四 残映(4)
夫の四十九日に法興院で法事を行ったあと、彼女は落飾した。戒師となった覚運は遠縁に当たり、その父は花山院が東宮だった時代、少進を務めた人物だった。
翌日、義懐は行成と相談して、彼女が相続したすべての管理を甥に任せることと決めた。どのみち、その任に当たれる者は彼の他には伊成くらいしかいない。彼は俗世にいる義懐の最後の子で、伊尹の弟・為光の娘と義懐の間に生まれている。血筋のうえからは申し分ないが、まだ二十歳にも満たない若者だった。
その年の前後、彼女たちは多数の身内を失った。九の君には叔父に当たる源兼相、兼宣は為尊よりも一年早く、同年にはもっとも彼女を気にかけていた兼資と、行成の妻である源靖清の娘が産褥により亡くなった。
帝や道長の行成への信任はますます厚く、公家としては順風満帆だ。なのに、握った手から落ちる木の実のように命が喪われていく。彼は変わらず九の君の許に顔を出していたけれども、対面していてもお互いの配偶者について語ることはなかった。一年の喪が明けて、行成が迎えた妻は、前妻の妹に当たる女だった。彼らしい、と彼女は思う。姉ににて、しっかりとした女性だと聞いた。
浮ついていて夢見がちな恋や愛は、彼らにとって遥か彼方に存在している。
無くしていく一方で、人は受け継いでもいく。
定子という大輪の花をなくした内裏では、道長の長女・彰子を中心とした華麗な小世界を構築しつつあった。そこに集った才媛のなかには、かつて花山院の副侍読として教育に携わった藤原為時の娘がいる。彼女の描き出す優美で魅惑的な物語は、女房や女官に限らず、公卿たちの関心も高い。政治の現場では、道長の右腕となって働く行成の同僚として、後一条太政大臣・為光の次男・斉信、太政大臣・頼忠の嫡男・公任がいる。親友の俊賢も、かつて安和の変で失脚した西宮左大臣・源高明の三男である。藤原氏北家の、九条流の、兼家に敗れ去った名門の血脈は一時潜伏はしても、再び時流の表舞台へと復帰し始めていた。
時代は変わり、夫の死によって彼女も徐々に過去の存在となりつつある。行成の子を育てながらの日々は、彼女にとって初めて憂いなく過ごせる時間だった。彼女の生い立ちに纏わりついていた陰は、後方に流れて消えた。 息子は、行成によく似ていた。彼は父親にそっくりだと誰もがいうのだから、きっと父の幼い頃はこんなふうだったのだろうと想像すると、彼女はおかしくなった。自分が恵子女王になったような錯覚を覚えるからだ。生れ落ちて即、養父を失った宮犬を案じて、行成は彼の様子をよく窺いにやって来た。離れて暮らす息子が心配でもあるのだろうし、三条よりも内裏から近いという理由もあったろう。彼女は数多くの邸宅を自由に使うことを許していたので、不在であっても宿泊に使うこともあった。もとより彼の相続すべき財産だ。彼女に不満はない。それよりも、激務のためにときに胃痛を訴える彼の体調の方が気にかかった。
親王の息子と言われても難しいことは、宮犬にはわからない。臣下の礼を取りながらも自分と遊んでくれる行成は、彼にとって“父”以外の何者でもなかった。彼は、
“父”がくれば無邪気に喜んでいる。それを咎め立てする者は、東院にはいなかった。
為尊が没して二年、主の死によって中断し、その後行成によって再開された鴨院の再建がなった。東三条院の東にあるその邸宅は、為尊が冷泉院より伝領したものだったが、度重なる火災と河川の氾濫により改修が進められていた。彼は、養子を迎えたのちは婿取りされた家を離れ、自宅に妻子を引き取り、本格的に親王家として独立する心づもりでいたのだ。決裂したとはいえ、彼は育った東三条院を愛していた。
翌年、夫の遺志に従って彼女たちは鴨院に転居した。すでに小路を挟んで隣にあった為光の邸第は、伝領した三女によって売り払われた。そこを手に入れた佐伯氏が皇太后・詮子に献上してからは今上帝の後院とされており、周辺は育児には不向きになっていたせいもある。
新しい建物なのに、鴨院にはあらゆるところに夫の気配があった。彼女の好みに合わせた室礼、彼女の好きな香りを放つ花木……。このために入手していたという紀貫之の手が入った屏風を前にしたとき、彼女は堪えきれずに涙をこぼした。五歳になっていた宮犬はわけがわからず、「母上、痛い?」と心配して彼女の頭を撫でた。
痛むのは、心だ。
無事移転したことを確認し、祝いを述べるため、行成がやってくる。半分は彼の仕事である。彼女は彼を労い、「ここにいると、殿の心遣いがどれほど深いものであったのか、改めて偲ばれます」と述懐した。彼女が亡き人に触れることは珍しい。そうせずにはいられないほど、鴨院は為尊の想いで満ちている。
「殿は、私を氷のような女、と嘆いておいででした……。夫婦になった経緯だけに、すぐに飽きられるものと思い込んでいたことを恥ずかしく思います」
氷。そう言ったのは院だそうだけれども、正しい評価だ、と彼女は感じた。世の女のように心を返すことができれば、どんなにか彼は救われたであろうか、と。
「せめて今少しの時があれば……。宮犬と三人で、違う形を求められたのかもしれません」
「意外ですね」
彼女にしては正直な言葉に対し、彼は切り捨てるように答えて、腰を下ろした自分にじゃれかかる宮犬を抱き起こした。
「宮は女性関係では不実な方でした。行状は褒められたものではないのに、叔母上がそのようにご自身を責めていらっしゃるとは」
憮然とした彼の表情を察知して、宮犬は不安そうに見上げる。彼女は乳母をしている真朱に合図して、息子を彼から預からせた。
「第一、叔母上は氷などではない」
何を怒っているのだろう。彼女は訝しんで「行成殿?」と声を掛けた。彼は居住まいを正して「失礼を」と謝った。
「疲れているのです」
「そのようですね」
このところ、京のそこかしこで盗賊が現われていること、公卿の邸宅でもお構いなしなので、重々気をつけるよう、彼は忠告した。鴨院が女主ということは知られているが、今や道長の所有物である東三条院の目と鼻の先で、そのような暴挙は考えにくかった。
実際、年の背が迫った頃、内裏は火災によって焼失し、今上帝が東三条院を里内裏とすると、行成の心配は杞憂であるように見えた。しかし、半年ほど経って、大幅な改築が行われた一条院、元の為光邸に内裏が移されたのちは、そう安心もしていられなくなった。
長月の末、鴨院に盗賊が押し入った。悪人どもは女房たちから袿を剥ぎ、手ごろな品々を奪って去っていったが、住人たちはみな無事で済んだ。異変をもっとも早く察知した下仕えの男が酷く殴られた程度である。行成は、その日のうちに鴨院へ参じ、叔母を見舞った。女所帯ということで目をつけられているのだろう。だとしても親王宅であり、左大弁である行成が後見する屋敷を狙うとは、世も末といえた。荒々しい下賎の輩には、帝の威光も届かぬ者がいる。地方から上がってくる大量の書簡を毎日目にしている行成には、じわじわと朝廷を蝕もうとしている、何か得体のしれない存在を感じることがある。それらが放った嚆矢、あるいは戯れに投げ込んだ矢文を目前にしたように感じた。
考えすぎだろう。彼はそう思うことにして、鴨院の改修を手配した。備えは何事にも必要である。一度の成功で、賊が味を占めるようではいけない。
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