三 燐光(4)

 彼女の背中を悪寒が走った。誰か……。誰か。

 助けて。

「何をなさいます……」

 それを問うのか、今さらと彼は笑いを噛み殺した。この叔母は二十歳を超えたところと記憶している。それにしては幼い反応ではないか。

 祖母上が宝珠のように大切にして手放さなかったというのは本当だな。上流ではあっても浮ついた姫のような男女の間違いひとつもなかったのか。

 その清らかさは彼にとって新鮮だった。いや、懐かしいというべきか。在位時代、公卿たちに差し出させた女御にもそういう風情の者はいた。もちろん、そのときは彼の好色ゆえの気まぐれからではなかったが。

 では、それなりに手順を踏むとしよう。

 彼は手元まで流れ来る黒髪を数条取って口付けた。

「そなたは知らされていないだろうが、入道中納言には内々に入内の話も進めさせてもいたのだよ」

 嘘だわと彼女は思った。兄上から聞いたことはない。それに母が許すわけ、ない。

 嫌な汗がじんわり湧いて出る。

 彼は、じりと距離をつめた。

「私は味方の少ない帝だったからね……。身近に、近しい血の者がいて欲しかったのだよ……。そのような女人をどれほど恋しく思ったことか」

 詭弁だ。

 彼女は目を見開いた。

 この人はたまたま見た珍しい花を気晴らしに手折ろうとしている。私の外見に興をそそられた。それだけ。

 この言葉は偽り。どんな飾り立てようと偽物だわ。

 いや……!

 彼女は、心の底から思った。

 誠意のある男君であってもいやなのに、こんな真のない人は余計にいや。

「そなたも母を失って、寂しくつらい思いをしていることだろう……?」

 いいえ!

 彼女は否定したかった。

 それは貴方では埋められない……!

「おやめ、ください」

 気をつけなくてはいけないよ……。

 いつかの、行成の声が脳裏に甦った。彼の言う通りだった。裏切りは親切の仮面を被ってやってくるのだ。

 女は恐怖にかられて首を振る。一心に拒絶する、その風情すら可憐と院は感じた。

 この自分がここまで言を尽くしたのだ。充分だろう。

 彼は彼女の袿を引き寄せ、女の身体を自らの手中とした。血の気のない唇……。今は硬い蕾も、彼によっていっそう華やかに色づくだろう。そうやって少女を脱ぎ去っていく女たちを何例も見てきた。

「いや……!」

 彼女は悲鳴を上げた。

 助けて……! 助けて助けて助けて……、誰か……。

 ただひとり彼女が頼れる人の名を呼びそうになって、彼女は声を押し殺した。

 だめ!

 名前を口にしては……。

 院の耳に届いたらどんな誤解を受けるかしれない。兄だとは院は知らない。彼女は唐突に気づいた。真朱は彼を連れてきただろうか。

 もう間に合わない。

 首筋を這う男の口跡を感じながら、彼女は心を殺そうと努める。

 もう止めることはできない。行成様が着いていたとしても……。それなら来ない方がいい。

 来ないで……! 兄さま、来ないで……。

 敢えて幼く彼を想いながら、九の君はふっと力を解いた。院は彼女が受け容れる気になったのだと満足して、ゆっくりと彼女の帯を解き始めた。

 夜は、ときに残酷なほど長すぎる。

 彼女にとって悪夢そのものの夜はようやく明けた。太陽が昇る前、傲慢な元帝王は帰っていった。彼女は疲れ切った身体を起こして乳母子の真朱を呼ぶ。しかし、やってきたのは乳母の円君の方だった。

 真朱には耐えられなかったのだ。愛する主が蹂躙される時間、続きの間でただ待つことに。円君は湧かした湯を用意させており、ひとりきりで一言も喋らず九の君の身体を清めた。赤くなった背中に布を当てたとき、掴まれた指の跡が痛んで彼女はびくと身体を反応させた。円君の手が止まる。

 ぽたり。

 生暖かい雫が肩にかかった。

「申し訳ございません」

 ごまかそうとした声に涙が混じって、逆に乳母の痛みが伝わった。彼女は背を向けたまま円君の手をきゅっと握った。

 私、泣いていない。

 厭わしくて、汚らわしくて、死んでしまいたい。時を戻せるなら何でもするでしょう。でも、泣いてはいない。

 落ちぶれる、とはこういうことなのかしら。

 ぼんやりと考えた。支えを失い、保護をなくした弱者を寄ってたかって食らい尽くす。大切に守られた娘ほど無惨に散らされ、戯れ事に費やされる。

 真っ先に手をかけたのが近い血の方なんて……。

 予め注意は受けていてもそこまでは考えは及ばなかった。しかも、絶対に止めることのできない方。

 そうだ、院を制止できる者はどこにもいなかった。これは避けられない破滅だったのだ。

 寝具を一新して新しい衣に袖を通しても、彼女は自分がきれいになった気がしなかった。これから何が起きるのだろう。どうなるのだろうと、憂う心の動きまで煩わしい。壊すなら自分の器ごと打ち砕いてくれたらよかったのに。

 日が高くなる前に院から文が届いた。

 後朝、ということだろうか。彼女は泣きたくても涙も出はしなかった。返さなければどうだろうかと、ふと思う。返さなくてもこれより悪いことは起きそうにもなかった。

 一睡もしていないのに、眠気は一向に訪れない。彼女の神経は焼き付いてしまったようだった。壊れた玩具が間の抜けた動きをするように、彼女も脇息にもたれて一点を見つめ身じろぎもしない。

 女房たちはみな主に気づかれないように目頭を押さえている。院の退位からこちら側に仕えているのは気心の知れた者たちばかりだった。

 正午を過ぎた頃、目を真っ赤に泣きはらした真朱がおずおずと九の君近くに侍っている少弐の前にやってきた。行成が来たというのだ。

 昨夜、真朱は九の君に命じられた通り、人をやって彼に知らせようとした。が、彼女の行く先には院が連れてきた女房がいて、使いを呼ぶこともできなかった。それでも諦めずその場を下がるふりをして、自ら抜け出そうともした。しかし、院の警護を名目とした男たちが階近くを警戒しており、彼女にはとても突破できなかったのだ。彼女は誰より責を感じていた。

 結局は真朱が采配したのではないが、気の利いた者がいて桃園に事態を教えた。しかし、行成は三条の泰清邸に婿取りされており、折悪く昨日はそちらに滞在していた。朝になってやっと事情を伝えられたのである。

「せっかくだけれど、行成様にはお帰りいただたく方がいいでしょう」

 九の君に聞きもしなかった少弐だったが、真朱も同意見だった。姫君は到底お会いできる状態ではない。このうえ苦痛を強いるのは残酷すぎた。

 それにいらっしゃったのは行成様とあっては。

 一番会いたくない相手だろうと真朱は彼女の心中を思いやった。

 ところが、彼も他人の答えを待ちはしなかった。真朱が戻る前に階の方で騒ぐ声がし、急ぎ足の行成が女房の制止も聞かずに入ってきていた。

 ふたりは驚き、九の君に気づかれないようにそっと簀の子の方まで出て、彼を押し留めようと立ちはだかった。

「お察しくださいませ。姫様はお苦しみでございます」

「おまえたちもそうやって邪魔をするのか」

 苛ついて彼はふたりをはね除けた。

「だからこそ参ったのだろう。こういうときだから」

 責任感があって、お優しい行成様。真朱は腫れた瞼を熱くした。それゆえに、姫様はお会いしたくないのですと伝えても、彼の耳には届かない。ふたりを振りほどいて彼は奥へと進む。はらはらしながら見守っていた女房のひとりが、止める手だてはないと見て慌てて姫君に合図する。

 彼女も騒ぎには気づいていた。もしかして、行成様だろうかと思い悩み、そうでないといいと願ったが他に来るべき者はいない。彼女ははっと面をあげ、帳台の仲に逃げてしまおうかと身体を浮かせた。

 会いたくない。

 叔母上は、と行成が問うている。いることはわかっていて聞いているのだ。お加減が悪くてと歯切れ悪く、女房が返している。時間稼ぎだ。

「いらっしゃるでしょう」

 言葉は女房に、けれども、声は御簾の向こうにいる彼女の背を掴まえるがごとく彼ははっきりと言い切った。これほど近くては衣擦れの音もごまかせないだろう。

 彼女は腰を下ろして御簾越しであるというのに袖で顔を覆った。

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