終幕 乱世のならい

 淮陽わいようの戦いの後、北魏ほくぎ軍は大侵攻を仕掛ける事が出来なくなった。それは北魏の更に北方の砂漠に住む遊牧民、柔然じゅうぜんが攻め込んできたため、その対応に追われたからである。

 北魏は建国した頃から、柔然の侵攻に悩まされてきたのであるが、今度の場合は決して偶然ではない。

 南斉なんせいの皇帝・蕭道成しょうどうせいと、柔然の受羅部真しゅらぶしん可汗カガンは、互いに使者を往来させており、南に目が向いている北魏を背後から襲うべく話が付いていたのだ。

 柔然の侵攻を何とか凌ぎきった北魏であるが、南北から睨みを利かされた事で大きな軍事作戦を行う事が封じられたわけである。


 この時期の北魏皇帝・拓跋宏たくばつこうは未だに十四歳の少年であり、政治の実権は彼の祖母にあたる馮太后ふうたいごうが握っていた。

 そんな馮太后は、もともと税制改革や戸籍整備などの内政面に力を入れていた人物である。

 南朝からの亡命皇族である劉昶りゅうちょうを受け入れた手前もあり、また建国間もない不安定な時期ならば一気に南へ攻め込める可能性も視野に入れての侵攻であったわけだが、こうして立て続けに侵攻が失敗した以上、執着しすぎても損をするばかり。

 劉昶への義理は充分に果たしたとして、大規模侵攻の話は立ち消えとなったわけである。

 こうして失意の劉昶を尻目に、北魏・南斉ともに内政の安定に力を入れる時期に入ったのであった。


 その名を天下に轟かせるに至った周盤龍しゅうばんりゅうは、その後も北魏との国境を転々としながら辺境守備を続けた後に勇退。七十九歳でその生涯を終えるまで忠義の軍人であり続けた。

 しかし、淮陽で共に戦った周奉叔しゅうほうしゅくをはじめ、子爵家を継いだ彼の息子たちは、亡き父の危惧した通り、南斉の政治闘争に翻弄され続け、遂には家ごと取り潰されてしまうに至る。

 そんな南斉も、建国から二十年ほどで内部から崩壊する。南朝の政権は菩薩皇帝ぼさつこうていの異名を取った蕭衍しょうえんが引き継ぎ、国号は「りょう」へと変わるのである。

 乱世のならいとは言え、儚いものである。


 しかし、家名や仕えた国が消えたとしても、周盤龍の武名は後世にまで語り継がれている。

 戦国ちょう廉頗れんぱ後漢ごかん馬援ばえん蜀漢しょくかん黄忠こうちゅうらと並び、老いてなお戦場で功を挙げた武人として、史書にその名が刻まれたのである。


 中でも、北魏に伝わった周盤龍の名は、恐怖の代名詞となった。淮陽の戦場から帰って悪夢にうなされる者はもとより、親から幼子に聞かせる名として。


「周公が来るぞ!」





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周公が来た! 水城洋臣 @yankun1984

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