四 残映(6)
「酔いが回られたようでしたので、私めが。大変、重うございました」
怒らせるようなことをしたのだろうか。不機嫌そうな女房に首を傾げながらも彼は支度を済ませ、鴨院を後にした。九の君は「お疲れで、まだお休みです」とのことだった。盗賊騒ぎからの心労を思えば、それも当然だろうと彼は納得した。彼には、今日も長い長い一日が待っている。
太陽が昇り、宮犬が日課を始めるころ、彼女はのんびりと寝所を離れた。賊のせいで、数日来まんじりともせずにいた。昨夜は男手があったおかげで、その心配からは解放されていた。屋敷のあちこちでは、すでに行成の命じた改修工事が始まっていて、軽やかな音が小さく響いている。
すっきりとした気持ちで、彼女も動き出す。
髪を尼削ぎにしようと、経文をどれほど口にしようと、業から逃れることはできないのだ。
彼女は、写経をすると告げて、ひとりの空間を作った。塗籠に入り、一番奥に置いて滅多に開けない唐櫃の蓋を取る。目立たない箱に隠されて、その紙束はあった。
人が生きる理由なんて、ごく単純なことだと悟った。このために、この世に在るのだという瞬間があれば。あると信じて、そのために命をつなぐ。
それが許されぬものであっても。
そのひとときを、永遠に生きていける。
彼女にとっては天災以外の何者でもなかった、花山院を想った。彼の行いを非難できるだろうか。他ならぬ自分自身として、彼もまた歩んでいる。
九の君は、女房に言って火桶をひとつ持って来させた。神無月の初旬では、いかにも早急すぎる。不審げな女房に人払いを命じ、彼女は炭に両親の文を翳した。
ゆらりと揺らいで、それは炎を上げて消滅する。
彼らのことは、誰も知らなくていい。覚えていた人たちも、段々に舞台から退場していく。古い恋の名残は、もはや家集ひとつにしか見られない。そこに隠された名前もやがては忘れ去られてしまうだろう。
それでいい。
最後の記憶は、私ひとりのもの。
彼女はその後、宮犬の養育に心を砕いた。二年後、花山院が、半年も開けずに義懐が鬼籍に入った。世間でいえば早世だったが、彼女たちの血筋では長命な部類だ。その次の年になって、行成は中納言に上った。旧世代は静かに去り、本当の意味で新しい時代が始まろうとしていた。
宮犬が良経と名前を変えて十一で元服した年のこと、行成が敬愛する今上帝が退位、その直後に亡くなった。本心をはっきり聞いたことはなくとも、彼の誠がどこにあるのかは、彼女にも推察できていた。若き帝も、また愛に翻弄され、自らの想いと義務とに引き裂かれ続けた人生であった。
良経の成人に伴って、彼女は鴨院を譲り渡すことを考え始めていた。それは前年に起きた後妻打ち騒動のためである。
彼女は鴨院の西の対に花山院別当をしていた源兼業の後家を住まわせていた。もちろん、これは兼業が生みの母にとって弟であったこと、つまり本当の叔父である縁による。花山院に続いて亡くなった兼業の妻に、大中臣輔親が通うようになった。ふたりの仲は存外深かったらしく、彼はほぼ同居するようになってしまった。これは一体どうすべきだろうか。男女のことに、彼女は疎い。行成に相談する寸前に、それは起きた。夫の心変わりに怒った妻の蔵命婦が郎党を引き連れて、西の対を襲撃したのである。蔵命婦は藤原道長の嫡流である教通の乳母をしており、その権勢を笠に着ての暴挙であった。
後妻打ちそのものは稀に実行されることではあったが、当人でないにしても、現職の中納言が後見する親王室の住む邸第にとなると、尋常な事件ではない。娘を次々に後宮に入れ、並ぶ者のいない権力者となった道長の威を借りたら、乳母ふぜいまでがここまで思い上がり、侮られるのかと、九の君はすっかり気を滅入らせてしまったのである。
結局、彼女は菅原院に居を移すことを決めた。これは防犯の意味から以前から出ていた話でもあったが、後妻打ちが後押しをした。ほどなく、行成も三条の家を出て菅原院に住まいを改めた。伊尹の嫡流は行成ではあるものの、彼は一時、祖父・源保光の養子となっており、周囲もそう目していた時期があった。その関係で、嫡流が手にすべき資産はほとんど九の君が受け継いでいる。彼女は、時期を待って菅原院を行成に伝領する予定でいた。
数年後、行成は末娘に道長の六男・長家を婿取ることになる。雛人形のように可愛らしいと、誰もが目を細めた幼いふたりの婚姻だった。九の君は菅原院を離れ、大路を挟んだ石井殿に移転した。
長家は、未婚の嫡流としては道長の最後の息子である。その正室の座は、公卿の誰もが狙うところであった。行成は、居並ぶ公卿たちのなかからひとつ飛び抜けたのである。
その頃、行成の娘たちのうち、次女はすでに結婚していた。菅原院に婿を迎えた今後は、大姫は九の君の養女とし、ゆくゆくは石井殿を伝領させては、との話も進んでいた。そうやって、彼と将来について話していると、九の君は昔日が戻ってくるような感覚を味わった。
しかし、末の姫はほどなく亡くなってしまう。菅原院は悲しみに包まれたけれども、大姫の結婚という新しい慶事もあった。行成が選んだのは親友・俊賢の息子だった。政略結婚としてはいかにも弱い。だが、親同士が信頼し合い、夫婦もお互いを尊敬できる喜ばしい縁組であり、大姫の行く末を懸念していた九の君は胸を撫で下ろした。
穏やかで愛する人に囲まれた生活は、九の君にとって、真に甘く幸せな時間だった。苦しみ悲しんだ三十までの人生が嘘のように。子をもうけられなかった彼女が母と呼んでくれる息子を得、甥の家族と親族として温かい交流を保ちつつ過ごす。
側にいる。
その約束のままに、彼は彼女の傍らにいた。すぐ近い距離に。
こうしてゆっくりと朽ちて行きたい。
いつか、隔てを捨て去って、語り合える日も来るのかもしれない。真実、兄妹となって。
だが、ある日のこと、前触れもなく彼は倒れた。一言も発することなく、手立てをする暇もなく亡くなった。あっという間のことだった。奇しくも同日の早朝、道長も身罷っている。まるで道連れに呼ばれたかのように、彼はいなくなった。
彼女は長いこと忘れていた。
そうだ。
運命は、こうして訪れる。
時は流れていく。
彼女は、ついに最後のひとりになってしまった。
良経は息子として、大姫も彼女を母代と思い、何くれとなく見舞ってくれる。寡婦となった行成の正室は、気丈に家を支え続けていた。いつか、彼は妻を孟光と言った。彼の人を見る目は、人に求めるものは正しい。彼らは新しい血脈を培い始めた。彼はその祖として記憶され、もう謙徳公の子どもたちを思い出す人はいないだろう。彼女も、こうして歴史のなかに消えていく。
行成を失って数年、彼女は寿命の終わりを感じている。もともと長命の一族ではない。一度も懐妊がなかったせいかだろうか、彼女は身内では長生きな方だ。
彼女は、庭のよく見える廂で物思いに耽ることが増えていた。母・恵子のこと、兄・義懐のこと、ついに会うことのなかった実母のこと、実母の形見を携えてきた叔父のこと。彼女を攫ったふたりの皇族、花山院と為尊親王のこと。
脳裏に浮かぶ過去の断片のなかでも、毎日のように気にかかるのは、ただひとつ。行成のこと。
彼は、幸せだったのだろうか。
滅んでいこうとする旧家の命運を一身に担い、ほとんど縁者の助力を得ることもなく、逃げ出すこともできなかった。
彼女の存在も、随分重荷だったことだろう。彼にとっては亡き父の妹に過ぎない。周囲は寄ってたかって彼に責任を押し付けた。
彼が、真に願ったことは何だったのだろう。もし、自由を与えられたのなら、彼は何を選び取ったのだろう。
考えても詮ないことだ。彼の人生は終わっており、時間を戻すことはできないのだから。
では、と逆に今を思う。
彼の魂は、どこにあるだろう。どこを飛翔しているのだろう。
内裏で親しくしていたという赤毛の女房の墓だろうか。その女が記したという草子は、一時期、彼女を苦しめた。
それとも、亡くなった先妻、夭折した子どもたちの許だろうか。彼は、家族を真実大切にしていた。
あるいは、そのすべてから解き放たれて、誰もいない遠い国を彷徨っているだろうか。
彼女は、彼の懊悩を知っていた。
知っていて何もできなかった。解放してやらなかった。現世に縛り付けた。彼女は鎖のひとつ。
それでも。
彼女は、いつも同じ結論に辿り着く。
想う気持ちは止められない
何度生まれ変わったとしても、幾度心を切り裂かれたとしても。
―― 私は貴方の妹でいたい。
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