三 燐光(5)
彼には知られたくなかった。
こんな情けなく、恥ずかしいこと……。自分の身に起きたことをもっとも隠しておきたい相手が真っ先に知ってしまう。
会いたくなかった。
彼はそれ以上は足を進めず、その場に腰を下ろした。いることはわかっていた。無理にやってきたくせに彼は一言も発さない。
そこには互いを気遣う空気だけがあった。
そのうちに彼は空薫き物に気づく。院の召し物から移った匂いがあるのは苦しいだろうと、少弐がまったく違う香を炊いていた。それが御簾の端から洩れ出でて、彼の膝元までやってきている。
その細やかな気遣いは夜の無惨さを引き立てていた。彼の胸も苦しくなる。
何故、この家にばかり悪いことが起きるのか。叔母は特別な栄達を望んでなどいない。彼女が静かな毎日を何より求めているのはみな知っている。
彼は、まだいい。諦めてはいない。祖父が一瞬で失い、叔父が破れた夢に彼は挑戦もしていないのだ。彼らが不運に見舞われたように、幸運がやって来ないとも限らない。同時に虚しい足掻きであるかにも感じる。叔父のようにさっさと見切りを付けて俗世と縁を切る方が賢いのかもしれない。
その密かな願望を形にするには、光の期待が重すぎた。老骨に鞭打つように、孫ほどの公卿に混じって踏みとどまっていてくれる。その想いに答えなければと決意するほど、運命は彼らを蹂躙していく。
午前には彼は状況を把握していた。すぐにでも参りたかったが、そこは堪えた。院の振る舞いは人の口に上りやすい。早朝の帰宅も誰ぞが目にしているだろう。そこへ慌て顔の自分が東院に駆け込みでもしたら……。心ない噂を煽ってしまう。だから彼はじっと時の過ぎるのを待ち、午後になってやって来たのだ。
叔母に非はない。非はないが……。
彼は唇を噛んだ。
世間はそのような女と侮るだろう。
たまき、と彼は漏らした。
その愛称は、次々と愛する者たちを失った恵子女王が僅かに残された大切なものを呼んだ名だった。
「真珠君」
見上げれば彼はごく間近にいざり来て、その手を御簾に当てていた。竹籤で出来た面に掌の影が生じている。
兄さま。
子どもに戻りたくて彼女は密かに呼んだ。
その手に自らの手を重ねれば、きっと慰められることだろう。彼は彼女と傷を分かちあってくれている。
直接触れることはできなくても、その温かさは彼女を安らげてくれるだろう。
初めて、彼女の眼に涙が浮かぶ。
幼い日の言葉を守り、彼はここにいる。
でも、それをなんとしよう。
彼女は手を伸ばしかけ幾度も逡巡して、それから断ち切った。
彼にはどうにもできない。心を分け与えても、同じ苦痛を味わうのみ。哀しみならふたりで和らげることができる。でも、痛みは。
代償を与えられない、ただの痛みはふたりでいればいや増す。無力さに打ちのめされて、よりいっそう苦しめる。
彼女は深呼吸をした。
取り戻せない。
私は叔母なのだから。彼より年上の、親族なのだから。呪文のように、彼女は自分に言い聞かせる。
「ご足労、痛み入ります。聞き及んでいるでしょうが、起きたことは変えられません」
掠れた声も次第に滑らかになる。
「院を背の君としてお迎え致します。一夜の気まぐれとうち捨てられては、家の名折れにもなりましょう。行成様からもお働きかけを」
どのみち院は彼女にも飽きるだろう。それは長いことではない。女人と続いたことのない人物だった。それまでの体面をどうにか繕って、後は出家をしよう。その頃には彼女に反対する人もいないだろう。
口にしながらも足元から寒気が上がってきて、指先がぶるぶると震えた。おぞましいこと。これほど嘆かわしいことを、自らの意志で選び取らなければならないというのか。仮初めにでも院を夫とするなど……。
彼は、それでいいのかと問い質そうとして、愚かしさに中断した。聞くまでもないことだった。ぐっと拳を作って居ずまいを正す。
九の君の言い分はいちいち正しい。今、もっとも恐れなければならないのは明日から院が通わなくなることだ。彼は新しい花を手に入れて暫しの間は夢中になることだろうが、おそらくその終わりはさほど先ではない。
想像すると、彼は腹の底で黒く燃えるような強い感情を味わう。院が手にかけた花は一条摂政家の最後の一輪だったのだ。
「貴方には気苦労をさせますが、飯室の兄上にも文を……。よろしく手配りをお願いいたします」
はいと低く答えて、彼は叔母の前から下がった。
客観的にみれば、彼は彼女に助けられた。どれほど怒りを感じても彼が院に制裁できるわけではない。表向きをどうにかするため姫に言い含めて同様の結論に合意させるのは、本当は行成の役目だった。祖父の保光は実直で公平な人だけに、亡き妹が愛した養女がこんな目に逢って、なおも院の思し召しに従うよう言いくるめられる人間ではない。
耐えてくれと頭を下げなければならないのは、男たちの方だった。彼女はそれを彼に言い出させなかった。
彼は自分に何の力もないことが悔しかった。もし、彼が公卿でないにしろ要職に就いていたなら、院も慎重になったはずだ。院の母である懐子の実家を率いるのは今後は行成であることは間違いないからだ。いざというときに花山院を助けるのは彼になる。だが、若く、何の職にも就いていないことから、このように侮られてしまう。弱い人間は奪われるばかりで良い目など兆しもない。それもすべては負の遺産……、祖父や叔父たちが切望した夢の残骸のせいで!
彼は門に向かう道すがら、祖母の愛した庭を眺めた。新年の挨拶に、六の君の見舞いに、季節ごとの催事に、この邸第を訪問した日が、百年も昔のことのようだ。幼い日には彼は祖母が隠し育てている姫がいると聞いて、わざわざひとり忍び込んだりもしたのだ。
広々とした敷地は何か不足している印象があって、寂しげな気配を漂わせていた。その頃、将来にこんな災いが降りかかると想像できただろうか。
彼がもっと悪人であったのなら、この機会を利用することもできたかもしれない。係累の女たちは、男たちの駒だ。当然の責務として、彼女たちも育てられる。しかし、そうしてまで一体何を手にするというのだろう。一度ならず二度も栄華を掴み損ねた彼らには、それほどまでして求めるものがあるのだろうか。
真の意味で政に参加もしていない彼にわかることではなかった。
以後の彼の手際は早かった。飯室に馬を飛ばして事態を伝え、その場で院宛の書簡をしたためてもらうと、それを携えて彼は謁見を願い出た。
東宮時代から苦言を呈されてきた義懐はお互い入道した現在でも院にとって苦手な相手である。行成ひとりはどうということもないが、義懐の小言つきとなればそう無碍にもできない。釘を刺された形である。
もとより彼も九の君を召人と同じように扱うつもりはなかった。が、所詮は皇帝の思いやりである。さほど深慮があったのでもないし、先々の見通しもない。その部分を的確に突かれて、彼は苦虫を噛みつぶしたような顔をした。やれやれ、そういうところは叔父にそっくりで目端が利く。それは家臣としては美点だろうが、身内となると……。
ともあれ花山院は自らの邸宅から東院に通い始めた。世間はどうしたことかと訝しみ、また九の君の身に同情もした。
誉められた行状ではないものの、ひとまず一つ処に通い始めた院に、もっともほっとしたのは実は公卿たちだった。彼らの擁する年ごろの娘たちのなかにはやたらと高貴で美形の僧都に誘惑された者もおり、止める手だてがないだけに、次は自分の家かと冷や冷やしている父親はひとりやふたりではなかったのである。明日は我が身だったせいか、九の君を悪く言う者がいなかったことはせめてもの慰めだった。身内で始末をつけてくれるなら、それに越したことはない。
などと、万事が丸く収まったと安堵しているのは周囲だけで、花山院はというと日に日に不満を募らせていた。
確かに九の叔母君は美しい。教養も、機知も申し分ない。何をさせてもソツがないし、初めての夜以降は小娘のように狼狽えることもなかった。
しかし、手応えがない。
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