三 燐光(3)
東院は何度目かの喪に包まれる。建物自体が喪で飾られることに慣れたかのようでもあった。
現実と向き合わざるを得ない男たちは初七日が過ぎると、今後の話をしはじめていた。問題は九の君が相続することになる資産の管理だったが、要はそれは誰が後見をするのか、という話である。一番近い身内は行成になるけれど、若すぎるというので保光と義懐はいい顔をしなかった。では、喪が明けたら誰かと結婚をするのかといえば、それは本人が嫌だという。何ならいいのかと九の君に希望を聞けば、「出家して両親の菩提を弔いたい」と答えるのだから話にならない。冷静なようでいて、九の君の心はやはり凍り付いていたらしい。前に進むための話になると頑なになってしまい、その調子だった。さすがにそれはと周囲は難色を示す。
「そうやって、私ひとりを現世に残すおつもりですか」
話し合いの場で憮然として行成は抗議した。ふだん感情を露わにしない男の強い語気には、押さえ込んでいた鬱憤が含まれているようでもあった。彼にそう言われると九の君は弱い。貴方はご結婚もされているでしょう……、と力なく言い訳した。
「その点は私にも耳の痛いことだ」
義懐も、若干気まずそうに言葉を差した。「叔父上のご決断に不服があるのでは」と行成は弁解したけれど、彼が甥に重荷を背負わせてしまったのは事実だ。こうなると、母も生前に婚姻を進めておいてくれればと悔やまれてならない。とても亡き人を責めることはできないが、そうすべきではあった。
兄上と伯父上たちは私たちが兄妹であると知っているので、誤解を招くような後見、実質婚姻と見做されるような関係はは避けようと考えていらっしゃるのだろう。
いつかの懸念は現実となった。名目が実を持って過ちでも起きれば……。起きるだけならまだしも、その事実が洩れ伝われば。
そんな心配は要らないのに。
だって私はわかっている。
最終的な結論を出せないまま、義懐は飯室に帰っていった。が、先は見えている。つまるところ、後見になりうるのは行成しかいない。保光の助けを借りて彼女の資産を管理していく。後は周囲が納得するかどうかで、それはこれから交わされるであろう一月二月ほどの文によって構えられるだろう。ほかに術はない。
出家を認めてもらうのはそれからでいいわ……。
彼女は決めていた。両親にも、養い親にも先立たれた。自分には現世での愛や恋は、とても遠い。遠すぎて幻のようにしか感じられない。それは前世から定まっていたことなのだろう。
それならばよき来世を願って、母のため、兄のため、血族のために祈りを捧げたい。自分たち一族に課せられた罪業があるのなら、それを少しでも取り除きたい。あまりにも悲しい出来事が多すぎる。
彼女は真剣だった。時間を掛ければ、行成も了承してくれるだろうと信じている。
つい先頃まで夏の日差しが混ざっていたのに、はや肌寒い風が吹くようになっていた。身辺も落ち着き始め、悲しみは重苦しくもひそやかに身体の奥へと沈みつつある。
四十九日も過ぎようという時分に、花山院のお見舞いだという前駈けがやってきた。車まで来るというので何かしらの品であろうかと考えていたら、夕刻を随分過ぎて到着したのは牛車で乗っていたのは院本人であった。
またいつぞやのようにふらりと立ち寄ったということだった。困った御方だわ、と内心九の君は困惑した。立場上は断ることなどできない。しかし、女性関係には芳しい噂のない人であるから、そう油断もできない。僧籍であるという意識のない人だ。
ちょうど院の乳母をしていた女の娘・中務が数年前から女房として仕えている。彼女は少弐を呼んで中務に案内させるよう伝え、距離を取って几帳を立てるよう迎える場所の采配もした。そうしながらも真朱に「行成様に来ていただくよう、使いを」と耳打ちする。
院は我が家であるかのようにくつろいでいた。先に中務に話し相手をさせていたせいかもしれない。院は乳母の娘と聞くや、「そういえば東宮だった時代に見かけたかもしれぬ」と調子のよいことを言っている。実際に女童として仕えた時期もあるようだが、彼の関心が子を生んだ女の熟した色香にあるのは明らかだった。
ひとしきり歓談したところを見計らい、彼女は遅れて入った。「まだ一同喪服も脱いでおりませぬゆえ、行き届かぬところがございます。姫君も風病の気がございまして、私めの口上にて失礼いたします」と少弐に申し上げさせる。
ふうん、と彼は値踏みするように几帳の佳人を見やった。先日、祖母の見舞いに来たときはこんなに他人行儀ではなかったが、あれは非常事態ゆえということか。
「お気になさるな。叔母君と私の仲ではないか」
「恐れ入ります」
姫君は声を発さない。どうしても、その態度を崩す気はないらしい。一度は帝に就いた自分に対していい度胸だと、彼は逆に面白く感じた。
「祖母上がそなたのことを案じておったことが、どうにも気がかりでな。まだ独り身とあっては心細いことも多かろう」
「それもありまして、近々、飯室の兄君を頼りに尼になるご予定でございます」
院は眉をぴくりと動かした。病床の祖母上とともに目にしたのみではあったが、大層な美形であった。それはあまりにも惜しいというもの。
やはり咲いた花に気づいた以上、放っておく手はないだろう。
院は扇を閉じて引き連れてきた者に合図をし、彼らは目配せして簀の子に下がった。
いけない。九の君は直感した。院はまた気まぐれを起こされている。まだ、真朱は戻らないの? 行成様はいらっしゃらないの? 彼女はちらりと少弐を見上げた。彼女も気づいていて瞼を伏せる。
「失礼ながらやはり姫様はご気分が優れないようでございます。尊い御身に何かあっては」
わざとらしい言い訳であろうと退出するが良いと判断したのだが、それを院は好機と捉えた。さっと立ち上がると、「それはいけない。この甥子が叔母君をお連れ申そうぞ」とつかつかと彼女の几帳に近寄った。
「とんでもございません」
少弐たちは慌てて九の君を背に匿った。人を呼ぼうと辺りを見回したけれど、男手は影すら消え失せていた。いつのまにか人払いがされている。あるいは、分が悪いことを悟って身を潜めたか……。それも院相手では、無理からぬことではある。
「姫様」
「何を遠慮することがあろうか」
女房たちの抵抗も、いかほどのものがあろう。法衣の院は女たちを掻き分けると、濃い喪服に身を包んだ九の君を見つけ出し、ひょいと抱き上げた。
「さて姫の寝所はいずこか」
「おやめくださいませ!」
女房たちは必死に引き止めようとするが、そんな嘆願を聞く彼ではない。院の問いに返さないとは、よくよく見上げた忠義心だ。それに免じて彼は叱責をやめておいた。どのみち予想はつく。幾度か訪ねたことのある館であった。さては寝殿のあちらかとアタリをつけて、足を進める。
力強い男に抱えられ、彼女は全身を強ばらせ震えていた。その怯えは彼には捉えた小鳥のように可愛らしく感じる。
「なんと愛おしいことだ」
自らの褥に横たえられ、ごく間近に院の吐息があった。九の君はぞっとして身を起こす。素早く帳台の柱を背にしてできるだけ彼から離れた。それにも限りがある。
隠す袖をぐいと引かれ、ぼんやりとした灯りのなか顔を露わに晒されてしまった。
「……、おやめくださいませ……」
どうにか出した声は掠れている。
「やはりな。麗しい花であったか」
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