四 残映(3)

 それほど、恨まれていたのだろうか。憎まれていたのだろうか。いとけない嬰児と向き合っていても、彼女の想いは乱れた。心を許したごく数人を身近に置いているという。そのなかに自分がいないことが、夫婦のこれまでを如実に表わしているようでもあった。

 皐月の初め、為尊から参るように使いが来た。何度も文を送り、近侍の者たちに許しをもらうよう命じて、やっとのことだった。すでに、行成から、花山院へは報告していること、和気氏の者に針の治療をさせ、腫れ物はある程度治まったことを聞かされている。しかし、治癒したとは彼も言っていない。

 中御門第は、伊尹の所有で今は九の君のものとなっている菅原院にほど近い。彼女は、せめても、と東院を出て、ここ半月菅原院に滞在していた。

 文佐の邸宅に着くと、為尊に古くから付き従う者に混じって、九の君が送った少弐がいた。彼女にとっては母の年齢に近い少弐には、疲労の色は隠せない。夫の病床に進む間に、彼女は少弐から簡単に説明を聞いた。

 いわく、先日の針治療のおかげで、ここ数日は体調はかなり良い。ただし、あくまで小康状態であること……。一升もの膿を出した腫れ物は、再び悪化しつつあり、いつ急変してもおかしくないこと……。

 九の君は唇を引き締め大きく深呼吸をしてから、いつもの穏やかな面立ちを作り、為尊のいる母屋に入った。彼は褥にいるとはいえ、起き上がって肩に袿をかけている。まるで、ほんの少し風病を患ったというふうに。彼は指を上げて、看護の女房を下がらせた。

「やあ……。ようやく会えたね」

「呼んでくださらないので……。お見限りかと恨んでいたところです」

 力なく、為尊は笑う。そうやって恨んでくれたら、どれほど嬉しいだろうか。非道な男だと、詰ってくれたら。

 だが、その時間はもう許されていない。まだ、これからがある、と彼は無意識のうちに信じていた。死を目前にして、彼は自分が無用な遠回りをしていることに気づいた。それを訂正して、やり直すゆとりがないことも。

「私は、甘えていたんだ……。姉のような君が、姉のようであることに」

 弟ではない、と苛立ちながら。

「言い訳ににはならないな……。君と一緒になって十年に近いのだから」

 彼は自嘲して、ふうと大きく息をついた。ゆっくりと、見苦しくないように、ゆっくりと。

 病人にも関わらず、ごく身奇麗にしている意味を彼女は理解している。彼女は彼に寄り添い、ためらいながらその手を取った。

「私こそ……。私が至らぬために、ご心痛を……」

 彼女に非があるとしたら、夫を愛せなかったことだ。しかし、それが罪だと? 愛欲の咎はあっても、仏も愛さぬことを罰しはしない。

 君は、どこまでも冷酷なひとだ、と彼は思った。彼の心を狂わせて、離さない。離せない。

「よく、見せて」

 彼は彼女の頬に掌を当てた。彼女は、あの冬の夜と同じように、今も凛とした美しさを保っている。

 氷のような女、と兄は言った。

「私は、いつか君を溶かしてみせると決めていた。凍りついた身体の奥にいる、本当の君にまで辿り着いてみせると」

 だが、時が足りなかったようだ。

「それが、心残りだよ」

 一筋、眦から涙がこぼれ、彼の手に染み込む。それは僅かな温もりを彼に与え、刹那に消えた。

 ああ、月のしずくだ。

 彼は彼女から手を外した。

「帰りなさい。もう来てはいけない。子に悪いものが移ってしまう」

「いいえ」

 彼女は頭を振った。

「お側にいさせてくださいませ……。何もできませんが、お身体を拭うことくらいなら、私でも……」

「いいや」

 彼は頑なに拒絶する。

「私には、君の氷を溶かせなかった。このまま、私の美しい月でいてくれ」

 彼は、微かにぬれた指先に口付ける。

「この一滴で充分だ」

 冴え冴えとした夜の月。青白く冷たい冬の月。

 その寂しげな月光に憧れ、懐に抱きたいと望んだ。しかし、そうして捕まえても、それは幻。相変わらず、月は虚空にいて、ひとり自分の影が長く薄く伸びている。

「君は母になったのだろう? 私たちの子の」

 詭弁だ。

 彼女は知っている。彼らは口先で言葉を弄ぶ。その振る舞いに踏みにじられ、切り裂かれるような苦痛を与えられる。

 今、彼女の胸がそうであるように。

「行きなさい」

 さようなら、私の青い月。

 彼は、もはや彼女と視線を合わせようとはしない。声を失った彼女が母屋を後にすると、彼はようやく顔を上げ、妻の行く先を見通すように、長いこと見送っていた。

 彼女が廂に出ると、為尊の乳母が待っていて、「お察しくださいませ」と謝る。

「宮様は、北の方様に最期の浅ましい姿をお目にしていただきたくないのです。ご立派なご様子で、覚えていていただきたいのです」

 溢れる涙をこらえることができず、乳母は袖で顔を覆った。

「わかっています」

 季節は初夏なのに、指先が痛いほど冷えている。寒い。乳母が見上げると、彼女の唇は新雪よりも白く、頬は色を失っていた。

 愛してくださったのに、愛せなかった。

 直面せずに逃げていた事実だ。彼は知っていた。知っていて、とっくに許していたのだ。

 はらりと、しずくが落ちる。

 そんな資格はあるのだろうか。悲しみがあるのなら、それは何ゆえに……?

 一月も経たない水無月の半ば、為尊親王は静かに亡くなった。彼を苦しめた腫れ物も、最後には平安を奪うことはできなかった、と彼女は伝え聞いた。

 遺体は東山にある雲居寺に移され、数日後、荼毘に付される。葬儀の采配を行ったのは、行成だった

 多くの人たちが続々と弔問に訪れる。飯室の義懐と、出家した息子たち― そのなかには直前に僧籍に入った行成の親友・成房も含まれる― もやってくる。

 いなくなれば悪行は遠い記憶になり、良い思い出が残る。人々が口にするのは、どれほど賢く美しい皇子であったか、人を楽しませ、思いやり深い人物であったか、ということだ。彼女は否定する気も、肯定する気もない。親しい者たちの悲嘆を受け止めながら、ひとり決意していた。

 髪を下ろそう。今度こそ。

 母の死では、みなに止められた。確かに、自ら哀れみ、悲哀に溺れての仏心だった、と今ならわかる。

 今度こそ、俗世の色恋や情欲から離れて、御仏の弟子になりたい。

 盛りを過ぎたとはいえ、彼女はまだ三十と少し。女としての興味はなくとも、親王家と一条摂政家の所有する財産を魅力に思う公家は大勢いるだろう。子どもたちの後見を求めての結果、不幸な結婚した名家の室は多い。

 もちろん、そういう女ばかりではない。恵子女王の弟である延光は彼女が幼い頃に亡くなっており、その正室は当時左大将であった藤原朝光と再婚した。ふたりは親子ほども年齢が離れており、しかも朝光は親王息女であった正室と離婚してまでの決断だった。人々は彼が財産目当てだったのだろうとか、好き勝手に噂をしたけれど、結局は添い遂げた。世間の定石とは異なっていても、それを無視してでも貫きたい想いが、そこにはあったのだろう。それは、女にとってはどんな宝珠よりも得がたい幸せなのだろうと、彼女も思う。

 しかし、そうであっても。だからこそ、なおのこと、彼女はそういう世界と距離を取りたかった。もう嵐のような、狂乱の情熱に振り回されたくはない。

 殿の菩提を弔いながら、息子のために余生を生きたい。

 真剣に考える後ろで、霙のように冷ややかな、いつぞやの声がする。

 本当に、切り離して生きていけるの。

 本当に、貴女は凍りついた女なの、と。

 行成は、出家を止めなかった。

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