三 燐光(9)

「貴女には、こうして腕を伸ばせば届きます」

 そむけた顔にかかる髪を掻きやって、彼は雲隠れした月の面を露にする。

 彼女は特別だ。

 多くの悲しみが押し寄せたのに、汚されることなく清らかで可憐だ。彼より六歳も上とはとても思えない。それでいて彼を諭そうとする思慮の深さは、相応の成熟を匂わせる。

「私は貴女を大切にします……。入道された兄上よりも」

 彼には道理を説いても無駄と悟り、彼女は誰かを呼ぼうと身をよじった。

 誰を?

 真朱を。少弐を。女房たちにはどうにもできない。また前のように行成に使いを走らせる……。いいえ、それでもどうにもできない。

 誰も私を助けることはできない。

 彼女はふっと力を抜いた。それを受け入れてくれたのだと取って、彼は嬉しそうに微笑んだ。頬から首筋へと指を滑らせる。

「貴女は、髪も、声も、肌も……。すべてが美しい」

 彼は白い胸元に口づけ彼女はそっと目を閉じた。

 少年にとっては甘いひとときが過ぎても青い情熱に突き動かされて、宮は九の君をなかなか離そうとはしなかったのだが、摂政殿に気づかれてはなりませんと言い聞かせられて渋々夜のうちに帰って行った。彼が真剣ならば、続いて二日は通ってくるはずだ。

 花山院に引き止められての長居とでも思われたのか、露見はしなかったらしい。証拠にほどなく後朝の文が届けられる。彼女は淡々と返事をしたためて送ったのち、信用できる者を使いとして三条第に向かわせるよう言いつけた。

 しかし今回は院の手配が先んじていた。彼は行成を呼び出し、為尊親王に九の君を妻としたいと願われたこと、義懐にはこの縁談についてさっそく文を送ったことを伝えていた。行成は珍しくはっきりと不快の表情を浮かべた。それを院は別の意味に取る。

「むろん私とて叔母君を日陰に置くつもりはない。宮は正室にと考えている。つまり、この東院に二品親王を婿取りするということだ」

 彼は、仰せのようにと答えるほかなかった。続いて渡殿を通り、九の君の許へ向かう。数寄者で知られる院が気にかけているおかげで東院は恵子女王が生きている頃と同じように整然とし、威容を保っている。だが、何もかもが変わってしまった。次には主をも置き直そうとしている。

 これなら祖母が身罷ったときに出家を止めるのではなかった……! 忸怩たる思いが彼のなかで渦巻いていた。

 東廂で対面した彼女は言葉を探す行成に「情けないこととお思いでしょう」と自嘲するように告げた。

「いえ……」

 責められるべきは彼の方だった。後見でありながら、嵐に翻弄され、何ひとつ良い手立てを打てずにいる。この数ヶ月、彼は自分の無力さを幾度となく思い知らされ、底に落ちたと感じたら、その次にはもっと深く突き落とされた。無間地獄とはこういう世界を言うのだろうか。

「何かをお考えとは推察しておりましたが……。まさかこのようなこと」

 ふふ、と彼女は笑う。悲しい微笑みだった。

 逃がせるものならそうしてやりたい。彼は詮無い夢想を描く。夜が来る前に彼女を飯室の叔父の寺へ逃がし、宮には鬼に食われたとでも言って……。

 できるはずもない。院と宮の対面を損ない、無意味に摂政の気分を害し……。貴族としては終わるのと同義だ。

「私は、宮様をお迎えしようと思います」

 力なく、けれども明瞭な言葉で彼女は告げた。

「院の慰みものでは世間に後ろ指さされ、果ては蔑まれることでしょう。けれど、親王室となれば、人は一目置いてくれます。後見たる貴方も公の行事や人事、さまざまな人々と出会う機会が格段に増えます」

 数年で飽きられるとしても、その時間はきっと行成様の糧になる。彼女は冷静に計算した。親王家として独立することになれば東三条院とは別に家政を持つことになる。これほど明確に摂政と訣別するのだから人材もかなりが入れ替わる。私が所有する母上からの遺産は行成様が管理するのだもの。必ずやそれなりの余禄があるでしょう。

 声にしなくても彼女の意図は彼に伝わった。

「しかし、それでは……」

「宮は、良きお方のようです」

 彼の懸念を拭い去るために彼女は優しく聞かせた。

「これが、政治というものでしょう」

 無用の身だった私が貴方の役に立つ。これほど望ましい婚姻はないでしょう。そう信じれば、つらいことなどありはしない。

 真珠君、と呼ぶ彼の声はとても微かで彼自身にも聞き取ることができなかった。

「ご出世なさって。行成様ならきっと才覚を認められる日が来ます」

 たくさんの方と知り合って多くを学べばいつか。

「私が、いますから」

 彼女はそよ風に乗せて囁いた。

 どんなときでも。どんなことになっても。

 貴方が今、こうしていてくれるように。

 三日目の夜が明けて露顕ところあらわしが行われる段になって、摂政は自分たちが出し抜かれたことを知った。花山院の肝いりで華やかに行われた宴は、在りし日の一条摂政家を彷彿とさせると縁者たちは涙した。

 院は表向き間に挟まれて困りきったという体で道隆に相談という名の事後報告をしたが、意外なことにさほどの報復は行われなかった。弥生の頃になって為尊親王から太宰帥が取り上げられ、代わりに弟の敦道親王が任ぜられた程度であった。

 若き日の摂政道隆が行成の父・義孝の親友であった昔日を覚えている者は少ない。それが壮年の政治家の心を動かしたかどうかは、定かではないが……。

 この騒動の黒幕である花山院は、ほとぼりが冷めた時期になってやってきたときと同様にふいと自身の邸第に帰ってしまった。中務とその娘を連れて行くことは忘れず、彼女の周辺から女房が少しばかり減った。

 三度みたび、東院には静かな時が流れ始める。以前と異なるのは、今や彼女が目覚めるとまだ幼さの残る夫がいて、幸せそうにその顔を覗き込んでいること。

 綺麗だ、と彼は言う。彼女は優美に微笑んで、彼の賛美を受け入れる。だが、彼女のどこかで冷酷な響きが木霊こだまする。

 そうやって褒めてくれるけれど、私はこれから枯れていくだけの、過去に咲く花。この容姿が衰えたとき……。

 あなたは私に何を見るのかしら、と。


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