三 燐光(1)

 五年ほどの時が流れていった。彼女の人生に現れた甥の帝― 今は花山院という― の御世は、本当に夢だったかのようだ。喧噪から離れて本来の姿に戻り、彼女は静かに東院で暮らしていた。

 この年月の間に起きた変化といえば、伊尹の九の君である少女は裳着を済ませて一応大人の仲間入りをしたということ、父から一字もらって尹子ただこと名を変えたこと……。もとから母の恵子は彼女を結婚させる気はなかったのだけれど、寿命の先を感じるようになって娘を子どものままにしておくこともできないと考えたらしい。最近では気弱になったのか、縁談を仄めかすこともある。しかし、彼女にはそんな気は毛頭ない。せっかくの名付けも、その名前で呼ぶ男君は現れない、と彼女は決めていた。

「ずっと母上のお側にいさせてくださいね」

 そうお願いすると恵子もそれ以上無理には勧めないでいる。娘を思えば良縁を求めるべきだ。が、老いが彼女の冷静な判断力を曇らせている。

 先年のこと、異父のもとにいた幼い妹が死んだ。

 この子とも、ついぞ会う機会はなかった。顔も声も知らないままで、親族と永遠に別れなければならないなんて、前世での縁は相当に薄いものだったのだろう。今さら悲しいとも感じなかった。ふと、そんな自分は冷酷だろうかと不安にもなる。

 時期を問わず、屋敷のなかは常にひんやりした冷たい風が吹いているように思えた。

 他の季節を知らないから。

 一条摂政家には、ずっと冬が続いている。彼女かつてそうと知らなかった。小春日というには狂いすぎた陽気の一日のせいで、自覚させられた。ただし、己を知るという意味では偽りの春もよかったのかもしれない。

 真朱がやってきて、行成の来訪を告げる。病み付いている祖母の見舞いであった。

 彼も、また元服直後の不遇時代に逆戻りだ。もっとも、若すぎたせいもあり、出世の恩恵を受けたわけではなかったので先代の負債として居づらい思いをしなくて済んではいた。とはいっても、職に恵まれないのはありがたいことではない。

 考えれば、すぐに引退した兄・義懐の決断は間違っていなかったかもしれない。もっとも入道した兄はそれで良いとして残された彼らにとっては苦労ばかりが残される。

 その矢面に立たされているのが、行成だった。

 几帳を挟んで、ふたりは対面した。

「梨をお持ちしたので、お祖母様のお加減がよろしいときにでも」

 九の君は礼を述べて、奥方のご実家からかしら、と思った。二年ほど前に行成も結婚を済ませた。舅は有明親王の子息で、播磨守に任じられ現在は左京大夫を勤めている源泰清。辛うじて公卿ではあるが、勢いのある公家とは到底言えない。正直なところ、一条摂政の嫡流としては見劣りのする相手だ。この縁組みは、祖父・保光と泰清が従兄弟同士であることから出たものらしい。恵子は相談を受けたらしいが、九の君は聞かされていなかった。それも、叔母という関係であれば致し方ない。

「ご正室はよく出来た女性のようですね」

 助かっています、と彼は頷いた。

「孟光の妻というのは、彼女のような女を言うのでしょうね」

 まあ、と九の君は呆れる。

「そのような口を利かれて……。いくら優れた妻の例えでも、孟光を挙げるのはいかがでしょう」

 成長するにつれ、彼は言い回しに飾り気をつけなくなっていった。生まれる前から辛酸を舐めさせられたから、形だけの誉め言葉や美しさなど意味がないと思っているのかもしれなかった。だとすれば彼女もわからないではない。

 だが、女心に疎いにもほどがある。

「なあに。容色などいつかは衰えます。外見には一時の価値しかありません。却って私は、妻が醜女しこめではないにしろ、美形ではないことに安堵するくらいです」

 表面のみを飾り立てるのは詭弁を弄するのと変わらない。そうせざるを得ない公家の世界に身を置くからこそ、行成はどこかで拒絶したくもなるのだろう。だが、父親譲りの外見を持つ彼がそれを言っては女にとって嫌味でしかない。

「それでは、ご正室は貴方には何をもって安堵されたらよいのかしら」

 彼はますます父・義孝に似てきていると、古参の女房たちからの評価だ。からかうように彼女は指摘した。彼は心外なと憤る振りをする。

「私ほど真面目な男はいませんよ。何しろ妻ひとりを守っている奇特な人間ですから。妻には心配の種というものがありません」

 よくおっしゃいますことと彼女は笑った。公家の習いとして、そんなはずもないだろうに。

「だから……、貴女のような方は今のうちにどこかで手を打っておくべきです」

 真面目な声色になって彼は続けた。その話はしたくなかった。彼女は、そうですわねと受け流す。

「盛りを過ぎた花が萎んでいく様は本当に見苦しいものですものね。そうなったら、今よりもっと人は見向きもしなくなるでしょう。むしろ早くそうなってくれたらよいのですが」

 老いさらばえてしまえばいいわ。彼女は本気で願っていた。失墜した九条流の本家であっても、だからこそ、手に入る花になったと考える者もいる。彼女自身には何の力もなくても伊尹の残した不動産も、やがては恵子の資産も全部彼女のものになる。今は病に臥せってはいても存命中ではあるし、兄の源保光中納言が妹を助けている。けれど、恵子が亡くなった後は必ず代替わりをする。九の君に夫はいないし、もっとも近い身内の兄は出家している。貴賓の姫君たちが心ならずも身を落とす例を彼女も聞いていた。

「甥としては困りますね。第一そうなったら……、貴女の価値がわかる者など、私くらいです」

「それは……。ありがたいことですわね」

 ふっと彼女は微笑んだ。彼の気配も緩む。

 順当に考えれば、父と母のものは行成様が管理すべきだわ。彼女の心は決まっている。だが、それを決定するるのは入道とはいえ、兄の義懐だ。本当は行成との間で話を進めてしまいたかったけれど、下手に後見を持ちかければ周囲は異なる意味に取ることもある。叔母と甥の結婚は珍しくはない。叔母と甥、なら。

 本当の兄妹なのだもの。

 行成はともかく、恵子、義懐、保光は事情を知っている。その選択はないだろう。形式のみの婚姻で後見を得ることもあるのだから彼女はそれでも構わないけれど。

 果たしてご存じなのかどうか……。

 問題は行成自身が聞かされているかということだった。恵子は九の君に隠し通していると信じているのだから孫息子にも黙っているに違いない。

 先のことは先に考えよう。今は、母上のことを優先したい。自分の身ひとつ、どうにでもなるだろう。

「それで、お祖母様は」

 彼女は眉を顰めた。よろしくはない。夏の暑さが応えたようだった。秋風が吹き出してから、やっと調子が戻ってきたように見ていた。

「ここ二、三日はまだよいのですが……。御孫の院にお会いしたいと、幾度か口にしています」

「それは……」

 彼も難しい表情をした。院はしばらく前から山に入られた。仏道修行はしっかりとやっているようで、ときおり降りてくる僧都たちは誉めることしきりだ。とはいえ、彼の山ごもりは夏の日差しを避けてのことだろうが。

「そうですね……。近衛大路のご自宅に戻られてもよい頃ではありますが」

 何しろ気まぐれなお方だ。

 騙し討ちのように退位に追いやられた院は、思うところがあったのか、しばらくは「本気で仏道を究めるおつもりか」と周囲が信じかけたくらい修業に邁進した。元来、集中力もあって理解力も高い。頭脳はよく回る人物である。

 しかし、すぐに飽きてしまった。何事にも優れた人にはありがちな話ではある。一定以上できるようになるとすぐに目移りしてしまうのだ。髪を剃ったにも関わらず女性への興味も取り戻してしまい、身分が身分だけに制止もできずに周囲は困っているということだった。前例がなければ諫めの言葉にも説得力があるけれど、何しろ宇多院という先駆者がいる。花山院は、どうせ政から切り離されたのなら文雅や遊蕩に戯れても別に構わないのだと気づいたらしい。

 そんな院でも恵子には可愛い孫である。

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