倒景

 彼は憤っていた。まだ小さく、力のない子どもであったけれど、その持てる身体すべてで怒りを感じていた。

 彼は、父を知らない。

 気づいたときには、失われていた。祖父も、母も、家に仕える女房たちも家人たちも、全員が父を誉めそやした。父は素晴らしい歌人であり、どんなことでも人より秀でており、公家には珍しく母だけを妻とし、仏道に帰依する心も深く……。これ以上はない貴公子として、繰り返し聞かされていた。

 父は、彼にとって完璧な存在だった。

 つい先刻までは。

 ―― 父には恋人がいた。

 彼は母が大好きだった。彼女は優しくて思慮深く、姫君のなかの姫君といえた。その母を裏切って、父は他に愛する女を持っていた。

 口さがない者たちが話していた古い醜聞は、彼を激しく傷つけた。しかも、その女との間に生まれた子を祖母が引き取っているとまでいう。

 確かに、祖母が隠すように育てている娘がいることは、なんとなく感じ取っていた。祖母の邸宅を訪れたとき、決して東の対には行かせようとしなかったからだ。

 顔を見てやろう。

 彼は、興奮のままに考えた。

 きっと嫌なやつに違いない。生みの母親だって、その子をいらなかったから捨てた。それで祖母のところにもらわれたのだ。母親が悪いか、それとも娘がどうしようもなく不出来だからなんだろう。ダメな子だからなんだ。

 彼は、桃園第の築地塀に崩れている部分があることを知っていた。そこは大人には到底通れる大きさではないけれども、彼なら余裕で行き来ができる。すでに確認済みだった。彼は目立たない色の半尻姿になり、たじろぐ乳母子に手伝わせて脱走を試みた。

 祖母の邸第は彼の住まう屋敷からはほど近い。それでも子どもには大きな冒険だ。彼らはどぎまぎしながら大路を横切り、東院に向かった。敷地内へは出てきたのと同じ要領で入ると、彼は乳母子と手分けして少女を捜すことにした。

 東の対が怪しかったけれど、彼が行っては祖母の女房に見つかる可能性が高い。そちらはごまかしの利く乳母子に任せ、彼は人気のない建物の裏側に行くことにした。その周辺には、繁みもあって、いざというときに身を潜ませることができそうだった。

 そこで、彼は彼女を見つけた。

 小さな女の子が薄汚れた鞠を抱えて、蹲っている。使用人に苛められでもしたのか。生まれが悪いからと蔑まれでもしたのか。打ちひしがれているのは、丸い背中でわかった。

 彼は意地悪な気分になっていた。

 この子は、自分とはまるで異質なものだ。父の血を継いだ子は自分ひとり。きっと祖母は騙されている。この子は父の娘なんかじゃない。別の男の娘なのだ……。

 値踏みしてやる気持ちで、彼は「どうしたの」と声をかける。少女は、びくっと全身を震わせて驚き、目を大きく開いて彼を見つめた。

 運命が、彼にまっすぐ降りてくる。

 その瞬間、雷撃に打たれたように、彼はあらゆることを理解した。

 彼女が、何で、何のためにここにいるのか。

 生まれ落ちたその時から、彼は孤独だった。死に絶えようとする一族の、最後の王子だった。人生に横たわる断絶を、彼は本能的に感じ取っていた。大人たちがどう努力しても誤魔化しきれないほど、彼の周囲には強く死の気配が漂っている。

 でも。

 父上。

 彼の胸はかきむしられるように、せつなく苦しい。

 父は、彼に彼女を残した。残してくれていたのだ。

 ふたりは、似ていた。

 彼と彼女とは、紛うことなく同じ血を受け継いでいる。対となってひとつの存在になる。

 ぼくの。ぼくだけの。ぼくのものだ。

「きみは?」

 彼女は表情を和らげて、それから自分の涙を恥じた。

「泣いてる」

 我がことのように、彼も悲しくなる。

 彼女は慌てて袖で拭う。けれど、却って目を痛めてしまった。自分よりも幼い仕種が可愛らしくて、彼は笑った。ゴミが取れるように懐紙を渡してやる。

 母が常に持たせてくれる懐紙は上品な香りがして、彼女の愛らしさとによく似合った。

 寂しいの、と尋ねると、彼女は素直に頷く。

 そうだ、彼女も、そうなのだ。

 同じ想いを、違う場所で感じている。

「あなたは?」

 誰何する少女の言葉に、彼は少し考える。

 ぼくは何者だろう。何と言えるだろう。

「ぼくは……、きみの兄上のようなもの、かなあ」

 彼は不思議そうな顔の彼女に教えてあげた。それは、真実のこと。話したいことがたくさんあるけれど、それはもっと先になってからでいい。

 見つけた。

 とても、優しい気持ちになる。ひとりではないって、こんなに嬉しいことだったんだ。

 伝えたい。彼女にも、自分が見つけた宝もののような、この気持ちを。

 けれど、彼はどう説明していいのか、言葉が見つからなかった。心は逸っても、まだ彼も子どもだ。

 ひとつだけ、一番大切なことを言わなくちゃ。

 彼は、そう決めた。

 今、伝えなくてはいけないことは。

 それは。

「もう、寂しくないよ」

 確信をもって彼は告げた。

 ぼくは見つけた。きみは?

「ぼくがいるよ」

 愛おしげに彼女を見つめる。小さい花。ぼくの花。

 彼女の頬が紅潮した。喜びが身体を駆け上がってきている。

「ずっと?」

 彼女も見つけたようだ。彼は笑って答える。

「一緒だよ」

 約束する。ぼくがいるよ。

 きみの側に。

 ずっと。

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氷姫~『権記』より(平安創作)【完結】 りくこ @antarctica

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