四 残映(5)

 数日後、彼は壊された門扉を直し、新たな造作をするために人手を募って再訪した。多くは木工寮で働く者たちである。侍廊も拡張し、警備に当たる人員を増やせるよう改築する。人員は、橘氏のなかから腕の立つ者を寄越すように手配した。当然、それだけの作業が一日で終わるはずもなく、翌日以降に持ち越されたけれども、何日間かあれば、完成には充分と彼は考えていた。

 男手がいないと思うから侮るのである。その日は、鴨院に泊まるつもりで九の君にも伝えてあった。宮犬は丸一日行成がいるので大喜びしており、日が落ちてもなかなか眠ろうとしない。母屋の東廂で対面していたのだが、御簾をめくっては父親の許へ降りて行こうとするので、周囲は諦めて御簾は上げ、几帳を立てるのみとした。

 騒動があったので、若い女房たちを中心に住み込みの者も実家に下がらせている。一部とはいえ工事があるため、落ち着かないだろうという配慮である。気心の知れた者ばかりが残っているので、多少の儀礼は省略しても構わないだろうと、彼女も賛成した。宮犬が行成を、父上、と呼んでも軽く窘めるに留める。

 膳を用意したものの、行成の食は細く、杯を煽る回数が多い。膝に入り込んで眠ってしまった息子を確認して、彼女は真朱に廂の端に帳台を用意するよう命じ、それが終わったら、真朱以外の者を下がらせるように伝えた。行成は、決して酒が強くない。酒癖の悪い方ではないと彼女は予想しているけれども、何しろひどく酔った場面には遭遇したことがないのだ。花山院や為尊の酌をさせられた経験からいえば、悪酔いの兆候が見て取れた。

 彼も参議になって数年になる。朋友に続いて中納言の上る日も遠くないだろう。恥ずかしい姿を誰かに見られてはいけない。

「行成殿」

 声をかけると、少し意識が薄れていたのか、「ああ、はい」と改まった返事をした。疲労が強いほど酒は回る。好きでないのなら、飲まなければいいのに。

 ときに飲まねばいられないことを、多く見聞きしているのかもしれない。

 彼女はふと思い当たった。政に疎い生活をしている彼女でも、今上帝と第一の実力者・道長の関係は知っている。双方に信頼され、間に立たされる行成がどれほどつらい立場であるかも。身内の前でまで公卿でいなくてもいいだろう。

 帳台の準備が済むと、彼女は真朱に息子を連れて行くように言った。彼は膝の幼児を大人しく引き渡したけれども、座っているのもつらそうだった。

 手を貸して帳台に案内しなければ。

 だが、他に人はいない。

 そうね。

 彼女は立ち上がった。主の意図を察して真朱は首を振ったけれども、彼女は「人もいないし、叔母らしいことをたまにはしてもいいでしょう」と笑った。

「では、せめて」

 忠実な乳母子は唐衣を脱いで彼女に着せ、裳を手早くつけた。次いで、灯火に手を伸ばし、ふっと息を吹きかけて消す。

「失礼ながら、これで誰かが目にしても私と思うことでしょう」

 彼女は、明かりをあらかた消してしまい、それから宮犬を抱き上げて、その場を辞した。

 ふたりきりになった廂を、彼女はしずしずと進む。行成殿、と肩に触れると、彼は「私は……。そんなつもりでは……」と呟いた。

 心臓がどきりと鳴る。だが、それは彼の夢のなかでの台詞だったようだ。帳台はこちらですよ、と導けば、彼女の手を借りて素直に立ち上がった。

 しかし、ふらつく。

 彼は抱きつくように、彼女に支えられた。

「これはこれは」

 自身でもおかしかったらしく、苦笑している。そうだ、彼はこんなとぼけた面のある人だった。彼女のなかで、血を分けたきょうだいが蘇っていく。

「しっかりなさって。大弁ともあろう方が」

 ふふふ、と笑いをこぼしながら、彼は帳を捲って、えい、と、ともに中に倒れ込んだ。驚いて彼女は声を上げる。畳に寝転がってから、初めて女を小脇に抱えていることを理解したらしい。「これは誰か」と尋ねた。

「行成殿」

 彼女は呆れる。

「わかったぞ」

 彼は声ではなく、衣装の手触りで判別したらしい。長い引腰をくるくると手でいじっている。

「叔母上付きの女だな……」

 付き合いきれない。風病など召されませんようにね、と女房の振りをして起き上がろうとしたが、いつのまにか彼の腕ががっちりと腰に回されていて動けない。

「ちょうど良い。叔母上の代わりに、頭弁の相手をしなさい……」

 油断ならない人だこと。いいや、昔からそういう人だった。私たちは、お互い別の人間になったように、仮面をかぶってしまっていた。

 仕様のないひとだわ。九の君は彼の顔にかかる鬢の髪を上げてやり、髻に結わえた鳥帽子の紐を外しにかかった。どのみち脱げかけている。

 ごく僅かな光量では、彼の姿はしかとはわからない。直接目にしたのは、どのくらい前だろうか。

 真朱はすぐ帰ってくるのだから、それまでの間、瞬きほどの時間、兄妹に戻っても許されるだろう。

 吐息がかかるほど近づくと、懐かしい匂いがした。大人になっても同じ彼女の童子の匂い。床下で、白犬のまろと三人して蹲っていた子どもの匂い。

 少しばかり、お酒臭いけれど。

「ん……」

 袖が頬に当たり、彼は目を閉じたまま身じろぎした。このまま、眠ってしまいそう、と彼女は思ったが、それは間違った感想だった。彼はほぼ反射的に彼女を抱きすくめると、首筋に顔を埋めた。

 ぎゅう、と力が籠められる。

「いけませんよ」

 息子に注意するように彼女は警告するけれど、胸が、苦しい。圧力ではなく、心のせいで。

 彼の体温が、彼女と接していた。引き離そうとし、彼女は逆に抱擁を返していた。

 すべてが。

 すべてが遠かった。

 あの少女の日が息を吹き返している。

 彼女が望んだことはひとつだけ、ひとりだけ。他に何もいらなかったのに。 

 もしも、古の都でなら、こんな憂いと痛みを感じることはなかったの?

 もし、同じ母から生まれていれば……?

 もし。

 略奪されて生を受け、無くし続け、壊され、蹂躙されながら成長した。欲しがったことのないものを与えられ、愛することはできないのに、心はいたずらにかき乱される。そんなことが繰り返し……。何度も繰り返されて。

 何のために生まれてきたのだろうと、思い悩み、自分を責め立てて。

 答えが見えない。

 見えないの、兄さま。

 彼は彼女の耳元で口づけするほど近く、くんと鼻を利かせて、ああ、とため息をつく。

 たまき。

 そう呼んだ。

 いいえ。

 彼女は否定する。認めてはならない。

「違います……」

「でも」

 花橘の香りだ。

 微睡みに沈みながら、彼は抗う。

 とても安心する匂い。覚えがある。懐かしくて、愛おしくて、せつない……。この腕のなかにある柔らかさも。

 彼は、それを大切にしたいと、そうしようとずっと以前に決めていた。

 振りほどくべきだ。逃れて彼の許を去るべきだ。

 けれど、彼女の心は震えて、五体は命令を聞かない。

 もう少しだけ身を任せていたい。

 ほんの、少しだけ。

 明け方になって、最近になく深く眠り込んでいた行成は、慇懃無礼な乳母の「おはようございます」という挨拶に驚かされて目覚めた。三条の妻と異なる声色で、そこが鴨院であることを思い出す。

「酷く、お疲れのご様子で」

「ああ」

 まだ薄明だ。だが、今日も政務があるのだから、起こしてもらわなければ行成が困る。立ち上がった彼は、一条、優しい香りが漂うのを嗅ぎ取った。それは、一瞬で消える。

「夕べはどうやって、帳台に」

 息子を膝に置いていた記憶までしかない。

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