四 残映(1)

 増減はあるとしても、川の流れはそう大きく筋を変えない。酷い大雨や野分があれば、暴れ出し氾濫することもあるけれど、それは毎日起きることではない。しかし、九の君が結婚し親王室となってから数年間は、花山院の二年間と同等か、それ以上めまぐるしく世の中が変わってしまった。

 為尊親王は東三条院を出て東院で暮らすようになり、摂政・道隆は代わりに三女と敦道親王を結婚させた。為尊が確信していた通り、彼は娘たちと親王方をそれぞれ娶わせる心づもりだったのだ。番狂わせはあっても、次女を東宮に参入させ、彼の権力は磐石のものと世間はおもっていた。

 ところが、その矢先、健康を害して道隆はあっけなく亡くなった。まだ四十を少し超えたところであった。実権は兼家の三男・道兼に移る。次男は嫡流ではないという事情があったうえに、能力的にも問題があると見做されていた道綱だったからだ。彼には公卿たちに根回しをし、表向きを取り繕いながらも要所を押さえて権限を手中にするなど、とてもできない芸当だったのである。彼の母親が才女として名前の知られた藤原倫寧の娘であることを思えば、皮肉な話でもあった。道綱母が日記に憎しみも露に記した近江の方は、九の君にとっては大叔母にあたり、このときは道隆の室になっていることを知る者は少ない。彼女も、三人の摂関に次々と寵愛されるという運命に翻弄された女性であった。

 道兼からすれば、この展開は当然の褒賞といえた。兼家の一族が現在の栄光を手にしたのも、すべては花山帝退位の一幕があったおかげである。彼は帝を言いくるめて寺に導いた功労者だった。常々もっと報われていいと考え、それを隠そうともしなかった。

 しかし、その道兼をあざ笑うかのように病魔が襲った。痘瘡の流行である。十数年、あるいは数十年に一度の頻度で蔓延する痘瘡と赤斑瘡は多くの命を奪う。前回広まったときには、行成の父・義孝も亡くなっている。このときも、たくさんの公卿が命を落とし、抵抗力が高くて若く健康な者たちが残された。

 強制的に行われた世代交代の結果、権力を握ったのは、今上帝の母后を背後に控えた兼家の五男・道長だった。それまで東三条の大入道殿が末子、というだけの認識で、そう重要視されてはいなかった彼は、機会を得るとめきめきと頭角を現していった。

 時流などはわからないものである。

 人手の足りなくなった朝廷では新しい人材を必要とし、また腹心を求めていた道長の意向とも一致して、行成は源俊賢の推挙を受け、要職である蔵人頭に就任することになった。機宜を得られなかったせいで不遇だった行成ではあっても、もともと有能な人間である。真面目で誠実な性質は弁官の仕事にもあっていたらしい。同じく弁を経験した祖父・保光の薫陶の甲斐もあり、今では政務に不可欠の人物と認識されている。母后・詮子の信頼も厚く、彼女の別当も兼ねているほどだ。この出世に先だって保光が亡くなっていたことだけは、口惜しいことであった。

 反対に心の痛むこともあった。後見を失った道隆の長女・定子の立場はごく危ういものとなった。今上帝の寵愛があるほど、道長にとって彼女は脅威となる。緊張状態が続くなか、道隆の嫡男である伊周と隆家が騒動を起こした。九の君の祖父・伊尹の弟である為光は、祖母・恵子女王より二ヶ月ほど先に亡くなっている。その残された娘ふたりに伊周と花山院がそれぞれ通い始めたのである。同じ女を愛人としていると誤解したことから、些細な間違いは血生臭い乱闘へと発展した。

 為光には前妻と後妻、双方に娘がいたが、当事者となった姉妹は後妻、つまり、九の君にとっては亡き姉・二の君の遺児でもあった。姪に当たる女性たちの災難であるうえ、現場となった邸第は猪熊小路を挟んだ隣に位置している。近い身内を巻き込んだ不名誉な事件ということで心痛ひとかたならない九の君だったけれども、それで話は終わらなかった。

 道長はこの好機を逃さず、徹底的に伊周、ひいては定子の追い落としを図ったのである。道隆室である高内侍は左遷されたわが子を案じながら、失意のなか亡くなったという。これほど旗色が明確になっても定子を離そうとしない帝の振る舞いは帝王らしからぬと非難されると同時に、あまりの痛々しさに市井の涙も誘った。その定子も昨年亡くなっている。

 内裏を目前にした東院で過ごしながら、九の君は自分を通り過ぎて行った雷雲がそのまま西に向かって、女たちを苦しめているように感じた。途切れない不幸と死は、どうして自分たちばかりにやってくるのだろうと思っていた。が、それは誰にでも訪れるのだ。

 嵐のような長徳から長保に改まって二年目。彼女は長いこと、平穏な日々を送っていた。

 自らの力で順調に出世を始めた行成は、とにかく忙しい。能書としての役割もある。ろくに三条の自宅に帰ることもできないでいるけれど、親王家にはまめに顔を出していた。近々参議にも上るという話で、次第に公家としての風格が出てきている。頼もしい反面、彼女は寂しくもあった。

 それには、別の理由もあるのだろうけれど。

 九の君と為尊には、子どもができなかった。切望していた、というほどではなくても、愛らしい子の姿がないのは侘しいものだ。彼女も三十を超えた。十年近く共寝をしていて兆しすらないのだから、これからも期待はできないだろう。もっともそれは彼女のせいではなさそうだった。

 結婚して少しすると、夫は花山院の影響か、女遊びを始めた。随分と派手に女人と関係を持っているようで、世間は良くは見ていない。それでもひとりも懐妊の噂を聞かないのだから、原因は夫にありそうだった。

 世界の潮流は変わった。為尊は本流から外れつつある。尊い血に生まれつきながら、政変は彼とは無関係の場所で起きる。いっそ、源氏姓を賜って公家として生きた方が昇華できるのかもしれない。だが、その選択をするには彼の血は藤の木に絡みつかれ過ぎている。

 みなは、殿の濫行に顔を顰める。無理もないことではあるけれど、私は責める気持ちにはなれない……。

 何もできずに若いときを無為に費やさなければならない苛立ちは、優れた人物であるほどつらいものだ。九の君は、せめて自分は説教じみたことは口にするまいと決めていた。

 その日も、夕刻から出かけるといって、為尊は支度を始めた。細やかに気を使っている様子からは、それが最近執心の女人への訪いだとわかる。彼女は黙って着替えを手伝った。

 しかし、衣装を調えているとき、ふと彼の顔色が気になって手が止まる。白い……、というよりも、暗い影があるように思えた。

「ご気分はよろしいのですか」

 外出前に珍しく口を挿んで来た妻に、彼は、何故だ、と視線も合わせずに答える。

「お顔の色が、少し」

「出かけて欲しくないのなら、そう言うがいい」

 彼は不機嫌そうに彼女の顎に指をかける。急な動作に驚いて、彼女は袖を上げて彼を避けた。

「気分は上々。気になることなど、ないぞ」

「それならば……。出すぎたことを」

 彼女は身を低くして、自分の無礼を詫びた。その従順な様を、彼は険しい目つきで見下ろす。

 嫉妬なら、いいのに。

 他の女の匂いを漂わせて帰ってくる夫に、不愉快になればいいのに。

 衣についた移り香に気づかないほど無神経な女ではない。むしろ女を変える都度、風聞よりも先に悟るくらい勘はいい。それでも、彼女は彼を止めようとはしない。

 冷たい女だよ、と兄の院はいつだったか酒の席でこぼした。どれほど情を注ごうが、彼女には染み込むことなく、表面を塗らす程度で流れ消える。後には変わらぬ夜の月のような、取り澄ました顔が残るのだ、と。

 熱病のような恋が冷めてしまえば、兄の言葉が真実であったとよくわかる。天女のような女は、やはり天のもの。人界の心を解することはない。

 だが、離婚する気持ちにはどうしてもなれない。

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