三 燐光(2)

「母の病状をお伝えするために文をお送りはしています。けれど、本来はそう簡単にお目にかかれる方ではないのですし、母の様子ではこちらからお伺いすることも適いません」

 命のあるうちにお会いになれるかどうか、までは彼女も口にしなかった。言わずとも共通して案じている。

「叔父上に私からもご相談申し上げましょう」

 行成に出来ることはその程度だったが、ひとり心を悩ましている九の君にとってはほっとする返事だった。どのみち無理な願いではあるだろう。ふたりとも暗黙のうちにそう思っていた。

 その予想は数日のうちに裏切られた。目立たない牛車を仕立て、僅かな供を連れた院が東院に突然やってきたのだった。てっきり院からのお使者かと捉えていた少弐は慌てて九の君に訪問を知らせた。

 前駆けもなく、と彼女も焦る。一方で母がどんなにか喜ぶだろうと嬉しくもあった。急ごしらえに場を用意したものの、院は着座もせずに「祖母上はどちらに。孫の院が来たと伝えよ」と言い放った。院側付きの者は少弐に「お忍びで来られたので、お時間がありませぬ」と説明していた。寺から戻られたという話も聞いていない。おそらく山から下りてそのままこちらに向かっており、責任者である院別当はにはお伝えしていないのだ、と気付いて、少弐と九の君は顔を見合わせた。急ぎ彼女たちは恵子に来訪を告げる。と、ずっと床を離れなかった彼女はよろよろと起きあがった。

「院にお会いするのに、見苦しい姿ではなりませぬ」

 しかし体面を整えるよりも早く院は祖母の部屋を見つけ出し、御簾をはね除けるように入ってきた。さっと女房たちは身を引く。少弐は何とか恵子の肩に袿を一枚かけることができた。

「不孝をお許し下さい。私も祖母上にお会いしたいと願っておりました」

「院……」

 気丈な母が幼子のように涙を零している。

「私が至らぬために、さぞかしお心を痛められたでしょう。さあ、私の手を」

 彼は支えるように彼女の背に手を回し、その細さ、肉の薄さに気づいて顔を歪めた。

「未熟ながら、日々来世のために功徳を積んでおります。祖母上のために写した経を持参しました。僧の手配も済んでおります。近々私の言いつけた者たちが祈祷に参るはずです」

 まだ若く涼やかな袈裟姿は清廉であり、人々が面白おかしく口にするような軽薄な帝とは別人のようであった。こちらが本来の彼なのかもしれない。思いがけず尊い身に近侍することになった女房たちは、「こんなにもご立派な方が……。おいたわしいこと」とそっと袖で目尻を拭っていた。

「私などにはもったいないお言葉……」

 どうにか答えた恵子の声は震え、掠れている。

「さあ、どうぞ横になられて。この小坊主がありがたいお経を読んで進ぜましょう」

 彼女は素直に横たわり、院は持参した巻物を広げて法華経を朗々と読み上げ始めた。その張りのある声はときに柔らかく、ときに優しく、まるで歌うように滑らかに厳かな音を紡いでいく。

 九の君が目にした母はこの数年でもっとも幸福な表情をしていた。彼女にとっても、またこの厳かな時間は幸せな……、悲しみに満ちてはいるけれど、確かに幸せな一瞬であった。

 数刻もせず帰って行った院の言う通り、五日と明けずに幾人もの僧都がやってきた。恵子のいる北の対の東廂に手際よく護摩壇を作ると、祈祷を始めた。その効果だろうか。それとも念願の孫の院に謁見できたおかげか。少しの間、東院の女主人は小康状態が続いた。

 だが、それも時間の問題ではあった。

 長月も末に迫った日の夕刻、急速に母の容態は悪化した。僧都は、「物の怪が強く、母君は弱っておいでです」と率直に彼女に告げる。九の君は行成を呼びはしたものの、まだ持ち直してくれるとどこかで思っていた。母が自分を置いて逝くわけがない、と。同時に保光にも使いを送ったが、彼は生憎と出仕しており自宅にはいなかった。入道の義懐は遠く飯室の宝満寺にいる。

 こんな寂しい終わり方は絶対にいけない。娘ひとりに看取られてなんて。

 誦経響くなか、取るものも取りあえずといった体で行成が到着した。鬢の毛が乱れている。彼も、病人の傍らに侍る九の君を、ちらり見やった。遮るものなしにお互いを視野に収めるのは久方ぶりだったが、今はそんな建前はどうでもいい。彼は、祖母の横たわる褥に寄り添って囁いた。

「祖母上、行成です」

 かけた声が届いたのかどうか。彼女はうっすら目を開いて、ああ、とため息のように答えた。

「来てくれたの……。貴方たち……」

「お母様」

 彼女は養い娘を見やった。乾いた唇がわななく。

「ごめんなさい……。私を許してね……」

 何の咎めがあるのだろう。娘を頭を振った。

 健やかに成長した。誰にも恥ずかしくない姫に。それがせめてもの慰め。償いだと、老女は信じてきた。それは今も同じ。彼女にできることは、ごく僅かだった。

「貴女にはつらい思いを……。千女君……」

 はっと九の君は行成と互いを見やる。母は、誰を見ている?

「母上、しっかりなさって。私よ」

 けれども、彼女の瞳には、もはや九の君は写っていなかった。心は数十年も過去、遙かな昔に飛んでいる。

 目を開けば、夢でしか会えなかったあの子たちが側にいた。四番目に生んだ息子と、夫の猶子が連れてきた彼の娘。ふたりして並んで、彼女を心配そうに見守っている。そんな光景に、彼女を何回も出会っていた。

 幾つもの季節を一緒に過ごした。ふたりは無邪気に手を繋いで現れて、大きくなったら父上と母上のような夫婦になると、そう宣言した。あの頃は、そんな可愛らしい願いも許された。彼には何人もの兄がおり、父親同士は盟友であり……、何の障害もなかった。この子たちに限っては、政治の手段ではない、優しい結びつきが認められると彼女にも思えた。

 けれど、天はそれを許さなかった。

 いいえ、裏切ったのは私たち。幼い約束を違えさせたのは……。

 彼女は帰りたかった。みなが揃っていて、浮気者だけれど、それでも愛おしい夫がいた、あの桃園に。

 何者も欠けることなく顔を揃え、明るい未来があった、あの時間に。

 帰りたい。

 帰りましょう。

「お母様」

 一緒にいらして。

 そう呼ばれた気がした。彼女を置いて逝ってしまった娘たち、一人ひとりの気配があった。帝に差し上げた長女、義弟の後妻に入った次女、婿取りすることなく初雪のように失われた六女。今、彼女たちは母の周囲にいる。いや、最初からいたのかもしれない。その時になるまで待っていてくれたと彼女は思った。

 ええ、ともに行きましょう。

 笑い声が絶えなかった、あの園へ。

 夜空の星を水盆に映しては遊んだ、家族の元へと。

「亡くなられた……」

 突きつけるように行成が言い放つ。九の君は「いいえ、いいえ!」と強く否定して母に取りすがった。

「母上、私を置いていかないで……」

 まだ温かい。死んだなんて信じられない。九の君は、「私を見て」と繰り返し母に呼びかける。

「亡くなられたんだよ!」

 何に憤っているのか、おそらくわからないまま、彼は荒々しく彼女を引き離した。

「兄さま……」

 九の君の頬から大粒の雫が落ちる。

「泣かないで」

 彼はそっと彼女の肩を抱いた。本当に、もうふたりきりだ。他に誰もいなくなってしまった。

 大丈夫、と彼は言った。

「私がいるよ」

 いるから。彼は自分に言い聞かせるように呟いた。

 葬送は滞りなく進んだ。

 そうはなりたくないのだけれど、近しい人を見送ることに彼らは慣れてしまっている。皮肉なものだった。悲しみとは別に、淡々とすべきことをする方法を覚えてしまっていた。

 訃報を知ってすぐに保光が、続いて恵子女王の長兄になる重光がやってきた。飯室にいる義懐も駆けつける。

 齢六十八。そう聞けば短い寿命ではない。多くの子を儲け、孫にも恵まれた。ひとりは短いとはいえ帝の地位にも就いた。准后としての待遇も得られた。

 でも……。

 満たされていた、とは九の君にはどうしても思えなかった。得た分をすっかり失ってしまい、残されたのは奪われた悲痛のみ。そんな印象がある。

 では不幸だったのか、と問われたら。

 彼女には母の一生を評価する資格はない。

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