二 光芒(7)
「そうかもしれないけれど。私たちは私たちで、生きていかなければならないからね」
どうしたのだろう。彼の態度に違和感を覚える。帝の周辺で緊張が高まっていることは察していた。帝と貴族随一の実力者との間は相変わらずうまくいっていない。兄・義懐のやり方が急進的なせいで中堅以上の貴族たちに不満を持たれているとも聞いている。その心労もあって恵子の体調はここのところ優れない。
ひとまず渡しておくよ、と彼は床の上をすっと滑らせて几帳の下に箱を入り込ませる。それなら私がと真朱が動きかけたが、九の君はそれを制した。他人の手を介さない方がよいものだ。
蓋のついた黒塗りの箱は艶やかで上等な品物だった。たかが紙切れ。それでも実母には特別なものだった。その複数枚の書を大切にしまっていたのだろう。
両手を伸ばして受け取るときまだ行成の指がそこにあった。一瞬指先が触り、彼は彼女の袖口を軽く掴んでからそっと離した。真朱は見ないふりをしている。
「お気をつけなさって」
さきほどまで彼が懐に抱いていた箱を胸に抱えながら、彼女は柔らかく微笑んだ。
「貴方のために祈っています」
それは嘘ではなかった。近頃、彼女は時間を見つけては経文を読むようになっている。
本当よ。気をつけて。兄さま。
とても、悪いものが近づいている。悪い風が吹き始めている。その風は、きっと私たちを見逃しはしないだろう。霊力など微塵もない彼女であっても、禍々しいものの存在を疑わずにはいられなかった。
彼女の予感は、ほどなく的中した。
帝が事前の通達もなく、出家、退位したのである。
誰が見ても明らかな陰謀だった。むしろまれに見る露骨なやり方だったといえよう。洗練されてすらいない、泥臭く力ずくのやりようだった。
帝は、去年亡くなった女御の御為に供養を、との口実で謀られて連れ出された。連日の右大臣との軋轢で心身ともに参っていた帝は、続けざまに起きた不幸のせいで気を滅入らせてもいた。以前から帝は戯れに出家を仄めかすこともあり、そのときも気まぐれに口にしたのかもしれない。今となっては事実は闇のなか。唆した蔵人は右大臣の次男とはいえ、即位以降はずっと帝側に立っていた男だったので信用していたという事情もあった。
本来ならば帝は気軽に夜歩きできる立場にはない。周到ではあったが、計画性はそれほど高くはなかった。ただ、ぶらさがった好機を右大臣の・兼家は逃さなかったのである。すべてを一家総出で差配し帝が二度と内裏に戻らないように腕の立つものを配置したというのだから、物々しさでも人目につく。向かった花山寺に帝が到着するより前に
最愛の女御を失った心痛に耐えきれず帝は出家して菩提を弔うこととし、譲位を決意された。
表向きはそう吹聴された。帝の寵愛は事実としても、そのような心弱い人ではないと少しでも帝近くに侍っていた者ならば誰でも知っている。とはいえ、名目や流れはどうあったとしても剃髪してしまっては後の祭りだった。起きてしまった事実を巻き戻すことはできない。ここまで強硬な策を弄するとは想定していなかった義懐は自分たちの敗北を即座に悟り、帝に従って出家した。
その報せもまた恵子には大きな衝撃だった。すべてを聞き終える前に気を失ってしまったのだ。帝はまだしも残された最後の息子までとあっては。
「右府は私たちに何の恨みがあって……」
彼女は恨んだり羨んだりは絶対にしない人だ。しかし、意識を取り戻すと絞り出すようにそう言い放ち、それから謙徳公の室は二度とその話はしなかった。
帝の退位で京はもちろん東院も大変な騒ぎになった。だが、その喧噪はときとともにゆっくり収まっていく。しばらくすると、邸内は再び帝即位前の静けさを取り戻そうとしていた。
でも、この静寂は滅び行くもののそれだわ……。
かつては父の威光がそこかしこに残っていた。嵐のような出奔・出家によって完全に失われ、もはや消え去った。
義懐は上の息子たちも従わせたという。七歳に満たない下の子ふたりは、まだ生母の許で養育されていると聞いた。どれほど心細いことだろうと彼女は胸が痛い。それも人ごとではなかった。正室・恵子の子や孫ですらこうなのだから異腹になる四の姉や五の姉は自分のことで手一杯だろう。
残る伊尹の末裔は行成と彼女のふたり。
行成の身辺もいろいろとあるのだろう。ろくに消息もない。帝の即位後、やっと祖父に報いることができると、ほっとしていた彼を覚えている。その目算は全部外れてしまった。
退陣劇の痛みも残る睦月、ひっそりと宗子内親王が亡くなった。伊尹の長女・懐子が最初に生んだ冷泉帝の皇女だった。
こうして、ひとつずつ失っていく。最後に何が残るのだろう。果てには我が身ひとつになるのではなかろうか。
九の君はまだ十五にも満たなかったけれども、何だか一生分の趨勢を突きつけられたような気がしていた……。のちに少女の感傷に過ぎないと思い知らされるのだが、そのときの彼女にとっては。
ようやく気配も季節も落ち着き始め、暇を乞う者も現れ始めた。甥の登極によって人が増えたのだから、それは当然といえただろう。母の代わりに女房へのたむけを分けていたときに、いつか行成から託された箱が出てきた。あまりにも目まぐるしく物事が進んで行くので形見のことをすっかり失念してしまっていたのだった。
開けようか。止めようか。
彼女は戸惑った。その場ではしまっておき、夜、ひとりになってから灯りの下で文を開いてみた。
一番上にあるのは彼女の古い手習いだった。指で筆跡を何度もなぞったのだろう、多少皺になっている。彼女も母と同じようにしてみた。
温もりはない。でも、感じ取れる気がした。
次にあったのは誰かの文だ。綺麗な字だけれど男の手になる。
記憶があった。
字に、ではない。記された和歌に。
心臓が、どきんと高く鳴った。
知っている。私はこの和歌を知っている。高らかに恋の成就を言祝ぐこのうたは……。
彼女は震える手で自分の文箱を漁った。一年近く前、まだこの不幸が彼女たちを襲う前、忙しい合間を縫ってやってきた兄は、「優れた詠み手だったから学ぶといい」といって、四の兄が残した家集を彼女にくれたのだった。
そんなはずは。
どうして兄上の和歌を母上が持っているの。
写しなどではない。一緒に折りたたまれた文がやり取りの存在を教えている。一部は滲んですらいた。おそらく母の涙で。
彼女はもう一度和歌の紙を開く。打ち消す証拠を求めて他の文を探すと、代わりに出てきたのは後朝の返歌だった。
家集には、女の返歌は、ない。
つまり……。
彼女は立ち上がった。その手から、はらはらと紙片が舞う。長年こびりついた疑惑が、枯れ葉になって落ちる。心はその境界まで明瞭にすっきりと見渡せる。
恵子女王は、母ではなかった。
伊尹も、父ではない。
行成は甥ではなく……。
彼女は両手で顔を覆った。
兄さま、などと無邪気に呼んでいた自分が呪わしい。遊びだからこそ気軽にそう口にできたのだ。
何があったの。
どうしてそうなったの。
わからない。誰も知らないのかもしれない。はっきりしている事実はひとつ。
血を分けた、兄と妹。
父は謙徳公の四男、後の少将といわれた藤原義孝。
何もかもがつながった、と彼女は感じた。
母が小野宮の嫡流と結婚したことをもう聞いて知っている。その時期が、非常識なほど自分の誕生と近いことも。
何故、隠さなければならない子だったか。何故、行成の母とは交流を持てなかったのか。何故、恵子女王は自分を遠い目で見つめるのか。
本当に愚かだわ。
彼女は天を仰いだ。実の兄妹なら異母でも結婚など考えられるはずがない。ありがちな縁組みでも彼との間では起きえない。奈良の昔ではあるまいし……。
「ふ……。ふ」
彼女は笑った。感情をどう御していいのか見当もつかない。苦しい? 悲しい? それとも……。
嬉しかった。
彼女は嬉しかったのだ。
ぎゅうと自らを抱きしめる。
私は伊尹と恵子の孫で、義孝の娘。
そして、行成の妹。
この繋がりは、誰にも消せない。たとえ知る人が他にいないとしても。
ああ。真朱は何と言った? 兄上は誰に似てきたとおっしゃったのだったかしら?
ぼくたちは似ている。
初めて会ったとき、行成はそう告げた。
そう。似ていて当たり前。兄妹なのだから。
身体の奥には彼と同じ刻印がある。
私がそれをわかっていれば、それでいい。
「ふ……」
彼女の頬に幾筋もの涙の通り道ができて、ぽたぽたと落ちて衣を濡らす。
彼女は微笑みながら泣いていた。
さながら冷気に凍り付いた冬の花のように。
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