三 燐光(8)
摂政の道隆も院の思惑に鈍感ではなかった。彼は豪快でさっぱりした気性であり、他人の感情もよく察した。自分の三女がふつうの男性にとっては手を焼く女であるときちんと理解していた。その上で宮には承服していただかねばなるまい、とも考えている。それが宮として生まれた者の義務なのだとも。そんな自分は兼家の反対を受けながら、高階の女を正室としたのだから勝手な言い分ではあった。
すぐにでも事を進めた方が良さそうだと、道隆は娘たちの裳着を翌月に行うこととした。彼らほどの公卿になると裳着は結婚の前段階である。すなわち、すぐに為尊と婚姻させることを意味していた。
為尊にはもう猶予がなかった。
前駆けもなく、彼が東院は北の対にやってきたのはそれほど追い詰められていたためだった。頼れる相手は兄の花山院しかいない。
弟が来るとは予想していなかった彼はいつものように中務を傍らに置いて、その身体をまさぐっていた。来訪を聞いて襟を正し下がろうとする彼女を院は押し止める。さっさと九の君に手を出すかと思っていたら、青臭くなかなか先に進まない。弟宮も愚かではないので、この選択が自分の将来を大きく揺るがすとわかっているのだ。ならば、もう一押しが必要だろうと院は結論した。
ご準備が、と引き止める女房を振り払い「礼儀などは今はいい」と院の母屋に入って来た。が、しどけない姿をした女と兄を目の当たりにして、はっと息を呑む。顰めた顔は嫌悪感ゆえだ。彼はすぐに自分の感情に気づき、目を伏せ「お取り込み中でしたか」と出て行こうとする。敢えてそれを「よい。急ぎなのだろう」と院は引き止める。
「叔母君が可哀想だと思っているのだろう」
いえ、そんなと弟宮は否定するものの、その声は力弱い。いいのだよと兄院は俯いた。
「人は良かれと思ってしたことでも、裏目に出ることがある。自分のものであっても心はどうにもできない……、乳母の娘という気安さか、私はこの中務に惹かれてしまうのだよ……。それを止めることができない」
それは仕方のないことだ。どの女を愛するのか、あらかじめ決めて生まれて来る人間はいないだろう。彼は己がそうであるがゆえに、素直に院の言葉を受け取った。
「そなたもつらい立場にあるのだろう。ああ、早くにそなたという男に気づいていたのならな……。摂政殿にこの兄が頼み込んで叔母君とそなたを娶わせたものを」
宮ははっと顔を上げた。
「私は今からでも……。九の君を妻とできたら、どれほどにか」
「それは私にはありがたいことだが……。叔母君を次の妻とすることはできないのだよ。正室の父君は機嫌を損ねるだろうし……」
あの人を妾妻にする? 少年はぞっとした。あの美しい人を手にしたとして、離れてふだんは奇行ばかりの三の君と暮らせと? 彼が欲しいのは仮初の恋ではない。身近な成就ではないのだ。あの人と手を取り合って歩く、ずっと先までの時間だ。
「いいえ」
彼ははっきりと答えた。
「私は、九の君と結婚したい。押し付けられた摂政の娘などごめんだ。気持ちが決まりました……、私は姫君を私の正室といたします。兄上はそれでよろしいか」
反対など毛頭する気はない。
「それな何よりではある……」
やっとか、と内心、快哉の気分だったが、表向きは「いや、それでは……。しかし」と悩める兄の振りをした。もっとも、恋に逸る若者は茶番など目にしていない。では、と挨拶もそこそこ九の君が休む寝殿へと足早に去っていく。
「やれやれ」
弟が消えてから院は中務に膝枕をさせて身体をうんと伸ばした。私にここまでさせたのだから、首尾よく奪ってくれよと大あくびをする。
「よろしいのでしょうか」
なんだ? 今更の忠義心か? と、彼は癪に感じて彼女の太ももをつねる。
「痛っ……。酷い方でいらっしゃる……」
そうだろうか? 愛人の非難は的外れだ。多少手順は違ったけれど、収まるところに収まったではないか。きっと、これは叔母にとっても悪くない話だ。
「姫様がお気の毒でございます……」
中務の目に浮かぶ涙は本物だった。何を陳腐なと思う反面、そういう情の深いところが味わいのある女でもある。
「うむ、確かにそうだな」
彼は人を呼び、東三条院へ「弟は遅くなるが心配するな」と伝えるよう命じておいた。せめてもの手向けだ。院にわからないように中務は息をつく。退位したとはいえ、やはり院は帝王なのだ。下々の痛みをおわかりにはならない……。それがいたわしく、また愛おしくも感じる彼女だった。
為尊の来訪は寝殿で休んでいる九の君にも伝わっていた。誰が来たのかまではわからない。物音を聞きつけた真朱が、見て参りますと母屋を離れた。院と弟宮の接近は九の君のみならず、少弐や円君など古くから仕える者たちにとっては不安材料だった。何か企みがあるに違いありませんと真朱は完全に疑ってかかっており、あまり勢いが強いので、不敬ですよと何度も母の円君に窘められている。
けれど、真朱の予想通りかもしれなかった。九の君は起き出して、念のため帳台を離れようとした。居場所を変えておこうというのである。そのとき、お許しをと悲鳴のような女房たちの諌めが聞こえ、間を置かず御簾を潜って直衣姿の男が現われた。
「姫君」
彼女は息を呑み、咄嗟に帳台の奥に隠れた。他に逃げ所がなかったからだが、それでは自ら追い込まれたようなものだった。彼は降ろされた帳の前で逡巡したけれど、それは一瞬のことだった。
「おやめください」
彼女は袿を頭からすっぽり被って男の視線を避けた。黒々とした長い髪は夜の河になって彼の足元に伸びる。
「私は院の……」
ああ、この方の心配事はやはりそれだったのだと彼は安堵の笑みを浮かべた。
「兄の承諾は得ています。貴女の今後を私に託してくださると」
なんてこと。彼女は恥辱に震えた。血縁者でも物のように受け渡しをする。帝の血を受けた者とはこれほどに残酷なものなのだろうか。
彼女は心を抑えた。
「御身を大切にお考えください。院のご行状は決して好意的に受け取られてはおりません。摂政殿は、御身がそのような振る舞いに加わったと知ればどれほど失望されることか。先々のご進退にも関わりましょう」
お優しい方だと彼は呟く。つらい立場にあるのに自分のことを考えてくれる。彼はそれを愛情だと感じた。
「摂政殿のことはもう良いのです……」
彼は替えの利く貴種だ。今上帝がダメなら、兄宮に。自分を失っても道隆たちには弟の敦道がいる。偽りの栄光を求めても虚しいだけ。今上帝に御子が誕生したら彼はまさしく用済みの皇子になる。
そのために貴女を諦めるなど。
「私は兄上を後見に、貴女を正式に室としたい……。初めてなのです。藤の蔓に絡め取られていた私が自ら誰かを切望するなど……。貴女も別の株に咲いた藤の花ではあるけれどそれに値するほど馨しい……」
なんて、お若い……。
彼女は肩を落とした。恋の香りに惑わされて彼は判断を誤っている。道隆を後見とすれば帝位は遠くとも彼の一生は安泰だろう。けれど、淫らな行いを続ける兄院を後ろ盾としては世間の尊崇は得られない。さらに彼女は没落した形ばかりの名家の娘である。
何より、婿を横から攫われては道隆は一条摂政家を許さないだろう。
彼女は必死に諌めた。
「どれほど高貴な方でも渇望しても手にできないものはあるのです……。すべては天がお決めになること。流れに逆らうものではありません」
「でも」
彼は袿を取り払い寝衣姿の姫君を引き寄せた。すらりとした手足はまだ少女のように瑞々しい。
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