四 残映(2)

 彼が押し付けた形で、道隆の三女と結婚した弟宮の敦道は、後見である舅が亡くなると即座に離婚した。東宮の薦めにより、彼の愛妃の妹姫と再婚した敦道は、人からはあまりに計算高く冷血なように見えたかもしれない。同母の兄弟では長兄にあたる東宮の采配は、父親を失った愛妃とその血族の行く先を案じてのことで、政治的な配慮も存在している。しかし、正室であった三女の噂を聞くにつけ、為尊は弟の結婚生活がどれほど悲惨なものであったろうかと後ろめたく感じていた。

 華々しく摂政に婿取られた弟はあえなく離婚、有力者の手から逃れて自由に相手を選んだ兄は新しい権力者の許で認められつつある者を後ろ盾にしている。彼が東三条院を飛び出したときには、このような未来は想像できなかった。

 時勢が変わるように、心も動いていく。

 別れるという選択はまったくないのだけれど、彼の恋情は、今は和泉式部と呼ばれる女に向かっていた。大江の家に生まれた彼女は中級貴族に属し、本来、親王が通うような相手ではない。そもそも、出会いからしてたくさんいる女房のたちひとりとして、だったのだ。

 文芸的な才能に恵まれた花山院は、ときおり東院に遊びに来ては情趣あふれる題を出して女たちに和歌を詠ませている。近々、和歌の得意な女房たちを集わせ、その才を競わせようぞ、と兄が提案したので、彼も熱心に人を集めた。

 和泉は、その新参のなかにいた。

 もとは為尊の父、冷泉院の中宮・昌子内親王に親子共々仕えていた女だ。昌子は朱雀帝の皇女であり、母も若くして亡くなった東宮の娘という一級の女王である。飛びぬけて高貴な血を受け継ぎながら、彼女の人生は薄倖であった。激しい悲劇に見舞われることはなくとも、永遠に続く冬の薄曇のような日々を、彼女は自分に仕える橘氏の邸宅で終わらせた。和泉は、中宮の最期を看取った女房のひとりで、主の終の棲み処は彼女の夫の所有物だったのである。

 和泉守となった夫とともに現地に赴いていた和泉だったが、昌子の病状を知ってひとり宮に戻ってきた。ほどなく昌子は亡くなり、長年尽くしてきた皇女の死に直面して塞ぎ込んでいた和泉に、任期が終わるまでの短い間、東院に出仕することを勧めたのは夫の兄弟たちだった。花山院との和歌遊びが終わるまでの、人員の補強といえる。彼女の歌才の素晴らしさは一部に広がっており、忘れられた帝の中宮という寂れた場所であってさえ、その輝きを見過ごせるものではなかった。

 為尊は、悲しみを帯びてはいても、才能に溢れ、美しく、そして、情にも濃い女を見出したのである。

 だが、この浮気沙汰は和泉の夫一族の面目を完全に潰してしまった。和泉の夫、橘道貞はかつて伊尹に仕えた者の息子であり、弟一家は行成の乳母を務めていたからである。出仕の話も行成の乳母子・惟弘を通じてのもので、彼は道貞の甥に当たった。橘一族が問題視したのも、当然である。

 和泉式部が、実質離婚の状況に追い込まれているらしいことは、九の君も聞いていた。哀れなこと、と胸も痛む。彼女の乳母・円君とその娘・真朱も橘の者だ。彼女を慮って詳しいことを伝えようとはしない。和泉には道貞との間に、生まれたばかりの赤子がいるとか……。為尊のみではない、花山院や親王がたの口にする恋や女人は新しい玩具と同等だ。彼らの愛は王者の愛。気まぐれに降り注ぎ、その結果がどうなるかなど、考えもしない。

 夫は和泉に夢中だが、彼女は必ずしもそうではないだろう、と九の君にはわかっている。彼女には選択肢がないのだ。親王の愛を拒める立場ではない。だからといって、死んで逃れるには生んだ子どもが愛しすぎるだろう。女の身では一夜で夫の許に駆けていくこともできない。第一、色事の背後には手引きした誰かしらがいるのだ。自分の利益のために、彼女を売り渡した、身近な者が。

 けれども、殿の御為には良かったのかもしれない。

 望んで与えられた愛ではなくても、彼女の豊かな心は、為尊の空虚を満たしてくれるかもしれない。

 正室に求め、得られなかった情熱でもって。

 思いがけない結婚や関係を結んだ男女が、そのうちに本気で睦み合う例は多い。そんなことを都合よく思い描く自分の不誠実さが疚しい。

 言葉少なに俯いてしまった妻を、夫は複雑な目の色で見つめる。今、打ち捨てて戻らなかったら。二度と会わないと突きつけてやったら。

 その氷の顔は、少しは溶けてくれるだろうか。

 彼は強引に彼女を抱きすくめ、唇を奪った。

 君は、夜の月のようだ。

 冷たい光を投げかけるだけ。温まりはしない……。

「話があるのだろう」

 それでも、なお、彼女を望む。傍らに置くことを選ぶ。

「ええ……。でも、それはお帰りになってからでも」

 数ヶ月ほど前から、彼女は養子を望んでいた。彼女にとっては甥となる行成には子が多い。今も妻は妊娠中だという。生まれた子を、養子にしたい、と彼女は願っていた。

「わかっている。好きにすればいい」

 陽光の下で花が開くように妻は微笑む。まるで厳しい冬の最中、前触れもなく春の日差しが降り注ぐように。彼女は稀に咲き誇る桜木にも似た素直な一面を見せる。その表情が見たくて、彼は彼女を手放せないのかもしれない。

 彼は妻の頬を指ですっと撫でる。

「……。楽しみだよ」

 ええ、と彼女は嬉しそうに頷いた。

 夏、行成の妻は三人めとなる息子を産んだ。数年後、兄が夭逝したため次男に数えられる赤子は、宮犬と名づけられ、神無月に入って為尊の手に委ねられた。親王は富小路に自ら足を運び、小さな命を受け取った。

 幼児とも言えない宮犬は、まだ人間というよりは動物の仔のようだった。

「行成には、似ていないな」

 子どもに縁のない為尊は、不思議そうに呟いた。

「この齢では、そういうものと聞いておりますわ」

「そんなものなのか」

「そんなものなのでしょう」

 恐る恐る子に触れる夫を前にすると、九の君は自然と幸せな笑みが浮かんできた。新しい部分を知った楽しさでもある。

 男と女としては距離のある夫婦でも、子を仲立ちにした父と母なら、私たちは寄り添えるのかもしれない……。彼女はそうであることを祈っていた。一方、為尊も、おろおろしながらも一生懸命赤子の世話を焼こうとする妻に意外な発見をしていた。そういう女とは思っていなかったが、不思議と安堵できる感覚があった。

 激しい恋でなくてもいいのかもしれない。同等の想いを返してはくれなくても……。そう感じ始めていた矢先、彼は病に倒れた。

 皮肉なことに子を迎え入れた月の末から、不調を覚えるようになり、年末にかけて寝付いてしまった。為尊は宮犬を可愛がりはしたけれども、女遊びをやめようとはしなかった。巷では悪い病気が流行る気配を見せており、周囲が諌めているなかでの発病だった。

 回復したと思うほど気力を取り戻す日もあったけれど、身体を休めることが多いまま新年に入り、病状は好転しなかった。悪い腫れ物ができ、調子が良いときでも微熱が続いている。東院にいる間、九の君は一心に看病をしたけれども、夫はそれを望まなかった。医師の診立てでは伝染する病気ではないだろうということだったが、妻を通じて息子に影響するのを恐れたのである。

 僧都たちの祈祷も効果がなく、弥生の頃、為尊は二条の石井殿、三日ほど置いて家人である平文佐の中御門第に居を移した。いよいよ状態が悪い、ということだ。この移動に九の君は同行を許されなかった。代わりに行成が忙しい政務の間を縫って、状況を確認しに伺っている。

 こんなときに、お側も許されないとは……。

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