『火曜日』

 この季節の朝陽にしては暴力的過ぎる日射しだ。まるで針さながらに刺してくる。光量だけでなく熱量もどちらもだった。僕は湖のほとりにいる。例の壊れたボートの前だ。壊れているとはいえ、まだ人を乗せるのには充分な形を保ってはいた。僕は桟橋さんばし係留けいりゅうしてあるボートに静かに乗り込み、湖の中央に浮かんでいるブイを目指した。ボートのオールが以前よりもボロボロになっていて、少しでも力を入れ間違えたら折れてしまいそうだった。それでもブイまでは思っていたよりも早く着いた。

「小さな湖だったんだ」

 しゃべる相手なんてどこにもいないのに、まるで一人ではないみたいにつぶやいた僕。あの日の湖は悪夢の中みたいに広く、どれだけボートをいでもブイには辿たどかなかったのに。大罪を犯した直後だったから、時間的錯覚をしたのかもしれない。

 湖とボートの波を受け不規則に揺れるブイを見ながら今も尚、真実の記憶を信じる事ができずにいた。だから僕はどうしても確かめなくてはならない。僕の犯した罪の全部をもう二度と忘れるなんて赦されないからだ。アレがアソコに今もあるのか、自分自身で確かめるんだ。

 僕は上着を脱ぐとボートの上からブイを目がけて湖へと飛び込んだ。飛び込んだ音なんてしなかった、僕は湖の優しさを感じていたからだ。湖のブイが中央から流されないのは、大きな重りとブラスチック製の鎖でブイは繋がれている。実は以前、ジュンと二人だけで冒険と称しながらボートㇸコッソリ乗り込み、ブイまで漕いで来た事があった。

 そのブイの真下、10mも潜らない場所にアレはまだちゃんとあった。

 黒くて花車きゃしゃかたまりは僕の腕時計を今もまだ力強く握り締めていた。忘れるワケがないミキとの結婚記念日に買ったペアウォッチだ。不意に水中にてくぐもったアラーム音が響いた。

 7時。

 腕時計はまだ生きていた。こんな湖の仄暗い場所なのに、あれからずっと······


 あの日の夜。

 僕は、気付いたら、メイを、殺していた、首を、僕の両手が、絞めていた、メイは、抵抗した、ような気がする、けれども、思ったほどの、抵抗じゃなかった、気もする。

 絵しか描けない無能な手だと何度も思っていたが、こういう事もできる手なんだ、と少しだけ驚いた記憶がある。


 僕はメイの死体を絵にしてのこした。そうだったんだ、あの妖艶ようえんな天使はメイが死体だったからこそ描く事ができたんだ。メイは僕との子供をはらんだ故にほとばしる事のできた、情熱の結末からのタナトスとエロス。希望を絶望へと変化させた表情。僕はここぞとばかりにメイの全部をキャンバスに乗せた記憶が甦った。二度と息をする事のないメイを、だからこそ可能にした絵の中の天使にメイの魂と心と無念を封印する凶気、これを鋭気なんて思ってはいけないが僕は絵を完成させた。

 絵を描き終わった後、僕は暫くメイと二人っきりで過ごした。まだ、ほんのりと温かさのあるメイのからだ。抱き寄せて優しくキスを交わしまるで恋人に囁くように、そっと、

「ありがと、さよなら」

 三流以下のチープな別れを告げた。

 やがて外が白くなり始めてきたので、僕は裸のままのメイを肩に担ぐと別荘を出た。行き先は湖、娘の死体を隠す為だった。桟橋にあるボートへメイの死体を乗せると、朝陽が無数に反射している湖へとゆっくり漕ぎ出した。目指すはブイ、直後に僕の腕時計のアラームが鳴った。あの時も湖の優しさがアラームの音を小さくしてくれた気がする。時間は7時、僕もメイも湖でさえも必要としない情報だった。太陽の光は今日みたいに針さながらのするさだったと思う。ブイに着くと僕はメイの脚にロープをしつこい程に縛り付け、そのままメイを湖に落とすと僕も一緒に飛び込んだ。メイの脚に縛ったロープの端を掴んで、ブイの鎖を伝いながら潜ってゆく。そんなに泳ぎは得意ではないのに、こんな時だけ不思議にグイグイと潜れた。もしかしたら、僕の隠れた才能がこのタイミングで開花したのかも、でも本当は火事場のナントカなんだろう、と自己完結しながら僕はなるべく他の事を考えるようにしていた。僕はそれでも可能な限り水面から見えないくらい底を目指した。


 戻る時の息を考えるならこの辺りが丁度いいな、そんな他人事ひとごとみたいに思いながらメイの脚のロープを鎖に結んだ。湖面から大体10mくらいか、そんなに水も透明ではないから問題はないだろう。冷たい水中でも指先だけは滑らかに動いてくれて鎖に繋がれたメイはまるで万歳をした水草のようで、改めて全ての出来事が嘘だと思えた。しかし、僕はメイを殺した。その紛れもない事実だけが僕の目の前でユラユラと踊っていた。でも僕は無性にメイの事が愛しくなり、メイの唇にもう一度だけキスをした。もう水の味しかしないキス。心の片隅だったけど、僕はメイを女性として愛していたに違いない。だったら愛する女性をどうして殺せたのだろうか。突き上がる矛盾と後悔だけが、今の僕の生への執着力となって再び湖面へと向かった。

 誰かが僕の足首を握り締める。

 僕以外の誰もいない冷たい湖底なのに、恐ろしい程の力が足首を掴むと湖面への帰還を拒んだ。僕は慌てて足首を見る。

 それはメイだった。メイは死んではいなかった。僕は恐怖のあまりメイの手を左手で剥ぎ取ろうとしたが、今度はそのまま僕の手首を掴まれてしまい、もう離そうとしない。メイは僕を道連れにしようとしている。しかし、愛も憎しみも悲しみすらも映す事のないメイの表情から、これはメイの仕業ではないのに気付いた。メイのお腹に宿った新しい生命の、正にメイのむくろを利用した文字通りの、最期の反撃、だったんだ。メイの下半身からは大量の出血があった。

 最初こそ、そんなオカルト地味た事を考えたけど、メイは最初から死んでなかっただけなんだろう。確かにメイはこのに及んでもまだ自分の左手でお腹を守っていた。あれは正に母の姿にしか見えない。死体ごときができる芸当ではない筈だ。そして僕の左手首を握る力もやはり母親だから出せるものだったのだと思う。幼い少女が出せる握力ではなかった。

 僕の肺の中から、湖面へと戻る為に残してあった酸素が急激に消費されていった。口から漏れた気泡が水面に向かって昇ってゆく。その泡を見ながらメイも少しだけ口元を歪めてみせた。笑っているつもりなのか。左手にしていた僕の腕時計の所にメイの指先がかかった。メイの口が開いて大量の空気が泡となって吹き出る。

 パ······パ······

 メイはそう言った。湖の底でも確かに聞こえた。

 僕は咄嗟に腕時計のベルトを外す。そのまま腕時計と一緒に僕の左手首からメイの手も離れていった。まるで宝物のように大切に時計を掴んだまま、僕から離れていくメイ。正確には僕が湖面へと上がっているだけだから、離れているのは僕の方なんだが。メイは相変わらず嬉しそうにしながら、僕が遠ざかって行くのを見つめていた。

 僕は情けなくも湖面への生還を果たした。激しく咳込せきこみ何度も水を吐きながら、僕だけが助かった。あれ程に恐怖していた死。もう少しで僕をさらってゆくかと覚悟した時、僕は大きな安心をしていた。生きている事への安心ではない。あの時はまだ何に対しての安心なのかは説明がつかなかった。


 今こうして僕の目の前にあるモノ。ブイの鎖にロープで繋がれて水中で揺らめいているモノ。それは僕が殺したメイの成れの果てだった。黒く変色し、ブヨブヨにふくらみ、湖の魚達にアチコチを喰われ、あの瑞々しかった素肌なんて欠片も見当たらない。だけとこれが美しかったメイの今だ。左手のような部分は下腹部と思われる辺りを守っているし、右手と思われる所は僕の腕時計をまだ握りしめ締めている。そしてもう二度と向日葵ひまわりみたいに笑う事のない顔の部分に唯一判別がつくのは、白くにごった右の眼球。この残った瞳だけは、どうしても嬉しそうに笑っているかに思えてならない。何より、この場所にメイを生きたまま括り付けた僕の記憶は、既に全て思い出されていたんだ。


 僕は湖から出ると車へとそのまま乗り込んだ。マンションに向かう為だった。服はまだ濡れたままだったけど、今更どうでもよい事だ。SUVのシートは疾っくに汚れている。これも何となくだが理由を思い出していた。

 僕はもう何度も同じ事を繰り返している。時々こうやって別荘に来てはメイを殺したのを思い出し、湖に潜っては確かめているのだろう。僕はその都度つど、クスリに逃げて苦悩を忘れてきたんだ。こうして甦ってくる記憶を順番に辿って行く先に待ち受ける真の絶望は、本当に現実を忘却したくなるモノであった。なのに僕はまだ一筋の光る細い糸を、奇跡のような幸福に満ちたエンディングを、どうしても心のどこかで考えてしまう。ミキもメイもジュンも、マンションに帰れば皆が笑顔で迎えてくれて、あの安らぎが溢れた生活が始まるんだ。

 僕という罪を犯した人間の、その御都合主義にまみれた妄想を乗せて、車はマンションへと走った。全ての望みが叶わない、僕のマンションへ。

 真夏の太陽がアスファルトを焼いている。


 空を見上げれば呆れ果てる快晴だ。SUVはマンションの駐車場へと着いた。車から降りた僕を夏の熱気が抱き締める。クスリは僕から季節まで奪っていた。あの薄ら寒い花腐はなくたしの痕跡なんてどこにもない。渇いた街が発熱して、僕に幻覚でも見せていた感じがした。僕は街を今でも恨んでいる。その憎むべき街がこの幻覚を見せているのか。それともクスリの最後のマジックなのか。

 ジュンが、僕の目の前にいる。

 いつも見せてくれる愉しそうな笑顔。小さな王様の最高の特技だ。その笑顔のまま、ジュンは嬉しそうにエレベーターへと走っていった。

「ジュン、転ぶから走っちゃダメだぞ」

 僕も何だか嬉しくなりながら笑顔で注意していた。幸せを思い出す。目を離せばすぐに走り出すのがジュンだ。ミキもよく呆れていたっけ。

「どうして男の子は突然走るのかしら」

 ダッシュボタンを身体のどこかに隠してるんだわ、となげいていたのを懐かしみながら、僕もまた笑顔をほころばせてジュンを追った。

 エレベーターの中にはもうジュンが乗っている。ジュンはよく、一人で先にエレベーターに乗ると勝手に最上階の僕らの部屋へと上がっていった。一番乗りが大好きなジュンだ。湖に飛び込むのも部屋に着くのも。エレベーターの中のジュンはいつものようにほこりながら、ちょっと背伸びをしながら最上階のボタンを押す。僕は、また負けたよ、と呟いて一度目を閉じ、またゆっくりと目を開いた。エレベーターは動いていない。停止したままだった。

 そして、誰も乗っていなかった。

 僕は、ゆっくりと一人、エレベーターに乗ると、最上階のボタンを、押した。

 静かに上昇するエレベーターの中で、せめてジュンだけでも、と誰かに願っていた。この地獄の燃えるクソより最悪な現実を変えてくれるんなら、どんな奴でもこの命をささげるつもりで願っていた。

 ただ、起こってしまった過去は何を捧げようとも元に戻る事は絶対に、無い。


 僕を乗せたエレベーターは最上階で停止した。そのままエレベーターを降りると、部屋の前でジュンが待っているのが見えた。一度だけ僕を見て大きく笑うと、その勢いのまま元気よく玄関を開けて、

「ただいま!」


 僕を乗せたエレベーターは最上階で停止した。それはクスリが見せてくれた最後のまぼろしだったのか。僕達の家族の部屋の扉は汚れていた。扉に近付くにつれ汚れの酷さが鮮明になるだけでなく、異様な臭いまでも強くなってくる。僕はこの臭いの正体を知っている。

「あのちょっと······ここのご主人?」

 階下の住人かマンションの管理人か。不審がる表情はそのまま僕の今の様子を体現している。僕との距離を置いた場所から声を掛けていた。

「この臭い、お宅からじゃないですか?ちゃんとゴミとか出してます?」

 慇懃いんぎんな言葉、どこか厚かましい態度。僕を、この画家である僕を怪しい人物みたいに見ている。まぁ、それも仕方の無い事だ。僕の恰好かっこうはそう疑われる見窄すみぼらしいものだからな。汚物と絵の具と湖の水で、僕は汚らしい。でも相手が階下の住人でも管理人でも僕の知ったこっちゃない。そのまま僕は何の返答もせず玄関の扉を開けた。


 部屋の中から、黒くて小さな大群が壁となって飛び出してきた。はえだった。蝿の大群は扉から外へと拡散してゆくのとほぼ同時、外に悪臭が周囲にひろがってゆく。さっき注意してきた人は悲鳴を残して逃げていった。部屋の奥には更に猛烈な悪臭が待ち構えていたが、僕は平然とそのまま入っていく。この悪臭の原因を知っている僕にとっては、どこか心地良くて安心する匂いでもあった。この半年の間、ずっとこの臭いの中で僕は生活していたのを、ゆっくりとだが思い出していた。

 キッチンへ向かうと天井から妻が、ミキがぶら下がったままだった。ただし、ぶら下がっているのはミキの首から上だけで、下は疾っくに腐ってしまって床へとぶちけられている。おそらく縊死いしの衝撃で頸骨けいこつが折れたのだろう。ミキの首の皮は、そのまま腐って床まで伸びていた。その首の方も腐敗はいちじるしく一部は骨が露出している。まだ少し残っている頭皮には、ミキの美しかった黒髪がベトリと張り付いていた。ミキの美しさは見る影がない。身体の腐敗も進んでおり、既に何が腕で何が脚なのかの判別は不可能だ。キッチンにはドス黒く変色したミキの肉なのか血液なのかがドロドロに広がっているだけだった。

 メイを殺した後、僕はメイの部屋で恐ろしい発見をしてしまった。娘は母親のスマートフォンへとメールを送っていた。メールは2通、1通目は妊娠検査薬の結果が出るまでの顛末てんまつを収めた動画で、2通目は隠し撮りされた僕とメイとの動画だった。内容は勿論、情事の一部始終だ。メイの部屋にあったノートパソコンからタイマー設定でメールは送信されていた。早い話、キャンセルしない限りメールは設定時間がくれば自動的に送られる。

 メイは自分の身に危険が迫った時の為に保険を掛けていたのだ。僕を脅迫するつもりだったのか、あるいはメイは殺されるのを覚悟していたのかもしれない。自分の荷物にノートパソコンを忍ばせて、僕を買い物に行かせている間にセットしたのだろう。もし、メイ自身に何かが起きれば、メールを見たミキが何かしらのアクションを起こしてくれる、と考えたのかもしれない。いずれにせよ真相を知っている本人は湖の底だ。

 タイマーは7時1分にセットしてあった。僕が湖でブイを目指してボートをいでいた時に響いたアラームは、歯車を狂わせるであろうメールを停止する最後通牒さいごつうちょうでもあったのだ。

 僕は急いで車に飛び乗るとマンションへと戻った。途中、何度もミキのスマートフォンに連絡をしたが、出る事はなかった。クスリを使ってでしか正気を保てないミキに、僕とメイとの関係がバレたのだから、もう悪い予感しかしなかった。それに連絡が取れたとしても、では一体何をミキに話せばよいのか。体裁ていさいよく誤魔化せるなんてできっこない。娘を犯し妊娠させ挙げ句に殺してしまった僕は、しかし妻にはゆるして欲しかったんだ。こんな馬鹿な僕をまた、

「アナタは子供と一緒だよね」

 と、笑って赦して欲しかった。

 でも僕は運転しながら泣いていた。きっと僕はこのまま一生、ミキからは赦しを貰えない、と直感してしまったからだ。その直感はそのまま物理的な意味合いで、未来永劫みらいえいごうにおいてミキの、妻からの直接な赦しは絶対に無い、と気付き始めていた所為であった。だから僕は泣きながら車を運転し、泣きながらマンションへと向い、泣きながら駐車場に車を停め、泣きながらエレベーターに乗って最上階のボタンを押した。泣いていれば子供のように赦してくれるかもしれない、そう思いたかったんだろう。

 自分の犯した責任に伴う犠牲を、どうしても最小限にしたい気持ち。罪の後に誰もが持つであろう感覚が、せめて妻だけでも、いや、それでもまだどこかで家族の皆がいっぱいの笑顔を僕へ向けてくれる、そんな亜空間あくうかんな御都合主義に汚染されていた。

 一つの罪は多くを失う。してや背徳行為の末の殺人だ。何も残りはしない。罪の代償は必ず目もくらむ程の大きさを伴う。

 くしてマンションにて、僕は妻が首を吊った姿と対面するに至る。


 そうして今の僕は、一つの記憶の前にまた涙を流していた。ドロドロに腐ったミキの死体の中にジュンは隠れていた。変わる事のない王様の太陽のような笑顔で、今もこんな僕を見つめてくれる。

 よかった、ジュンだけはちゃんと見つけられて。

 僕は腐臭ふしゅうを放つ汚液おえきの中からジュンを、そっ、と救い上げた。汚れた表面を手でぬぐうと、黒く縁取ふちどられた遺影の中のジュンは、その生涯で一番の笑顔をコチラに向けていた。この写真をミキが泣き狂いながらも選んだのを覚えている。

 息子の、ジュンの突然の死。ミキが狂ってしまった原因である。僕はようやく思い出した。


 あの日の僕は珍しくマンションからの景観をデッサンしていた。この味気無い景色を絵にするのも、たまの息抜きにはなるかもしれない。そんな簡単な理由だけだった。ミキは間もなく幼稚園から帰ってくるジュンをマンションの下へと迎えにいっていた。この幼稚園はわざわざバスで子供達を送迎してくれるのだが、こんなにもサービス過剰かじょうにしなくちゃ、今の御時世は入園児を確保できないのかもしれない。ジュンの通う幼稚園も、自宅前までの送迎で園児の安心安全をセールスポイントにしていた。

 不穏な絶叫がこの最上階まで響いたのは、デッサンの手を休め、かたわらのマグカップからカフェ・オ・レを飲んだ直後だった。正確にはけたたましいブレーキ音の後に、ソレは聞こえた。絶叫というよりは、空腹の獣が餌を奪われたような悲鳴。低く大きく、辺りをつんざくソレが、もしかしたらミキの声だったんじゃないのか、と思ったのは、マンションからのデッサンと同じで簡単な思い付きに過ぎなかったんだが、どうしても気になってしまった僕は、そのまま1階へとエレベーターに乗り込んだ。

 エレベーターが1階に着くなり、騒然としている周囲に僕は驚く。

「まさかな」

 自然に口をついた言葉は、僕が頭で思っていた言葉とは違い過ぎて、その事に不安を抑えられなくなった僕は、ミキの姿を探した。それでも妻は程なく見つける事ができた。道路の真ん中で血塗れでしゃがみ込みながら、まだ獣の悲鳴を上げていた。僕はミキへと走り寄ると、獣と化したミキはコチラを向いて叫んだ。

「まだ大丈夫っ!ジュンは生きてるっ!」

 上半身だけしか残ってないジュンに文字通り、死に物狂いになって人工呼吸を繰り返しているミキを見た時、出来のいいジョーク番組だな、としか感じなかった。

 そのトラックは、街となる部品を運んでいた。トラックの前輪はジュンをつぶし、後輪はジュンを轢き千切ちぎった。

 後に警察からそんな説明を受けた時ですら、とうしてそんな冗談ばかりを言うんだろう、と思うだけだった。

 ジュンの亡骸なきがら荼毘だびした後も、ミキはまだ言っていた。

「本当なの、ジュンはまだ息をしてたんだよ」

 そして必ずその後に、

「······だって······胸が動いてたの」

 と言って泣き崩れた。けれどもジュンの顔面は半分近く欠けていた。だから少なくとも即死だったんだ、と思う事ぐらいがジュンへのせめてもの鎮魂になるんじゃないか。僕は自分自身にも妻にもそう言い聞かせた。でもミキはジュンの死を自分の所為としか思えなくなってしまっていた。

「私が······ジュンに手を······振ったら、あの子······大喜びで突然······走り出したわ」

 あの事故の瞬間を、クスリを飲ませてもまだやみ続けたミキ。自分を責めて責めて責めて責めて泣いて泣いて泣いて暴れて暴れてそしてわめいて。僕が見かねてクスリを飲ませた後も、呪いの言葉のように後悔を口遊くちずさむ妻。それを聞いていると、死んだジュンが再びトラックに轢かれてるみたいに感じてならなくなり、僕はミキを緩慢かんまんに敬遠し始めた。


 あぁ、そう言えば殺される前のメイが、

「お腹の子供はきっとジュンの生まれ変わりなんだから!」

 とか言ってたっけ。そんな訳がないのにメイは真剣にそう信じていたみたいだった。僕も一瞬だけど、メイの考えに心が流されて喜びそうになったが、

「メイ、そんな事は現実に起こるなんて無いんだ」

 と冷静に語りかけた。それでも僕は、突然のジュンの名前に少し動揺していた。涙を我慢して鼻がツンと痛かった。

「そんな事は無いっ!パパとメイの子供だよっ!ジュン以外の子供が生まれてくるワケ無いじゃんっ!」

 メイの言葉は悲痛というよりも、勢いだけのデタラメと辻褄つじつまの合わない理屈だけで、僕に詰め寄りながらまくし立てる姿に、漸く気付く事ができた。メイもまた狂っていたのだ。僕は狂っていたメイを見ながら、我慢していた涙が止まらなくなった。口角に泡を溜めて瞳孔を小さくしながら叫ぶメイは、マンションに置き去りにしているミキによく似ていた。

「パパが悪かった。けれどお腹の中の子供の事は諦」「私、産むから」

 僕の身体のどこかで、メイの宣言を嬉しく感じたのを忘れない。唯一、ジュンをこの世へと取り戻す為の方法、この背徳の結末こそ僕が望んでいたものだ、という確信犯。なのに現実は違い過ぎて恐ろしい。メイの子供を抱えてミキに対して、

「ミキ、この子は僕とメイの子供でジュンの生まれ変わりなんだ」

 が赦される世界には程遠い。僕もまた知らない裡に狂ってしまってたんだろう。それに気付いてしまった僕は、途端に目の前の全てが怖くなってしまった。

 そして恐怖に負けた僕は、新しい罪を重ねてしまった。狂気に狂気を重ねても世界なんて変化はしない。よくある狂気としてマスコミに紹介され、数日もしたら忘れ去られる。僕はちっぽけな狂気の人生を選んでしまった。そっちの方が楽だったからだ。ジュンが事故死した日から家族全員が狂ってしまった。それでも、もっと時間を掛けて妻と娘に寄り添いながら、元へと戻す努力を惜しまなかったら、或いはこんな結末なんてなかったんだろう。

 そんな事は疾っくに判っている!判っていたんだ······

 僕はたった一人になってしまったこの部屋でジュンの遺影を抱き締めながら慟哭どうこくしていた。


 僕は、ミキの自殺を誰にも話していない。誰かに話すという事は自分の罪が表になってしまうのもあったが、認めたくなかったのが大きかった。今でも心のどこかで妻の自殺を信じていない自分がいる。

 ミキが自殺して3日ほど経った頃から様子が変わり始めた。死斑が身体の末端に集中するのは死ぬと心臓が止まる為で、血液や体液が重力に負けて下の方へと溜まるからである。最初は紫色だったものが黒色になり、やがて腐り始める。これより前にどこから嗅ぎ付けてくるのか解らないが、蝿がやってくる。蝿は何よりも先に、ミキの軀に蛆を直接生み付ける。蝿の尻から出た蛆達はミキの軀のアチコチから入って死肉を貪る。初めこそ一匹一匹取っていたが、数の多さに僕は早々に諦めた。僕は死んでいるミキに対して積極的には動けなかった。

 あの時の感情は上手く説明できない。このまま蛆がミキを消してくれればいい、なんて考えた頃もあった。美しかった妻が無惨に喰われていくのを見ながら泣いた事もあった。でも僕は変化してゆくミキの姿を、つぶさに観察していた。

 僕も死んだらコレと同じ。

 そう思うと、今のミキは僕に大きな安心を提供している。死人は何も持たない、持てない。僕が必死になって手に入れたお金や家族や地位や名誉や幸せも自信までも、死んでまで持っては行けない。死んだら皆が平等なのだ。燃えて灰になるか、虫や魚に喰われるか、これだけの差だ。不思議とミキを見ていれば、あれだけ恐怖していた、死、が何とも思わなくなっていた。不死を手に入れたのでもないのに、僕は甦っていた。


 やがて僕は奇妙な現象を確認する。

 ある朝、ミキの死体の下に山盛りになったクスリが現れたのだ。それは妻がジュンの死後に服用していたクスリで、その全ての種類がそこにあった。昨日まで何万匹と蛆がいた場所にだ。気付けばミキの死体まで消えている。キッチンには山盛りのクスリだけがあった。その中のモスグリーンのピルを1錠飲んでみた。

「パパ、おはよう」

 後ろにメイが眠そうな顔をして立っていた。


 ミキの軀は、ジュンが死んでからずっとクスリ漬けの日々だったな。車の中でメイの幻も言ってたっけ。だとしたらクスリ漬けだったミキの軀を食べた蛆もまた、クスリ漬けと同じになったんじゃないのか。だから蛆はクスリと同等の効果を持っていたのかもしれない。きっと僕はジュンの事故死、メイへの殺人、ミキの自殺のショックで発狂したんだろう。蛆とクスリの区別もつかない狂人となってしまったんだ。

 いや、有り得ない!

 大体、蛆をクスリと間違えるなんて馬鹿げている。蛆にクスリの効果なんて残りはしないんだ。でも僕はずっとクスリを飲んでいた。アレは妻が遺したクスリだった。いや、妻はあんなにクスリは残していなかった。じゃあ、僕は何をクスリと思って飲んでいたんだ?今日まで僕が飲んでいたのは本当にクスリだったのか?

 まさか、でもしかし······

 僕はミキの下でゆっくりとへたり込んだ。そこには相変わらず山盛りになっているクスリがある。今だってクスリは少しずつ増えている。チューブからクリームを出すくらいの早さでクスリの山頂からモリモリと溶岩のように溢れていた。あのモスグリーンのピルもレモンイエローもインディゴブルーもワインレッドもミルキーピンクもセルリアンブルーもアイボリーも小豆色のツートンカラーもコーヒーブラウンもスカイブルーも、その山の中には全てのクスリが揃っていた。

 その光景を見て僕は、これが最後のチャンスだ、と思っていた。クスリの魔力から脱出する分水嶺ぶんすいれいなのだ、と。でも同時に僕は既に負けている。ミキの足元に溜まっているクスリに両手を突っ込んで、そのまま掬う。この手に乗ったビタミンカラーのクスリ全てが蛆だというのか。僕の目にはクスリになったり蛆に戻ったりして見えていた。

 僕にはもうどっちだっていい。

 だって、そのまま上を見たら、首だけになった筈のミキが微笑んでいたからだ。

「仕方無いよね、つらかったんだから」

 僕が妻に、クスリを飲ませた後によく言っていた言葉を首だけの妻が僕に言っている。赦してくれたのだろうか。これも御都合主義なのか。

 そう、余りにも辛過ぎたんだよ。ミキ。

 僕も妻と一緒に笑った。笑って水に流すのも悪くない。ミキも一緒に笑ってくれている。僕はそのままクスリを全部、口の中に突っ込んだ。そして、クスリを噛み潰した。


 口の中で、プチプチプチプチ、と蛆はぜた。


 花腐はなくたしを見ている。

 陰暦いんれきの4月、今では5月初旬の長雨を指してそう呼ぶらしい。あの卯の花を腐らせる雨。初夏には似つかわしくない、雪のように寒々しく咲く卯の花を、茶色に腐らせる雨だなんて。恐ろしい。


 そして僕は、もうずっと、いつからか判らないくらいずっと、この景色をずっと、そうずっと、ずっと、ずっと眺めている。

「パパ、大丈夫?」

 僕の後ろからメイが声を掛けてきた。娘に心配されるくらいの顔色をしているのだろう。それとも、クスリを飲んでいるのを既に知っているからかもしれない。

 僕の右肩に手を置いて気を遣っているメイを、僕は優しくゆっくりその手を引きながら、娘を抱き寄せた。

「もう心配しなくていいんだよパパ。メイとジュンはずっと一緒だから」

 メイのお腹が、ビクン、と動いた気がした。僕はメイの言葉に安心して、やがて窓の外の卯の花腐しに、腐らされて、トロトロに、溶けてゆく。

 ミキのように。


 窓の下には、赤色灯をクルクルト゚光らせた車が数台、近付いていた。




【TITLE】『MAGGOT』

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