『月曜日』

 一滴の朝露あさつゆが僕の目を覚まさせる。低俗なドラマなら人工甘味料みたいにあまったるい朝になるんだろうけど、僕の目覚めは正反対の最悪と呼ぶしかなかった。まず、何がどうしてどうなったのか、僕の記憶は綿菓子よりも複雑に矜羯羅こんがらがっていた。かく現状の僕は、床に顔を横に向けてうつぶせに倒れている。それに今の僕はイモムシにでもなったかのように立つ事ができない。視界もボンヤリとしていて周りが釈然としない。まるで何かの毒でも飲んだみたいな、また逆の薬物中毒になっていた身体が回復している途中なのか。身体の全てが僕の意志に反抗して、言う事を聞いてくれない。

 それでもどうにか身体をひねり、ひじを突いて少しだけ起きるのには成功したんだが、ぼやけた視界が元に戻り始めて僕は短く叫んでしまった。

 僕は酷く汚い場所にいるらしい。着ている服は土や埃で汚れている。外国の戦場で爆撃を受けたかのような場所にいた。朝陽が窓から斜めに射して、薄霧をキラキラさせている。

 僕は一瞬、もしかしたら僕は僕の描いた絵画のどれかに入ってしまった、と考えもした。だが暫くもしないうちにココが何処どこなのかに気付いてしまう。転がって折れてしまったイーゼル、汚れて割れたパレット、散らばった絵筆。窓から見える景色も僕は知っていた。周りがどれだけ変化しても、一目で解る変わらないものもある。

 アトリエじゃないかっ。僕は別荘の2階にいる。

 何が起こっているのか皆目見当が付かない。僕の推理力では全く理解できなかった。そもそも、どうして僕は······

 別荘にいるんだ?


 僕は僕の記憶を拒絶する。甦った記憶は全てではなかったが、到底受け入れる事なんて無理なものだった。ゆっくりと戻り始めた忘却の過去は······

 僕はまず、メイとジュンを探した。廃墟同然となっている別荘は、どの部屋も信じられないくらいに荒らされていて、どこぞの悪ガキの所業なのは間違いなかった。スプレーで大きく落書きされた壁、ビールやジュースの空き缶が散乱した床は沈黙しながらも答えを教えてくれる。割れた窓から風が吹き込む。雨も入っていたのだろう、湿気が充満してかびの臭いが凄い。キッチンのシンクには泥水が溜まっている。地下のシアタールームに至っては見る影もない。当然だがメイとジュンの姿はなかった。その通りだ、こんなボロボロの別荘なんかに子供達がいるハズがない。

 そうだった、いるハズがない······

 違う、そうではないっ。メイとジュンはいなくなったんだ。大変な事が起きているというのに、自分の都合で記憶を変えてはいけない。

 その時、僕は直感した。二人は湖に行ったんじゃないのか。慌てて別荘を飛び出れば、僕を迎えたのはどんより曇った空だった。振り向けば自慢だった別荘が朽ちきった姿でたたずんでいる。まるでお化け屋敷かの別荘を全くもって信じる事ができない。

 コレはどんな悪夢だ。

 しかし、いきどおるよりも先に今はメイとジュンだ。

 湖に向かって二人の名前を絶叫する。考えられるのは、ジュンが湖に落ちてメイが助けに入った、という事だ。焦る僕に反して身体の方は思うように動いてくれない。両脚がもつれて上手く走れなかった。これもクスリを飲んでいた所為だ。

 えっ、クスリ?誰が飲んでいたんだ?どうして?

 あぁ、妻だ、ミキだ、自殺したんだ。思わず涙が出てくる。忘れていたというショックよりも、改めてミキを失った現実を突き付けられた方が大きかった。

 湖に着いても僕はメイとジュンを呼び続けた。昨日まで小さく感じていた湖がどうしてなのか、今朝は巨大に感じてならない。僕の声は大口を開けた湖に吸い込まれてしまい、何処にも届かせてくれなかった。

 僕は次第にジリジリとしてきた。どうしたらいいんだ。メイとジュンは何処に行ったんだ。二人共、本当に溺れてしまったのか。もし溺れたのなら、こんな広い湖なのにどうやって見つければいいんだ。いや、そうじゃない、まずは警察に連絡しなきゃ。ダメだ警察なんてっ。何故ダメなんだ?

 警察に言うよりも先に溺れたのかどうかの確認をしなきゃ。そうだよ落ち着け、僕が落ち着かなきゃ始まらないじゃないか。落ち着かなきゃいけない。落ち着くんだ。どうやって落ち着けばいいんだ。どうすれば落ち着く?深呼吸でもしてみるか。

 スーハー、スーハー、スーハー、スーハー······

 ダメだな、あまり効果がないよ。やはりクスリだ。こんな時こそクスリに頼らないと。クスリを飲もう、そうだ、それが一番いい。

 僕は銀のピルケースをズボンのポケットから出すと、中に入っているクスリを1錠摘んだ。レモンイエローのカプセルを口に放り込むと、いつもの癖で奥歯で噛み潰した。湿気っていたのだろうか歯応えがあまりない。グニャッ、とした感触の後に中身の薬液が練乳のように広がった。

 クスリのお陰で、僕はどうにか落ち着きを取り戻した。こんな早朝にジュンが起きて湖に行くなんておかしい。しっかり者のメイだっているのに二人共揃って危険な事をする可能性は薄い。だとしたら考えられるのは一つだけだ。

 僕の仕出かした、あの行為、にメイは激怒したかしくは恐怖して、ジュンを連れて別荘から逃げ出したんだ。

 僕は車を取りに別荘へと再び戻った。急いで車へと乗り込みエンジンを掛けて走らせる。まだ二人共そんなに遠くには行ってないかもしれない。そう考えながら辺りを見回して運転をしていると、ふとバックミラーに映った別荘が元の小綺麗な姿に戻っているような気がしたが、過ぎ去る木々が素早く隠してしまった。車が速く走っている所為だと判ったのは、思った以上にアクセルを踏み込んでいるのに気付いた後だった。


 この数日間のぐずついた天気はようやく去って、雲はまだ多く残っているものの雨は止んでいる。結局、僕は例のスーパーマーケットに着いてしまっても、メイとジュンを見つけられなかった。もしかしたら二人はこのスーパーマーケットで保護されているかもしれないし、いなくても立ち寄った可能性だってある。プールに飛び込む選手の勢いで店内に入ると、今日もあの店員はいた。若さを腐らせている表情も態度も、この数日で変わってなんかいない。僕はこんな相手しか頼る人間がいない苛立ちを抱えつつ、カウンターに詰め寄った。店員はやっぱり心がなく、あぁブラックの人、と小声で呟くとやる気の無い目を合わせた。

「キミ、子供達を見なかったか」

 唐突な質問だったからか、店員の表情は不思議なものになった。

「エッ、なんの話っスか」

 質問に質問で返答してきた店員に僕は事情が判ってないからだと気付いて、大まかなコチラの状況を付け足した。

「いやぁ、見てないっスね」

 こんな田舎で暮らしているからなのか、都会の若者に憧れでもしているからか、まるで面倒を嫌うかの素っ気ない返答をした店員。その振る舞いは僕を充分に苛立たせた。

「僕の子供達がいなくなったんだぞっ。キミは親の気持ちが解らないのかっ」

 憤りを詰め込んだ僕の言葉に店員は更につれなく、

「でもアンタに子供もがいるのも俺は知らなかったし」

 この一言に僕は堪らず叫んだ。

「僕の事は、ブラックの人、だと覚えていたのに、子供達を見てないなんて言わせないぞっ」

 爆竹のように怒鳴った僕に店員は、ナニを言ってるんスか、と言った後に、

「アンタ、ずっと一人でしたケド」

と、教えてくれた。


 目眩だ。

 それは今までのものとは比較できない程の強烈極まる目眩だった。

 僕はたちまち立っていられなくなり、カウンターの前でへたり込んでしまった。出来の悪い店員の心配する声が僕の鼓膜こまくの中で徘徊はいかいする。その声は単純に味が薄いだけの音は普通に腹立たしく、でも僕は大人なのでさっさとクスリを飲んで気持ちをしずめようと考えたんだ。ズボンのポケットの銀のピルケースを取り出し、まだ十数錠は残っているクスリの中から緋色ひいろの錠剤を摘んだ。何も考えなくて済むクスリ。今の僕にはピッタリのクスリだ。コレさえ飲めば目眩も悩みも目の前の店員も消えてくれる、と本気で信じていた。そんな便利なクスリなんてこの世にはないのに。

「何やってんだよオッサンっ」

 その時の店員は、怒号どごうとも悲鳴ともつかない叫びを上げたように覚えている。それはまた僕に対する、恐怖と軽蔑けいべつと不快感をも含む叫びでもあった。

 ピルケースの中身はクスリではなかった。

 プリプリと全身をくねらせて元気にうごめく十数匹のうじだった。僕の指の間にはさっきまでピルケースの中にいたであろう一匹がモゾモゾと苦しそうに藻掻もがいていた。


 僕はそのまま店員に胸倉を掴まれて店の外へ放り出された。オメェが持ってきたのか、とか、二度とウチに来るな、とか叫んでいたが、僕の方がもっと混乱していて、どうしてこんな酷い扱いを受けているのか全く理解できないでいた。若い店員から乱暴な行為を受けた拍子にピルケースからクスリが散らばってしまったので、僕は一粒ずつ探しながら拾った。それでもクスリは半分くらいしかし見つからず、地面に落ちて汚れてしまったものや潰れてしまったものもあった。無いよりはマシだ、と思うようにして拾ったクスリを大事にピルケースへと仕舞うと、僕は車へと戻って店を後にした。店員は最後までおぞましいモノを見るように睨み付けていた。

 僕はハンドルを掴みながら、メイとジュンは別荘にもう戻っているかもしれない、と理由もなく思っていた。


 さっきまであった雲は幾分か少なくなっていた。西の空に太陽は沈み、東の空から夜の色を用意し始めている。別荘は夕闇の中にたたずんだままだ。どうしてこんなにも遅い時刻になるまで別荘に戻ってこれなかったのだろう。どこで何をしていたのか、というよりは時間から嫌わてしまった気分だった。でも、いいんだ、もう。

 別荘の窓にあかりが見えた。

 あぁ良かった、と本気で心から思えた。子供達は帰っていた。駐車場に車を停めて、別荘へと僕は入っていった。

「あっパパ、お帰り。買い物遅いよ」

 メイだった。そうだ、買い物だ。僕は買い物に出ていたんだった。メイが教えてくれたのだから間違いない。遅い、と言われて僕は腕時計を見る。妻であるミキとの結婚記念日に購入したペアウォッチ。タイミングよく19時のアラームが、ピピ、鳴った。

「マヨネーズとお味噌を頼んだだけでこの時間なんだから。もう先に食べようかと思ってたよ」

 あぁ、すまない。遅くなってしまったよ、と僕は謝りつつ頼まれていたマヨネーズとお味噌をメイに渡した。

「あコレ、合わせ味噌じゃん。もう、お味噌は白だって言ったのにぃ」

 アレ、それ白味噌じゃないのか。そうか悪かった、とメイにまた謝る僕。

「はぁー、買い物もちゃんとできないなんて」

 これだから絵描きはダメなんだよネェ、と茶化すメイは、とても幸せそうに笑っていた。こんなにも浮かれているメイを僕は見た事が無かった。いや、そんな訳は無い。僕は何度も見ていた筈だ。

 今夜は過去になっている。全てが懐かしく感じる忘れていた過去へと戻っていた。

 過去だと?

 そうだ、これは過去の光景。よく目を凝らせばボロボロになった別荘が見えてくるが、気持ちをメイに向ければ、途端に愉しかった過去の思い出を体験できた、没頭できた。あんなに忘れていた過去なのに、今の僕は過去の中へと逃げていた。


 僕は思い出していた。

 僕はミキから逃げる為に週末は別荘で過ごすのが専らになっていた。壊れてしまった妻と生活するのが我慢できなくなってしまい、そんなミキを独りマンションに置き去りにして、僕は別荘へと避難していたんだ。

 何もかもが怖かった。

 日毎ひごとに狂気に蝕まれていくミキを見ていると、僕まで狂気が伝染してくるんじゃないかって恐怖してたんだ。察しの通り、僕は僕自身だけを守った臆病者だ。何もかもを捨ててでも僕という人間は、それこそ漸く手にした色々を家族と引き替えにしてでも守りたかったんだ。

 僕はどうして、そこまで残酷に裏切れたんだろうか。

「ママ、独りぼっちだね」

 最初こそメイもマンションに置き去りにしてたが、流石にあの妻と一緒に過ごさせる不安は大きく、モデルとして必要だから、という理由を盾にしてメイも別荘に連れ込んだ。

 連れ込むだと?

 いや、どれだけ今の僕が否定しようとも、僕の脳ミソには確かに卑猥な印象が居座っている。だけどまだ僕の記憶はそこまで思い出せていない。

「ねぇパパ、今夜ちょっと大事な話があるんだけど······」

 食卓には湯気立つ料理が並んでいる。メイの手作り料理だ。ママが元気だった時に教えてもらったの、とジンジャーエールみたいにパチパチと自慢していたのを覚えている。屈託が無いというよりも善悪が希薄な感情だったと今は思う。

 僕は、大事な話ってなんだい、というニュアンスの返事をした気がする。

「ていうか大事な話ではあるんだけど、すっごく嬉しい話でもあるんだよ」

 今度はサプライズ感を盛り上げる作戦か、みたいな風に言ったと思う。

「サプライズ?まぁそういう言い方もあるけど、でもパパもママも両方喜ぶ話だよ」

 だったら早速始めてくれよ、僕は子供の考えるサプライズなんて高が知れてるくらいにしか考えていない。

「あとで」

 あとで?いつ?今でもいいだろ。

「モデルが終わってからね」

 今夜のモデルの後か、遅い時間になるな。僕がそう言うと食卓が熱を持ったのを覚えている。でも夜のモデルには一体、何があるというのだろうか。

「うん、そう。今夜だよ」

 メイは花火のような笑顔と共に、真っ赤なミネストローネを口に入れた。ミネストローネはミキも得意な料理だった。


 僕は思い出していた。

 夜のアトリエで僕はメイをモデルにして、あの天使の絵を描いていた。やはりそうだった、やっと思い出した。僕があの絵を描いていたんだ。キャンバスの中にはまだあの天使は現れていない。予定の場所はまだデッサンすら存在してなかった。

 当然だった。

 僕は意図して絵の完成を遅らせていた。そしてその理由がジワジワと、しかし確実に僕の脳ミソを黒にしてゆく。記憶の復活と拒否は交互に何度も僕を破壊しながら続く。

 僕はメイをモデルという口実を用いて、辱めていた。実の娘を裸にして様々な恰好を強要し、そのポーズを描き終えるまで維持するように命じていた。だが実際には絵なんて全く関係の無い猥褻な体位ばかりをさせていただけでなく、僕はそのデッサンすら描いてなかった。何かを描いているフリだけして、単にメイの裸体を舐めるように眺め回しているだけだった。何よりメイ自身もまた、僕が絵に無関係なポーズをさせているのを解っていた。

 ただし、絵にとっては無関係でもお互いにとっては無意味ではない事ぐらいは、もう随分とこんな行為を続けていたからメイだって共有認識があったんだと思う。何故なら僕とメイにはその後に待っている更に異常な行為、そこに向けた特殊な儀式に過ぎなかったからだ。どこか心の隅っこに薄く残っている罪悪感へ、これは絵画創作の神聖なる過程なのだ、と言い訳をしたかったのかもしれない。

 だからなのか、メイもまたどれだけ卑猥な恰好をさせても従順にこなしていたし、どれだけ長い時間でも小刻みに震えながら堪えていた。結果、恥ずかしくて長いほどに、後の行為への昂りが増すのを、もう知っていたからだろう。

 やがて、更なる猥褻なポーズを命令されるのを待っていたかのように、メイは少しだけ泪目を作りやっと拒絶をする。


 両足をもっと大きく広げなさい。嫌っ、そんなのできないよ。ダメだ、自分の性器を指で左右に開きなさい。そんなのは無理っ。パパに奥までよく見えるようにしなさい。嫌だよ、もうダメ。何がダメなんだ?だって······。だって?だって恥ずかしいよ。絵が完成しないぞ。でも無理だよ。何を言ってるんだ、いいから早くやりなさい。いや、もう止めようよパパ。早くするんだ。止めてパパ、痛い。これくらいは我慢できなきゃダメだぞ。いやパパ、ダメ、それ以上は。何を言ってるんだ、これがイイんだ。

 だめ······パパ······


 僕は思い出していた。

 あの日のメイは正真正銘のサプライズを用意してたんだ。メイと僕はいつも通りの激しい行為を終えると、二人は裸のままソファに倒れていた。メイと僕の下半身はまだ繋がった状態で激しい呼吸を繰り返している。全身がお互いの汗や体液で濡れていた。そんな二人の水分を長く何度も吸っているソファは、最近は薄汚れて見るからに重そうだ。そのソファの上で僕とメイは今もまだ、お互いの存在を逃がさないように唇を重ね、結ぶように舌を絡まさている。

 実の娘であるメイと僕との、こういった関係、はいつ頃かは思い出さなかった。勿論、ミキがおかしくなる以前にはこん畜生にも劣る行為は考えもした事が無い。こんなのは手前勝手な言い種なのも判っていた。メイが激しく抵抗していた頃を懐かしく感じるくらい、今ではメイの方から積極的に僕を求めてくる。親子だからこそなのか、赤の他人の恋人同士よりも明け透けなく欲してきた。モデルなんて体のいい口実でしかなく、週末は別荘で朝から晩まで裸で過ごしていた。

 僕とメイとの近親相姦は当然、他者から見れば唾棄だきすべき所業でしかない。当の本人である僕ですら、今も尚そう思っているくらいだ。しかし人間という生き物は、守る、という選択をチョイスした瞬間、手段は選ばない。だからこそ人間は絶滅せずに今もいる。

 所で、守る、とは何をどう具体的に守ればよいのか。この答えもまた実に明確にある。要は心を守ればイイのだよ。心さえ守りきれれば自ずと魂も人生も救われて結果、身体も元気になっていくもんなんだ。反論したけりゃ僕とメイを見るがいい。二人は共に協力し合ってこのこの危機を乗り越えて見せたんだ。

 悲しみという危機を!

 ミキは無理だったんだ。クスリなんかに頼った人間は必ず負ける。負けた先に待つのは死しかない。だから心さえ守る意思があるのなら、人は大抵のトラブルに打ち勝てるんだ。僕はミキを救う術を絶たれ助けられないと悟った時、ならせめて娘だけでも助けなきゃ、そう考えたのかもしれない。兎に角、一線を超えてからは、もう安心しかなかった。僕とメイは二人だけ、幸福を保てた。

 それでも、本当に時々、しかも大体が一瞬だけの事が殆どだからあまり気にしない方が多いんだが、ともすれば現実的なモラルにのっとった場合を考えてしまう場合もあったりした。

 別の方法があったんじゃないか、と。


 僕は思い出していた。

 それでも決定的な部分は抜けている。自分の責任から逃げてきた代償なのは既に理解してはいるんだが、まだ消化しきれない過去を認められないでいる。断片を見つけるとすぐに沸騰ふっとうしてしまい、同じ記憶の坩堝るつぼへと戻ってしまう。閉じ込めていた記憶を穿ほじくるのは苦痛でしかない。

 そう、僕の責任。

「ねぇ、コレ見て」

 しばらくソファに倒れていたメイも、息が落ち着くと僕から自分の繋がった下半身を引き抜き、裸のまま恥ずかしげもなく立ち上がった。メイの股間こかんからは内股うちまたつたって僕の精液がねばともない流れていた。それを僕が指ですくうとメイは嬉しそうに身をよじって、そのまま少し気怠けだるそうに歩きながらアトリエを出ていった。

 そして手にソレを持ってアトリエに戻ってきた。

 ソレは自分の部屋に隠していたらしい。20㎝もない白色のスティックは少し大きめの体温計に見えなくもない。持ち手の部分に結果が表示される小窓があり、赤いバツ印が確認できた。バツじゃなくてプラスだよ、とメイは嬉しそうに答えた。陽性だとかも言っていたがメイは、運動会の徒競走ときょうそうで1番を取ったようなほこらしげな表情をしていた。

妊娠にんしんしたの」

 その昔、同じ言葉をミキから言われた事があった。メイを身籠みごもった時だった。ミキと二人で身体が千切ちぎれるくらいに喜んだのを覚えている。だけど今夜、全く同じ言葉だったのにもかかわらず、千切れそうだったのは僕一人の心だけだった。

 それは当然の結果であった。毎週末にメイと二人で、呆れるほどの情事を重ねていたんだから。何の考えも無く快楽にて任せてメイの体内に放出を繰り返していたんだし、そりゃ犬や猫でも妊娠するのは言うも更なりだ。寧ろ遅過ぎた感もある。

 こういう結果を僕はどこかで望んでた所があったのかもしれない。常識と道徳を踏襲とうしゅうするのなら、勿論として妻を相手にするべき行為だったのに、どこかで妻へこれ以上の負担をかけたくないみたいな強いブレーキの存在を記憶してたりもする。妻の代役が娘だと考えるならば、メイを妊娠させる事こそ僕の本懐だったのだろう。でも何故に妊娠なんかを目的にしていたのか。

 確かにあの頃のミキは壊れていた。壊れてしまった妻に魅力を感じなくなっていたのも認めよう。子供時分に遊んでいたオモチャが不意に押入れの奥から出てきたみたいに、懐かしさよりも、

「こんなモノで楽しめてたなんて」

 みたいな切なさしかなかったのを思い出していた。妻が壊れてしまって、家族もまたゆっくりと壊れていった。1本だけが枯れる花は無い。植物は周りを巻き込みながら枯れてゆく。ミキは元に戻らないと悟った時に家族を守る為にクスリに手を出した。

 僕も間違ったがミキもまた間違えたんだ。

 ミキが薬品まみれで美しく見せるだけのブリザーブドフラワーを目指した時、僕らの家族はまがい物に成り下がってしまったんだ。ミキは己の弱さを露呈させてでも尚、家族の事を考えた結論としてクスリを喰らった。妻は進んで幸福の犠牲者になったんだ。

 ミキは何も悪くないのに、何一つとして落ち度はないのに、何故か責任を一手に背負っていた。本当に家族の為を思うのならミキが立ち直りさえすれば良かっただけなのに。

 どうして、どうしてこんな現実を迎えてしまったのか。

 誰も悪くはない。それでもこんな悲劇を演出した張本人がいるのだとすれば、それは間違い無く、街、であろう。でも具体的に街にどんな責任があったのかまでは、まだ記憶が戻らなかった。

 しかし確信だけはある。街の無自覚な悪意だけはるぎない。あの街にさえ住まなければ······

「私、産むよ」

 メイは断言する。その覚悟は即座に僕を圧倒した。近親交配の恐ろしさを知らない僕ではない。今更の今頃になって僕は必死にメイを説得した。生まれてくる子供の将来、そもそも現実的には僕にはミキがいる、まだメイは中学生なんだし。他にも色々とプライド無くまくてたと思うが、メイの決心はついぞ崩れはしなかった。そのかたくなさは、授かった子供こそ僕らの家族に必要な存在になる、という使命感を放ってもいた。

 その時、メイは何かを言っていた気がする。何かを言っていたんだが、判らない、思い出せない。それでも僕の決意だけは明瞭に思い出せた。あの夜の僕は、最終的にミキを選んだんだ。

 ······ミキを選んだんだ。

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