三 燐光(7)

 火桶の脇に戻り袿を直したところで、ちょうど来客を告げる声がした。お約束でも? と訝しむ九の君に彼は「東三条の弟宮が、なにやら相談ごとがあるというのだ」ともっともらしく答え、北の対で内々に話を聞くから下がっているようにと告げた。

 肌寒い宴が終わりになって女房たちはほっとしている。けれど、二品の親王が来ているのに家主である九の君が知らない顔はできない。「せめて、ご挨拶を」と食い下がったが、気にするなと院は取り合わないまま、自分が以前から使っている者たちに中務を加えて連れていってしまった。

「何でございましょうか」

 我が物顔の院や側仕えが気にくわない真朱は鼻息も荒い。彼女は、さあと曖昧な返事をした。どうにも胸騒ぎがしている。杞憂であればいいのだけれど、と彼女は両の掌で胸を押さえた。

 院が母屋に入ると、先に通されていた弟宮はそわそわと落ち着かない様子でいる。膝の上の蝙蝠扇を閉じたり開いたりしては……。

 首尾は上々だったようだ。

「兄上、あの、さきほどの女人は」

 挨拶もそこそこに聞いてくるあたり、垣間見は成功したといえる。

「まずは一献」

 彼は酒を勧めて気を落ち着かせた。十代も半ばで男になりかけの親王は、女体は知っていても恋を知らない。兄の手引きで夜陰に紛れて簀の子で月を見上げる美女を盗み見るなど、これまでにない背徳的な行為に興奮を止められないでいた。

「そなたはどのように感じた?」

「それは……」

 彼は杯を飲み干して情熱のままに話し出す。

「あれほど美しい人は初めてです……。天女とはああいう方をいうのでしょうか。幻を目にしているのかと自分の正気を疑ったほどです」

 暗闇に浮き上がる松明と夜に流れる微かな、けれども艶やかな香、ささめきあう若い女たち……。そうした院の演出あってのことだ。彼が画策した以上に少年には効果的に働いた。

 兄の院は満足そうに頷き、それから物憂げにゆっくりと首を振った。

「私は、あの方の先々が心配でね……。そなたも聞き及んでいるだろうが、とても不幸の多い、お気の毒な叔母君なのだ」

 それは掛け値のない事実だ。ただ、最後の不幸をもたらしたのは他ならぬ花山院だった。

「良かれと私なりに願って庇護する気持ちで、自分のものにしたのだけれど、どうにも心が通じ合わなくてね……。私の想いはあくまで、兄のような、弟のようなもの。叔母上には守ってくださる、立派な男が相応しかったのだなと後悔しているのだよ」

 男女の関係を口にしたとき、弟宮の瞳が鈍く光った。嫉妬の輝きだ。これはますますいい、と院は内心ほくそ笑む。そなたはどう思うと水を向けた。

「それは……。兄上はご出家の身ですし、お気持ちはわかりますが……」

「私の苦しい胸のうちをわかってくれるか」

 彼は目尻を拭う素振りをし、さらに酒を勧める。

「まこと浅慮であった。先にそなたのようにしっかりした考えの者に意見を聞くのだったよ。さすれば今このように思い悩むこともなかっただろうにな」

 弟宮は兄に褒められ、ほんのり頬を紅潮させている。

「叔母君を任せられるような者がいればいいのだが」

 ため息と一緒にこぼすと、少年は口を開いて何かを言おうとしたのだけれども、きゅっと唇を引き結んで飲み込んだ。そう、彼は人の不幸に同情している場合ではないのだ。

「それは他人ごとではありません……」

 意を決して彼は兄に相談ごとを話し始めた。ほう、どうかしたのか、と意外なふうを装って院は身を乗り出した。が、彼の周辺ではすでによく広まっている内容であった。

 摂政の道隆には、今上帝に差し上げた長女のほかに三人の娘がいる。長女が為尊と同じ年の生まれであるから、みなこれから年頃を迎えることになる。父に倣い、帝の外祖父になることを願う摂政が娘たちを東宮以下の皇子たちに娘をそれぞれ娶わせようと考えるのは当然のことであった。権力者を舅に持つのは親王にとって悪い話ではない。皇子とは名ばかりで相応しい生活に困るような親族もいないではないのだ。しかし、問題はその相手だった。

「東宮はよろしいでしょう。二の君は華やかで人の心をも明るくする女人です」

 祖父の兼家、続いて伯父の道隆に養育された彼は、従姉妹にあたる少女たちについて詳しく聞いている。直接顔を合わせたのは幼いうちの数回でしかないが、出入りする者たちが共通しているので情報は他所の姫君の噂よりずっと豊富で正確だった。

「しかし三の君は……」

 宮は眉を寄せて表情を曇らせた。さきほど目にした九の君を思い出して余計に気が滅入る。

 たとえ帝位に就いたとしても好きな女を自由に侍らせることができるわけではない。夜を共にすべき女は自ずと決まってしまう。彼はそういう責務を負った一族の許に生まれた。納得しているはずだったが、その現実が近づいてくるとどうにも鬱々として気持ちが萎えていく。

 道隆の三女はごく小さい頃から奇矯な行動の多い娘だった。女のくせに東三条院の池に飛び込んだり、大人びた口調で父親に仕える者をやり込めたりしていた。姫だからといって初めからたおやかな娘とは限らない。それでも大抵は十を超えると落ち着いて女性らしく変わっていく。三の君はそれを丸ごと拒絶しているかのようだった。

 年齢順で考えれば、道隆は三の君を為尊親王と予定しているはずだった。そう仄めかされてもいる。

「いくら見た目が美しくても心がそうも乱れているようではね……」

 彼は大きくため息をつく。

 どうせ摂政家は私よりも弟の敦道をより頼もしく思っている。

 単純に相手が気に入らないというのでは済まない、複雑な心境も加味されていた。亡き兼家はふたりの皇子のうち下の宮をより可愛がっていた。それには成長につれ、彼が花山院と面差しが似てきたという理由がある。彼に見つめられると、過去の悪行を問われているような感じがして兼家は居心地が悪かったのだ。もとより為尊には無関係な事情である。

 気の毒なことだとその点には院も同情した。

「ままならぬことも多いのが世の道理とか。私はしばらくはこの東院にいる。息抜きに訪れるがよい」

 彼がそう慰めた。

「身内を亡くして叔母君も気を落としている。よい気晴らしになるだろうからね」

 九の君が、と宮は嬉しそうに頷いた。まあ、今日のところはこのくらいでいいだろう、と院は頃合を見て切り上げ早いうちに弟宮を送り返した。

 何回かはこちらから水を向けなければならないだろうかと院は考えていたのだったが、その心配もなく為尊はそれから足繁く東院に通うようになった。ときには宿泊していくこともある。名目は兄に会いたいとしていたものの、訪問のたび九の君に何かしらの手土産を持参していた。

 菅公の愛した梅を分けて育てたという枝に文を結びつけて送られたときは、色事のようだわ、と彼女は当惑した。院は無責任に「手習いと思って返事をしてやりなさい」などと放置する。

 隠す気もないらしいまっすぐな愛情は可愛らしくさえある。けれども、彼女はこれ以上ややこしい状態になるのは避けたかった。院は中務のみならず、中務が生んだ少女まで寝所に引き込んでいる。市井の人々に院のけしからぬ行いがどう映っているのか、想像するだに胸が苦しい。

 飯室の義懐にまで届いているのか、案じる消息も送られてくる。三条の行成に至ってはなおのことだ。彼らの心配にも、大事ありませんと答えるほかはない。

「ご結婚をされたら、お気持ちもそちらに向くでしょう」

 少弐や円君には気持ちを落ち着けて日々を過ごすよう彼女は言い聞かせた。

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