この会社が後の○○会社(有名大手企業)である、みたいなオチになるといいよね
うたた寝
第1話
「ふぁ~あ……、っと」
手で押さえもしない大きな欠伸を一回、したと気付いてから彼女は慌てて口元を押さえたが、してから押さえてももう遅い。豪快な欠伸はバッチリと目の前の上司に見られている。
手で押さえもしなかった豪快な欠伸を目の前で見られた、という乙女としての羞恥心もあるにはあるが、仕事中に豪快な欠伸をしているところを上司に見られた、という気まずさの方が強い。
「す、すみません……」
何か言われる前に彼女はとりあえず謝ったが、欠伸の事情を知っている上司は『いやいや』と手だけを横に振った。
彼女はかれこれ3日間、会社に泊まっていて家に帰っていない。最初の1泊目は起床後頑張って髪やメイクを修正していたみたいだが、2泊目辺りからそんな些末なことに割く余力がなくなったらしく、今となっては寝起きでボサボサの髪をして、寝不足でボロボロの肌をしている。そんな満身創痍な部下が欠伸一つしたくらいで怒るほど、上司も狭量ではないのである。
年に何度かある繁忙期。それに巻き込まれ、終電後まで就業して始発で帰る、土日祝日出勤で就業する、という経験は彼女にもあるが、今年の繁忙期は例年以上に忙しい。
一応、会社説明会の時に『会社に泊まり込みで仕事をすることもある』という話は聞いていたし、何なら面接の時も何度か念押しされていたが、実際に会社に泊まり込みで働いたのはこれが初めて。ある程度覚悟はしていたハズだが、思っていた以上に肉体的にも精神的にも結構来るものがあった。
会社への宿泊は会社から強制されたわけではなく、終電後、会社のお金でタクシーを使って帰宅してもいいのだが、彼女の家は会社からそれなりに離れているため、往復時間を考慮するとほとんど睡眠時間を確保できなそうだな、と判断して会社に泊まっている。自宅が徒歩圏内の人は家に帰っている人も居るようであった。
会社には簡易的なシャワー室と仮眠室が用意されているおかげで(ちょっと前はこれも無かったらしく、彼女の目の前の上司を筆頭に頑張って勝ち取ったんだとか)1泊目は思ってたよりは平気だな、と彼女も思ったものなのだが、寝ても会社、起きても会社、ということが体験してみると想像以上にきつかった。
「だから私は止めておけって言ったのに」
社内泊ベテランの目の前の上司は涼しい顔でパソコンを弄りながら言ってくる。ベテラン、とは言っても彼女より2年先輩、というだけなのだが、入社後すぐ会社の経営難で訪れた倒産の危機という、会社の歴史上最大の繁忙期に1年目で立ち向かったという経験者だけあって(噂ではほぼ一年会社に泊まり続けたとか)、これくらいはもうなんてことはないのだろう。昨日も彼女より遅く寝て、今日も彼女より早く起き、会社に泊まっている日数も彼女より多いハズなのに、上司には疲労の色が一つも見えやしない。
「だってぇ~……」
会社の2年先輩でもあり、大学の2年先輩でもあるこの上司は内定前・後も何度か彼女に『この会社は止めておけ』と忠告していたのだが、先輩と一緒の会社で働きたい、という何とも健気で可愛い想いを持っていた彼女は会社名で検索すると予測変換の一番初めに『ブラック』と着いていることに不安は覚えながらも、入社することにしたのである。
結論、ブラックですか? と聞かれた際の彼女の回答は『ビミョー』である。残業代と休日出勤等の手当ては諸々着くので、その辺を考えればブラックではないかもしれないが、繁忙期の労働時間は正直労基に引っかかるのではないかと思っている。まぁ、繁忙期を越えた後に長期で休みを貰えたりもするので、年間の労働時間だけ見るとそうでもないのかもしれないが。
「『だってぇ~……』じゃない。おかげで私の転職時期が伸びることになったんだ」
「えっ、ひょ、ひょっしてしなくても私のために……?」
「こんな地獄に後輩一人残せないでしょ」
「せんぱぁ~い……っ!!」
後輩がうるる~ん、と瞳を潤ませてこちらを見てくる。ちなみに、確かに理由の半分は後輩を想ってではあるが、もう半分はホントにかる~くそれとな~く、転職を匂わせるような発言をしたら、会社総出で止められたのが理由である。上長どころか会社の役員まで出てきて面談させられて大分大事になったのである。実際に辞める時も面倒そうなので、その時は退職代行に依頼しようと先輩は密かに検討中である。
仕事が一区切りした上司は目線をモニターから外すと、
「まぁ、初めての会社泊が連泊となればしんどいだろうね」
「……連泊しまくってる先輩が言います? それ」
「ただ慣れたってだけさ。君ももう1,2年すれば慣れると思うよ。もしくは辞めている」
「……何でしょう? どっちにしても明るい未来が見えてこないのですが……」
「この会社に居る限り明るい未来を望むのは難しいだろうね。これでもある程度、君には仕事が行かないようにはしてるんだけど、どうも仕事を持ってくる人間が人員も工数も計算できない人みたいでね」
「あ、あはは……。これで仕事量減ってたんだ……」
結構殺人的な量を振られていると思っていた彼女としては衝撃的な事実である。ホント、先輩が居なくなっていたらどうなっていたことか。いや? その場合はもうこの会社潰れてたのか? そもそも入社動機は会社の事業内容云々ではなく、先輩と一緒に働きたかった、というだけなので、いっそ先輩がさっさと転職してくれてたらもっとホワイトで働けていたのか? うん? つまりこの状況は先輩のせいか? 許せん。
「……何故今君にそんな殺意に満ちた目を向けられているのかはあえて聞かないが」
「はっ!?」
いかん。殺意の衝動が抑え切れていなかったらしい。彼女は慌てて顔を覆うと先ほどの思考を追い払うように頭をブンブン横に振る。振った結果、気持ちが悪くなった彼女はグデーンと机にうつ伏せになった。という、随分と頭の悪い部下の挙動を見ていた上司は、
「大分限界みたいだし、今日はもう上がって家に帰りなよ」
「えっ!?」
と、とっても嬉しそうな笑みを浮かべた後、すぐに噛み殺し、
「い、いえいえっ? 私は全然元気、」
「ん」
「? な、何です? 私の胸を指差して。胸が小さいってクレームなら受け付けな、」
「シャツ、裏表逆だよ」
「うぇいっ!?」
「パリピみたいな返事をするんじゃない。言っとくが私は『ウェイ』だけで会話はできないぞ。って、ここで脱ぐ、……まぁ、いいか」
テンパってこの場で人目も憚らずシャツを脱ぎだした部下であったが、今このオフィスには上司と部下しか居ないため、人目、がそもそも無かったことを上司は思い出した。
「シャツの裏表にも気付かない奴に無理やり残られたって邪魔なだけなんで、とっとと帰れ、さっさと帰れ、今すぐ帰れ」
「ひ、酷くないっすか……?」
「じゃあ残る? もう一週間くらいは帰れなそうな作業がちょうど手元に」
「お先に失礼致しますっ!!」
「ん、お疲れ」
部下が三日ぶりの『お先に失礼します』を謝罪時などに使うような角度90度のお辞儀とともに言ってくる。初日、上司が何度『帰れ』と言っても『先輩が帰らないなら帰りません!』と駄々をこねて帰らなかった彼女であるが、この3日間で随分素直になったものである。まぁ、英断と言えよう。何せ、一週間は帰れない作業、というのは別に脅しでも何でもない。
彼女がオフィスを出て行ってから5分くらい経ってからだろうか? 『いやでもやっぱり先輩を置いてっ』とか抜かして彼女が戻って来やがったため、『うるせぇ黙れ上司命令だとっとと帰れ』と彼女を強引に会社から追い出すという無駄な肉体労働が発生し、疲れた上司が椅子にふんぞり返っていると、
「おっはよー」
と、やたらと軽く明るい声がオフィスの入り口から聞こえた。繁忙期、この会社の社員は基本的に全員死んだ目をして暗い声をしているため、声を聴いただけで声の主は従業員では無いことが分かる。顧客があんなフレンドリーな声でオフィスに入って来るわけもないため、おのずと答えは一つである。上司は嫌そうに体を椅子から起こすと、
「邪魔だ出て行け騒音の基にして諸悪の根源」
「ひ・ど・くな~い?」
『おはよう』の挨拶の返事が『邪魔だ』なわけだから、言い分としてはもっともだが、男の顔と声音からも分かる通り、一切そう思っている様子が無い。実際、特に気にした様子もなく、上司の席の周辺を見渡している。
「おや? 社畜が一人減った?」
「自分の会社の従業員を社畜と呼んでるのかお前」
「自分の会社の役員をお前と呼んだかい? 今」
そう。オフィスに入ってきた男はこの会社の役員。社歴の長い社員ならまだしも、上司くらいの社歴で利いていい口の利き方ではないが、上司はまるで気にしない。
「お前の持ってくる仕事のせいで毎回大変な目に遭ってるんだ。物理的に手を出さないだけ感謝しろ」
「物理的にって具体的に何を……、ああ、うん、分かった。分かって謝るからその手に持っているハサミは一回置こうか」
「(ドスッ!!)」
「うん、机に突き刺すのは置いたって言わないからね? うん、だからって抜いて構えなくていいからね? っていうか構えないでくださいお願いします」
泣きながら土下座されたところで許す気など上司には一切無いが、こんな格好の男にハサミを突き刺してもカッコ悪いので、上司は渋々ハサミをデスクにしまう。凶器がしまわれたことを確認してから、役員がそっと顔を上げると、持っていた紙袋を上司の方へと献上して来る。
「いやー、いつもご苦労をおかけ致しますー。こちら差し入れなのですが……、もう一人の方は帰られてしまった形でしょうか?」
「さっきまで居たけどね。差し入れがあるなら、これだけ持って行かせれば良かったかな」
袋の中身はパンやコーヒーなどのモーニングセットであった。紙袋を見た感じ、そこそこ高級店のようなのでコーヒーはともかく、パンの方は取っておこうか少し悩んだが、彼女は明日も休ませるつもりなので、食べてしまうことにした。
二人分の朝食を一人で食べ始めたことで役員はおおよそ察したらしく、
「そーやって後輩に仕事分配しないからキツイままなんだよ?」
「そうやって分配して辞めていった人員を補充してくれるなら考えるが?」
「いやー、今日もいい天気だねー」
露骨に話を逸らす役員。更なる上司からの追撃を避けるように役員はオフィス内をウロチョロ歩き始める。その様子をぶっすぅ~っと、不貞腐れて見ながら上司がパンを齧っていると、上司の目の前の電話が鳴った。
「「………………」」
上司。食事中ですと言わんばかりに華麗に電話を無視。ここは役員としてビシッと言ってやろう。
「……鳴ってるけど?」
「分かってるなら出ろ」
「…………はーい」
社員に顎で使われる役員。ガチャっと電話を出ると、取引先からの電話であった。日本人の不思議な特徴として、顔が見えていないにも関わらず頭をぺこぺこ下げるという風習があるが、この役員、声音だけヘコヘコしつつ椅子に座って踏ん反り返っている。空いている片方の手でスマホを弄り、見てレアキャラ引けた、と何かのソシャゲのガチャの結果を見せてくる。
「はーい、それでは失礼致します~」
ガチャッ、と電話を切る。電話の内容から嫌な予感がしている上司はもう嫌な顔をしている。
「また無理難題言ってくるつもりじゃねーだろうな?」
「ご名答!」
「死ね」
「こ、こわーい……」
声音がガチである。罪にならない銃弾が6発あったらきっと6発とも役員に撃ち込んでくるに違いない。
「無理なもんは無理って断ってくれよな」
「それが顧客とのパワー関係があるとそうもいかなくてね。ほら、こことの契約切られるとうち終わるし」
「弱小企業め」
「違いない」
ケラケラケラ、と役員は笑った後、
「なーに、もう少しの辛抱さ」
「何? この会社潰れるの? やったー」
「自分が働いている会社が潰れるって聞いて喜ぶ? ふつー」
「辞めたいって言ってる会社が潰れるっていうんだから喜ぶだろ、普通。退職代行に頼む必要も無くなったしな」
「あー、退職代行使おうと思ってたのね……」
せめて辞表くらい本人から手渡しで貰いたいものである。まぁ、以前役員総出で止めたわけだから気持ちは分からないでもない。
「いや、まぁそういう話ではなくてだね。もうそろそろ立場が逆転するのさ」
「しねーよ」
「い、いやするんだよ。……予定では」
「何で? どうして? どうやって?」
「最初は向こうも『取引先なんていくらでもあるんですけど?』って感じで、こっちの足元見て難題を吹っ掛けて来てたけどね、これだけウチと密に取引をし始めた以上、向こうも段々こっちとの取引を切りづらくなってくるのさ。何せ、今ウチと取引が終わると、向こうさん、今まで我々が進めてたプロジェクトまた一から作り上げなきゃいけないからね。赤字も赤字になるわけさ」
「……その他大勢の企業から大事な取引先に立場が上がって、向こうが強く出れなくなる理屈は分かったが、別にこっちの立場が強くなるわけじゃないだろ? さっきあんただって言ってたろ。契約切られたら終わるって」
「今現在はね。けど、もう1,2年経てばそうでもなくなってくる……予定。何せ今回この大型顧客と取引したことで、業界内でのうちの評価も上がってきててね。もう既に何社か取引の申し出が着てるんだ~。これが数が増えて行けば、今度はこっちが『取引先なんていくらでもあるんですけど?』っていう番ってことさ。うちは今回の取引でノウハウを得て、そのノウハウはどこでも使えるけど、向こうが得た商品はこっちが契約切ったら一切使えなくなるからね」
「……半分くらい妄想に聞こえる」
「ってことは半分は現実味を帯びているわけだ。やったね」
「ポジティブかよ……」
「いいじゃない。一生顎で使われるんだって思いながら働くより、覚えてろよ、いつかこっちが顎で使ってやるからなって思いながら働く方が夢があるだろう?」
「あるか? それ夢。あるの恨みだけじゃね?」
「いやいや、夢もあるでしょ。事業規模が100倍は小さいハズのこっちが顎で使うんだよ? 想像しただけでゾクゾクするじゃない」
役員がすんごい嬉しそうな顔をしている。どうやら相当嫌なことを向こうに言われ続けているらしい。言われてきた言葉、一言一句全部間違わずに言い返すつもりに違いない。
「まぁ、そのためにも、立場逆転までの間は向こうの無理難題聞き続けるしかないわけだ。今の状態だと契約切られても向こうはリカバリー利いて、こっちはただただ潰れるだけだからねー」
「潰れちまえー、こんな会社―」
「何てこと言うんだ。夢にまで見た自分の会社だぞー」
「あたしからすればただのブラック企業だ」
「頑張って残業代出してるじゃないかーっ!」
「出すのが当たり前だ! 威張るなっ!」
「何だとーっ! その当たり前の残業代を出さない企業が一体全体の何%あると思っているっ?」
「ええい黙れ聞きたくない! そんな業界の闇っ!」
そういうブラック企業の情報をチラホラ聞くから転職の意志が揺らぐのである。労働時間という意味ではここよりキツイところなどそうないと思っているが、変な話、全額手当てが出ているため、同年代の社員より結構お金貰っているのである。時給換算した時に割がいいかはおいておいて。
「人件費を払っていない企業に取引先取られても、空前絶後の不景気でもちゃんと人件費を払い続けているうちの会社を褒めてほしいもんだ」
「それが褒められる対象になってるようじゃこの国の企業は終わってるんだよ。大体、残業代出してもらってはいるが残業自体は強制だったじゃないか」
「失礼な。一度だって強制はしてないハズだぞー?」
「『しなくてもいいけど、しないと会社潰れるぞ?』ってのは強制って言うんだよ」
「事実を言っただけなんだがなー」
「やっぱ終わってんな、この会社」
「仕方ないじゃないか。人件費ちゃんと払ってない企業にはコストで勝てないんだから。時間と質で勝つしかないのだ」
「その納期の短さに明らかにあってない質を求められたせいで次々辞めてったけどな。私が課に配属された時のメンバーもうほとんど居ないぞ。分かるか? 出社する度に人が減っていく恐怖。最初長机いっぱいに居たんだからな、人。それが今となっては向かいに一人だぞ」
最初は座席表があって、それ見ながら社員の名前とか覚えたものだったが、望む望まないに関わらず、今流行りのフリーアドレス制を先取りしていた。
「激動の時代を生き抜いてくれた君たちにはホント感謝してるよー。居なかったらマジでこの会社潰れてたろうし」
「生き残ったのか逃げ遅れたかよく分かんないけどな、最近。辞めてって生き生きとしている人たちと会ったりすると特にな」
まだ居るの? 早く辞めたら? と飲み会の度に言われるので、その度に誰かさんたちが残していった仕事があるのでね、と嫌味を返している。
「それはほらあれよ。既にある程度軌道に乗っている会社に入るか、今から軌道に乗ろうとしている会社に入るかの差よ。どこの会社も軌道に乗るまでが大変なのさ。乗っちゃえばもうこっちのもんさ」
「いつ乗るんだよ、軌道には」
「んー? もうちょい?」
「それ入社した時も聞いた。何なら面接の時も会社説明会の時も聞いた。何だあれは詐欺か?」
「時代の流れとは移ろいやすく読みにくいものでねー」
「こいつに舵取り任せちゃいけない気がしてきた」
「失礼な。僕が役員になってから少しずつ業績上がってきてるんだぞ?」
「その売り上げの大半、私の力じゃね?」
「君の名前は未来永劫この会社で語り継がれるであろう」
「あと何年続くかも、あと何年居るかも分からん会社で語り継がんでいい。給与に反映してくれ」
「その件につきましては善処するよう前向きに検討する所存で」
「ぜってーやんねーじゃねーか。あー、マジ辞めてー」
「まーまー、そう言いなさんな。もうちょっと会社が大きくなって、もうちょっと余裕が出てきたら還元してあげるからさ。社内での待遇だって特別良くするぜ?」
「誓約書書け。水掛け論の口約束なんか絶対信じん」
「そういう意味じゃ誓約書もそれほど法的拘束力持たないけどねー」
「裁判で訴えられなくてもいいさ。誓約書を破るような会社なんですと世間に流布できればそれでいい。今時情報拡散には困らん」
「おおぅ、なるほど。頭がいい」
感心したようにしきりに頷く役員。何だコイツ、マジで誓約書書いても破るつもりなのか? と社員が疑いの目を向けていると、その視線に気付いた役員が、
「いやいや、ちゃんと守るって。……やむを得ない事情が無い限り」
言えば言うほどさっきから詐欺っぽい内容である。まぁ、前提条件が大きくなって、余裕ができて、と言っているのでもうあんまり信用していないが。
「ほら、今は名立たる有名企業たちもさ、最初は無名だったわけじゃない? その時その会社に投資してれば莫大なリターンがー、みたいなあれよ」
「この会社上場する気無いって言ってなかったか?」
「うん。株主に経営方針に口出されたくないからね。それに配当金出すくらいなら社員の給料に還元したいでしょ」
「還元された覚えが無いんだが?」
「今はまだ時期じゃない。しかし時期が来た時、君の今までのこの会社での奉仕活動は莫大なリターンとなって返って来る……予定さ」
「予定な」
「夢があるね~」
「ポジティブかよ……」
「この世界で最も強い者。それは頭のいい者でもなければ、体が強い者でもない。ずばり、ポジティブな者さ」
ドヤァ! という顔と決めポーズをしている役員。何か会社のホームページにも同じポーズと同じ顔と同じ言葉が乗ってた気がするなー、と社員は最後のパンのひと欠けを口の中に放り込んでから、コーヒーで流し込む。
「あ、そ」
「あれ? おざなり? 結構いいこと言ったと思うんだけど」
「夢語る時間も必要だが、現実を見つめる時間も必要なんだ。パン食い終わったからそろそろどっかのバカがバカみたいに持ってきたバカみたいな仕事をするんだ。邪魔だ出て行け騒音の基にして諸悪の根源」
「ひ・ど・くな~い?」
何か役員(笑)が何か言っているが、とりあえず無視してパソコンを点ける。さっきの顧客との通話の内容がいつの間にか反映されているのか、ちゃっかり増えている顧客の要望とその内容にイラっとする。割と無理難題を聞いてやってるハズなのに、どんどん要求がエスカレートしてくるのだが? 何なんだこの会社は? 大手企業なんだが有名企業なんだか知らんが終いにはキレるぞ。ってか何でこんな要求飲むんだ。誰だ? こんな要求を飲んだやつは? バカか? バカなのか?
「何か熱い視線を感じる……」
「おいバカ。後で警察に通報してもいいから一発殴らせろ」
「そんな赤穂浪士みたいな覚悟で立ち上がられるとちょー怖いのだが? まー、落ち着いてくださいお願いしますって。さっきも言いましたけどー」
「100人が100人見ておかしいって言うような要求断れないほどにうちの立場は弱いのか?」
「返す言葉も無いですー」
「………………」
「…………てへっ(バキッ)ぶぅっ!?」
「あ、わりー、手が出た」
「し、素人の拳の速さじゃない……。目にも止まらぬとはこのことか……。ま、まぁ、連日の激務でストレスも溜まってるだろうしね……」
「いや、純粋に気持ち悪さに我慢できなかった」
「殴られたことよりフツーにショックなんですけど?」
「まぁでも仕方ない。今の一発に免じてやってやるか」
「ありがとうございます! 感謝してます!」
ふと、思った。これ、要求に応えられちゃうからどんどんエスカレートしてるのか? 何かやらない方が幸せなような気もするが、でもやるって言っちゃったしなーって思いながら指を動かす。
そろそろ住んでいる部屋を解約してもいいんじゃないか、と思うほど家に帰っていないわけだが(一時期あまりにも帰れず、引っ越すわけでもないのに光熱関連と郵便物を止めた)、社員は嫌な顔いっぱいしつつ、不満はたくさん言いつつもちゃんとタスクは熟してくれる。辞めたいと思い、辞める準備も進めている上で、それでも何故未だにこの会社で働いているのか?
仕事が好きだから? 止めてくれ。吐き気がする。
自分のスキルアップに繋がるから? いや、そんな向上心は無い。
お金のため? 言っちゃなんだが、当面の生活費くらいある。
会社のため? ああ、無い無い。
後輩のため? ああ、それはある。
役員のため? オロロロロ(吐しゃ)。
多分転職しようと思っている人が割と悩む問題だと思うのだが、転職して労働環境が改善されるという保証が無いからである。ネットで評判などを見ても、やはりブラックと感じるかどうかには個人差がある。合う・合わないもあるだろう。転職してよりブラック企業に、というリスクを鑑みて二の足を踏んでいる、というのが主な理由。
それとは別にもう一個理由がある。
それは、ここまでこの会社の経営に貢献してやったのに、辞めた後この会社が優良企業にでもなったら大変感じが悪いからである。これを通称、『でかい顔しやがって、誰がここまで育ててやったと思ってる症』と言う(言わない)。あと少し、あと少し、と辞められずにズルズル延長してしまうその様子は、ギャンブルを辞められない人の思考回路に陥っているような気もする。
「はぁ……、辞めたい……」
そう言って社員は今日も指を動かす。
この会社が後の○○である、みたいなオチになることを願いながら。
この会社が後の○○会社(有名大手企業)である、みたいなオチになるといいよね うたた寝 @utatanenap
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます