いじわるな優しさ
羽間慧
眠れない日の来訪者
持ち帰りをした仕事が終わっても、眠気はやって来なかった。カフェインの摂取には気を付けているし、午前零時を過ぎればパソコンもスマホも触っていない。睡眠薬を処方してもらうべきか、本気で悩むようになっていた。
ベランダでぼーっとしていると、緑色の光が柵に留まった。蛍と思ったが、モルフォ蝶を思わせる青い翅だった。目を凝らすと人の形をしていた。
「妖精?」
小指ほどの大きさが、ぼくの目の前に飛んできた。
「ニホンジンにも見える人はいるのね。驚いちゃった」
彼女の声は、川のせせらぎだった。ずっと耳を澄ませたくなる。
「眠れていないの? そういう人は、いたずらしても反応がつまらないのよ」
頭に小さな痛みを感じたが、数秒後には気のせいだったのではないかと考えていた。
「ほらね。髪の毛を何本か抜いても、ぜーんぜん楽しい反応をしてくれない。もっと感情的になってちょうだいよ」
「感情的になっちゃいけない仕事だからなぁ。それに、ぼくは髪の毛にこだわっていないんだ。少しくらい抜いても、まだまだ多いし」
妖精は緑色の粉を撒き散らした。
「つまらないわ! あたしの退屈を紛らわせなさいよ!」
金切り声を上げてもおかしくない口調だが、穏やかな音色はあいかわらずだ。妖精はぼくの鼻に近づき、唇を軽く触れさせた。
くすぐったさを感じた瞬間、ぼくは椅子に座らされていた。深く沈み込むクッションから、ラベンダーの香りが立ち上る。部屋の椅子と違う感触に驚いていると、ティーセットを運ぶ音が聞こえた。
「ようこそお越しくださいました。女王陛下からおもてなしするよう伝言を預かっております。こちら、眠れない日のハーブティーでございます。心ゆくまでご堪能くださいませ」
燕尾服を着ているのは、おとぎ話の挿絵で見たケンタウロスだ。深々と礼をするとき、羊の角がぼくに当たらないかひやひやした。
「ごちそうになります」
ポットから注がれたばかりの紅茶は、湯気を立てながら幻想的な色合いになった。まるで雨上がりの空色のようだ。
ティーカップを口元に近付けると、クマのひどい顔が映った。二時間睡眠に、終止符を打てるだろうか。
爽やかなミントと林檎の味が口いっぱいに広がった。二口目をすすると、レモンの味が強まった気がした。
ソーサーに戻した紅茶は七色に光る。本物の虹入りですと、ケンタウロスが微笑んだ。
「ハーブティーの効き目が表れるまで、少々お時間がかかります。こちらもお召し上がりください」
三種のジャムを味わうスコーンが提供される。バターがふんだんに使われているらしい。
一口目は何も付けずにいただく。ふわふわな口どけと食べごたえを楽しんだ。
黎明のイチジク、黄昏のマーマレード、宵闇のベリー。ケンタウロスの紡ぐ名前に、ぼくはスプーンを握りしめたまま考え込んだ。さぁ、どれから付けよう。
視界がぐらりと揺れる。ヒーリング効果のある音楽を聴いても眠くならなかったはずなのに、意識が遠のいてしまう。
手の力が抜けないうちに、三種類すべてのジャムをスコーンにかける。悩みあぐねているうちに第三者が横取りするのは、寓話だけにしてもらいたい。唇から溢れるジャムを人差し指で拭う。
「いい顔できるようになったじゃないの」
妖精女王の笑い声が耳元で聞こえた。
いじわるな優しさ 羽間慧 @hazamakei
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