三 燐光(6)

 院の腕のなかでも彼女は麗しいけれど凍った花さながら。乱れることがない。まるで氷柱を抱いているようなものだった。冴え渡る夜の月だと思ったけれど、この光はどうやら水面に映った影だったらしい。触れようと手を翳しても多少揺らいではすぐ取り澄ました風情に戻っていく。

 しかも彼女の頭の良さは……。

 不満を感じつつも、彼は東院で過ごす時間が長くなっている。ひとつは、行成を通じての義懐の目がうるさいからであるし、もうひとつは別に関心事ができていたせいだ。今日も彼は東院で休みながら足を揉ませているけれども、側に控える相手は九の君ではない。

「中務」

 名を呼ぶと足をさすっていた女は「はい」と素直に顔を上げたので、彼はその豊かな胸元へ手を差し込んだ。

「まあ……。お戯れを」

 口ではそう言っても、指の動きに逢わせて嬌声を漏らす。再会したときには正直、覚えていなかったけれど、肉感的な唇といい、抱き心地のよい肉付きといい、そういえば確かに乳母に似ている。

「女はそなたのように可愛げのある者がいいな」

 どうなさいましたと形のみの会話を繋げつつ、女は身体をよじらせる。するりと小袖が脱げてふっくらとした肉体が露わになった。

 九の君は、当然、仕える女房と院の関係を知っているけれど、意にも介していない。相手をしなくて済む、くらいのものだろう。

 つい先日も正月の祝いに和歌を詠じさせてみたところ、この叔母君は表情ひとつ動かさず

―― 万代もいかでか果てのなかるべき

        仏に君ははやくならなん

と、さらりと口にした。永遠に終わりがないのは自明のことで、そのうえで仏はその先を語る。聖者への道は長く険しいからこそ一日も早く成って欲しいものと、語意ではそう読める。

 が、院の振る舞いを知っていれば辛辣な意味に気づかざるを得ない。女色に耽り、気ままに暮らす花山院が悟りを得るのはいつになることか……。女房たちは面を下げ、あるいは障屏具に隠れて一斉に口元を隠していた。院は気分を害したものの、ここで責め立てるのは大人げない。せめて困らせてやろうと、侍っていた行成に「叔母君の和歌はどうだ」と水を向けてみた。

「私は父の名を汚すような無風流者ですので、なんとも」

 こちらも顔色を変えず、木で鼻を括ったような返事だ。

 頭の良い女は好きだ。だが、それは自分を笑わせる諧謔、楽しませる知恵を持った女だ。慇懃無礼に振る舞っても彼女には失うものがない。かといって自暴自棄になっているのとも異なる。

 あの女は私と自分の立ち位置、周辺の力関係を理解している。

 彼は政治のわかる女は嫌いだ。女は可愛く、色めかしければ、それでいい。

「来い」

 彼は中務を膝に乗せた。「御身を見下ろすのは、畏れ多いことでございます」と、中務は恥じらう素振りをするが、それは幾度めのことだろうか、と彼は薄く笑いを浮かべる。

「ああ。そなたは情が濃いな」

 ため息と共に彼は偽りのない本音を漏らす。そういう女がいい。あんな、空に掲げた月のような女を側に置いてもおもしろくない。今は飾りとする女は必要ないのだし。

 実のところ手を出したのは失敗だった。はずみで抱いていい関係の女ではなかった。今のうちは若僧であっても、源中納言の後見もあって、従弟の行成もやがては出世の糸口を掴むだろう。義懐の子息ふたりも数年後には元服する。あまり身内に背を向けられるのは厄介だ。ついその場の感情に流されやすいのが自分の欠点だな、と彼もわかっている。

 手折ってすぐに捨てるのでは外聞の不味さではすまされない。しかし、これ幸いと東院に縛り付けられるのもまっぴらだ。

 母屋の外で衣擦れの音がした。彼は祖母が暮らしていた北の対を勝手に使用しているのだが、日が落ちたばかりでも構わず召人と睦み合っているので旧来より東院に仕える者たちは憚って近寄らない。ならば、相当な急ぎの用だろうと考え、彼は「何だ」と問うた。

 明らかな色事の気配にまごついた様子を見せつつ、女房は「弟宮様のお使いが参ってございます。今日は何かお約束がございましたとか……」とつかえながら申し上げた。

 そういえばそうだ。院は思い出した。そんな話をしたような気がする。使いは近衛大路の本宅へ向かい、そこで不在だと聞いて探し回ったのだろう。

 花山院に同母の弟はいない。女房が言うのは、兼家の娘・超子が生んだ三人の皇子のひとりである。一番上の皇子は今上帝の東宮とされているが、残るふたりは東三条院で養育されていた。この皇子たちはどういうわけか花山院をたいそう慕っている。姉しかいない院だが、異腹とはいってもまっすぐな敬愛を捧げられて悪い気はしない。

 弟宮たちを後見する摂政・藤原道隆は兼家の嫡男で、藤原氏の氏長者でもある最大の実力者だ。未来の帝として有力な候補であるふたりの宮に花山院のような放蕩者が近づくことを快くは思っていない。まあ、彼の知ったことではないが。

 弟宮の名は為尊親王。四年前に元服を済ませ、そろそろ正室の話も出てくる年ごろだ。この正月に二品に、太宰帥に任ぜられたのはそれほど道隆の期待が高いということでもある。なにしろ今上帝は御年やっと十四。道隆の長女である中宮・定子との仲は頗る良いようだが、子の誕生にはまだまだ時間が必要だ。帝や東宮に何かがあれば次に擁立されるのは順番からいってこの皇子になる。

 しかし当人は自分の立場にひどく不満を感じているようだった。それはそうだろう。藤原氏の需要如何で簡単にすげ替えられる帝位。過去に何人もの帝が藤原氏から実権を取り戻そうとして水泡に帰した。花山院もその末席に連なる。それでも青年期に入りつつある少年は自身で自分の道を選ぶという甘い幻想に取り憑かれている。

 花山院への憧憬はそこに発していた。

 これは案外いけるかもしれない。院は口元を綻ばせた。弟の反抗心が実際はどこにあるのか、彼はよくわかっている。弟宮は決して苛烈な王者ではない。若者の動機など呆れるほど単純なことが多いのだ。

 それに、もしかしたら強引な手で帝位を追われた自分としてもちょっとした意趣返しになるかもしれない。

「悪い……、笑顔でございますこと」

 荒い息の下から中務が咎めるように呟く。そうか、と彼は女の乱れた髪を掻きやる。

「いいことを思いついたのだよ……」

 とても、面白いことを。

 院はすっかり女体を味わい尽くした後で文を持たせて使いを帰す。「明日迎えを寄越すから、その男に先導させるがよい。趣向があるのでな」と弟宮ひとりに伝えるよう念を押すのは忘れなかった。

 翌日、睦月の陽が落ちて暮れなずんだ頃、院は寝殿の南廂に座を設え、「冬の月を楽しもうぞ」と決め込んだ。雪はなくとも寒さは厳しい。幾つか置かれた火桶ではとても凌ぎきれない、と女たちは身を寄せ合う。酒が入っている院はそれほど辛くないようで壺に差した寒椿の枝を手に取っては翳しもしている。

 またいつもの酔狂だろう。少しの間付き合って、九の君は適当なところで切り上げるつもりでいた。院お気に入りの女房たちを中心に集められており、彼女たちを警戒するように真朱が主人にぴったり離れないでいる。お気に入りとはすなわちお手つきと同意だからだ。ときおり中務を睨むようにしているけれど、それはとんでもない勘違いだ。睨まれる側の女も申し訳なさそうに目を伏せている。

 東院に通うようになって院はすぐに中務を寵愛するようになった。彼の好みは熟れた色気のある女人らしい。九の君とは正反対だった。おかげで随分助かっているのだから中務が気に病む必要はない、と九の君は本気で思っている。

 御簾を上げているといっても時間もあるし、季節もあって半分のみ。腰を下ろした彼女の位置からは、空に投げかけられた柔らかな光しかわからない。冴え冴えとした冬の趣は彼女にとってむしろ好ましいのだけれど。

 叔母の目つきを見てとって、院は「さあ、もっと近くで」と彼女に指し示した。と言われてもまさか簀の子に出るわけにも行くまい。

「いえ、私はここで……。恥ずかしゅうございます」

 とってつけた言い訳など聞かぬ、と彼は彼女を抱え上げた。酔いもあってかふらつきかけたが踏みとどまり、簀の子に一歩、もう一歩足を伸ばした。

「なんて、ご無体を……」

 真朱は真っ青になっている。九の君は落ち着いて顔を袖で隠したけれど、好奇心に負けてちらり月輪を仰ぎ覗いた。

 凍った夜に蒼ざめた月がひとつ浮かんでいる。星々は遠巻きにして近づきもしない。

「唇が、白くなっている」

 院は彼女に触れて、青白い光の下まじまじと見つめた。月に棲むという仙女はあるいはこのような美形であったろうか、と彼は思った。手放すのはいかにも惜しい。

「お許し下さいませ。身体が氷のようでございます」

 ふと彼は現実に戻った。異母弟である東宮は兼家の末娘である麗景殿の尚侍を愛したが、自分に従順でありすぎるという理不尽な理由で心を離したという。東宮は、九の姫のような女なら良かったというのだろうか。背の君に合わせる心もない、可愛げのない……。

「もうよい」

 彼は彼女を戻して格子を幾つか閉じさせた。庭で燃えている松明の方を見やれば、弟宮を出迎えに行かせた近侍の男が控えている。彼は院に頷いて見せた。

 目的は達したようだ。

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