黄昏の喫茶店

一之瀬葵翔(いちのせあおと)

第1話 それはあたたかいもの①

 晴れた空に白い雲。朝日に照らされて、町が動き出す頃。

 それに合わせてこの店も動き出す。

 おいしいコーヒーと紅茶、軽食がメイン。

 だけど、材料があればリクエストにも答える優しいマスター。

 営業時間は朝七時から夜の七時まで。

 夕暮れの時間、窓から見える景色がやけに綺麗で感傷的なこの店を常連客はこう呼ぶ。

 黄昏の喫茶店、と。






 町が朝の喧騒に包まれている中、この店は静かだった。

 といっても全く音がないわけではない。

 ガラス越しに聞こえる生活音と、うっすらと聞こえるクラシックのBGM。

 数人の客が注文したものを腹に収めようと動かす、カトラリーやカップの鳴る音。

 そうしたものがうまく調和し、穏やかで、妙に落ち着く空間となっていた。


「まだ、今日は落ち着いてんな」


 カウンターの一番入口側、喫煙ブースに最も近い席に座っている年かさの男がぽつりと呟く。


「ええ、最近は何故かお客さんが多かったですからね。何か工事とか大きなことでもあったんでしょうか?」


 カウンターの奥で洗い物をしていた、三十代後半から四十代前半くらいの男が手を拭きながらそう答える。

 男が棚に手を伸ばし、カップを取り出そうとすると声が重なった。


 「「コーヒーお代わり」」


 「……で、いいですよね? くまさん」


 顔を見合わせて、どちらともなくふっと笑いあう男二人。


「ああ。タバコ吸ってくるからその間に頼むよ、マスター」


 そう言って席を離れ喫煙ブースへと向かう、くまさんと呼ばれた男。

 本名は熊谷康弘。この店が営業を始めたばかりの頃から、週三回から四回は来てくれる常連客の一人だ。

 それを見送るとマスターはコーヒーを淹れる準備をする。今週はくまさんの誕生日だ。足繁く通ってくれる常連客に、普段とは違ったコーヒーを提供しよう。

 他の客がまだ店にいる手前、表情には出さないがマスターは少し気合を入れて、道具の前に向かう。


 「まずは……、忘れないうちに」


 棚から取り出したカップに熱湯を注ぐマスター。紅茶と同じで温めておくのがいい。開店前にネットの記事で見かけたことを守って毎回必ず行っている。

 次にいつも使っているものとは違うコーヒー粉を裏から持ってくると、ドリッパーにペーパーフィルターを置く。粉をコーヒー用のメジャースプーンで一杯。ドリッパーの側面を軽く叩き、フィルターの中の粉を平らにならす。カップに入ったお湯を捨て、ドリッパーをカップに乗せたら準備完了だ。


「さあ、ここからが本番だ……」


 小さな声で呟くと、ドリップポットを手に取り、少しだけお湯を注ぐ。所謂、蒸らしだ。お湯の温度は九十五度。この温度が一番適しているとのことで、沸騰させたお湯のぼこぼこいった泡が収まるのを待って使う。

 二十秒ほどだろうか、少しだけ注いだお湯がコーヒー粉に馴染むのを待って、本格的にお湯を注ぐ。

 フィルターの中心から、外側に向かって、渦を巻くようにゆっくりと。フィルターの半分ほどまで注いだら、一度止めてお湯が落ちるのを待つ。ただし、落ち切る前に次のお湯を注いで、なるべくお湯の高さをキープすること。ちょうど一杯分しか入れていなかったポットの中にあるお湯を注ぎきったら、あとは待つだけ。


「おう、できたかい」


 タバコを吸い終わったくまさんが席に戻るや否や、コーヒーを催促する。この店の日常の一コマ。

 カップを見るとどうやらお湯は落ち切ったみたいだ。

 ドリッパーを外し、カップを皿に乗せ、ティースプーンを共にカウンターの席に置く。


「お待たせしました。ホットコーヒーです」


「ありがとな」


 礼を言って、カップを手に持つ。一口飲もうとすると、いつもと違う匂いがした。


「あれ、これって……」


「くまさん、今週誕生日でしょ? だからお祝いに、いつもと違うコーヒーをと思いまして。ああ、安心してください。お代はいつもと同じですよ」


 実はコーヒーが好き、と以前連れてきてくれた娘さんから聞いて今年のお祝いはこれにしよう、と決めていたマスター。

 手で飲んでくれ、と促すと少し笑ったくまさんがカップに口を付ける。


「……これ、いいな。豆は?」


「喜んでくださったなら何よりです。マンデリンとコロンビアの浅煎りに、ブラジルの深煎り。三種類ブレンドしてみました。といってもお店の人がやってくれたんですけどね」


 苦笑交じりにそう答えるマスターを見て、くまさんもぷっと吹き出す。


「おいおい、色々試行錯誤して自分で作ったんじゃねぇのかよ」


「いやいや、その道のプロに任せた方が安心でしょう?」


 その後も他の客が会計のために声をかけるまでの少しの間二人は話し続け、最後の会計が済んだところでくまさんも店を出ようと会計を済ませる。


「ありがとよ、マスター。今年もいいプレゼントもらったぜ」


「こちらこそいつもありがとうございます。お気をつけて」


「ああ、またな。……あ、そうそう。そろそろバイトの一人でも雇いな。この前みたいなのが続くと身体壊しちまうぞ。マスターも若くねぇんだから」


 そう言って店を出るくまさん。若くない、の一言に傷付いたわけでもないが確かにそろそろ誰か人が欲しい。

 求人をどうしようか、迷いながらカウンターへと戻るマスターだった。

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