相変わらず山盛りになっているクスリがある。今だってクスリは少しずつ増えている。チューブからクリームを出すくらいの早さでクスリの山頂からモリモリと溶岩のように溢れていた。あのモスグリーンのピルもレモンイエローもインディゴブルーもワインレッドもミルキーピンクもセルリアンブルーもアイボリーも小豆色のツートンカラーもコーヒーブラウンもスカイブルーも、その山の中には全てのクスリが揃っていた。
その光景を見て僕は、これが最後のチャンスだ、と思っていた。クスリの魔力から脱出する
僕にはもうどっちだっていい。
だって、そのまま上を見たら、首だけになった筈のミキが微笑んでいたからだ。
「仕方無いよね、つらかったんだから」
僕が妻に、クスリを飲ませた後によく言っていた言葉を首だけの妻が僕に言っている。赦してくれたのだろうか。これも御都合主義なのか。
そう、余りにも辛過ぎたんだよ。ミキ。
僕も妻と一緒に笑った。笑って水に流すのも悪くない。ミキも一緒に笑ってくれている。僕はそのままクスリを全部、口の中に突っ込んだ。そして、クスリを噛み潰した。
口の中で、プチプチプチプチ、と蛆は
そして僕は、もうずっと、いつからか判らないくらいずっと、この景色をずっと、そうずっと、ずっと、ずっと眺めている。
「パパ、大丈夫?」
僕の後ろからメイが声を掛けてきた。娘に心配されるくらいの顔色をしているのだろう。それとも、クスリを飲んでいるのを既に知っているからかもしれない。
僕の右肩に手を置いて気を遣っているメイを、僕は優しくゆっくりその手を引きながら、娘を抱き寄せた。
「もう心配しなくていいんだよパパ。メイとジュンはずっと一緒だから」
メイのお腹が、ビクン、と動いた気がした。僕はメイの言葉に安心して、やがて窓の外の卯の花腐しに、腐らされて、トロトロに、溶けてゆく。
ミキのように。
窓の下には、赤色灯をクルクルト゚光らせた車が数台、近付いていた。
【TITLE】『MAGGOT』
R=H【Restricted=Homo sapiens 人間の閲覧禁止】 美人蔵いでる @bizinguraideru
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