二 光芒(6)
「いつぞやは、行成様を通じて手跡をいただき、ありがとうございました」
彼女は合点した。行成が彼女の書を挙げた相手とは、伊尹の追善を行う会場を提供するような間柄だったのだ。だとしたら彼女が不平を述べる筋合いではない。
「父上のご生存中は可愛がっていただいておりました。書は姉に贈ったところ、大変喜んでおりました。姉も亡き謙徳公とはご縁がありましたので此度も末席に加えていただくのが筋なのですが、生憎と臨月を迎えておりまして」
おや、と彼女は首を傾げた。娘に手習いをさせたいからと持っていったのではなかったかしら。それとも生まれる子は次女なのかしら。子の夭逝は珍しいことではない。滅多なことは口にするまいと、彼女は真朱を通じて返事をする。
「お役に立ったようでよろしゅうございましたと、姫様はおっしゃっておいでです。姉君にはご安産をお祈りいたします」
男は、姉の手跡もいつか見て欲しいと告げて去って行った。それも変な話だ、と彼女は感じる。確かに以前に比べて書は上達した。それでも、当代一流とまではいかない。私が見て何としよう、と。
けれども、勢いに乗るというのはそういうことかもしれない、と彼女は何となく考えた。いろいろな伝手で縁を結び関係を作ろうとする。今までが世間から忘れられた存在だったから奇妙に思えてしまうのだろう。よくあるありふれた営みの一端……。
荘厳な法要に参加しながらも、どこか淡い夢のような気がして彼女には現実感がない。この煌びやかな世界を自分の日常と信じられるときは来るのだろうか、とふと無常を感じた。
その小さな棘の理由は一月ほどのちに解けた。
兄の義懐が母の許に参り、長いこと話し込んでいたと思ったら、ふだんならお戻りの頃合いになって彼女はふたりに呼ばれた。母の側には少弐ひとりで、少し離れた場所に乳母の円君がいて他の者を遠ざけている。
母と兄は几帳の内側でごく内輪の会合を持っていた。そこに彼女も連なる。季節は皐月を迎えたばかり。雲雀の遠い鳴き声が聞こえた。
「貴女に、妹が生まれました」
え? 彼女は母をまじまじと見つめた。当然ながら妊娠の気配などない。また、そんなに母上は直裁的に……、と兄はため息をついた。
「詳しい事情はいつかゆっくりと説明しますが、貴女の母は私ではありません。とても……、どうにもできない不幸な巡り合わせがあって、母君は貴女を手放されました。そこで貴女は私の娘ということにしたのですよ」
勘づいていたことなので、養女の事実は今さら衝撃ではなかった。が、妹というのはさすがに驚く。つまり、少なくとも実母は生きている。
「貴女の母君は、さる貴族のご正室になっておられます。お産は無事済んで、母子ともにご健勝と伝え聞きました」
ああ。彼女は理解した。赤子は弱い。もし、儚くなるようなことがあれば、彼女は血縁者として喪に服さなければならない。もう伏せておくことはできないと悟ったのだろう。
「はい」
「妹の名代として私がすでに祝いの使いを送ったよ。今後は万事そのようにしておくからね」
彼女は兄に礼を述べ、「では下がってもよろしいでしょうか。眩暈がしてきたようです」と願い出た。無理からぬことと母と兄は早々に彼女を部屋に戻す。
「随分と、落ち着いた様子だったこと」
悩ましげに恵子は息をついた。彼女はここまで完璧に隠し通したと信じている。そう思いたいのだろう。
それはそうだろうね。息子は内心で呟いた。彼は母ほど楽観的ではない。人の口に戸は立てられない。どんなに気遣おうとしても、事実は洩れ伝わるものだから。
義懐にとって、この出産は悪い話ではなかった。彼女が腹違いの妹と交流を持ち、出自も存在も公認― 実際には追認だが― となれば、恥ずかしいところなどない立派な姫君である。彼のきょうだいたちはみな早世し、その遺児たちもふたりほど。義懐自身の子はまだ幼い。とにかく政略結婚の駒が少ないのだ。突然の知らせにも取り乱しもせず堂々たる対応。心強い妹ではないか。
兄の評価も知らず、まだ十五年も生きていないけれども表面を取り繕うことには長けた彼女は表情を崩しもせず部屋に帰ると、真朱に「気分が悪いから」と告げて帳台を用意させた。遅くなりつつある夕暮れも、ようやく空に広がり始めている。胸がいっぱいで、食事も摂れそうにない。
母が生きているかもしれないと、それは想像したことがある。生きているなら、自分が生まれた理由を聞いてみたかった。でも、所詮は召人の女。会うことは叶わないだろうと思い込んでいたのだ。
なのにすぐ近くにいた。人の妻になって、子を育み……。複雑な想いが去来して、彼女には恨んでいいのか、喜んでいいのか、それも区別できない。
兄上がご挨拶したのだから私のことは知っているのでしょう。お会いすることは適わなくても、言付けひとつ、文ひとつくださらないのは、疎んでいらっしゃるからかしら……。
文ひとつ。
彼女ははっと胸を押さえる。先月の八講で会った男を思い出した。彼の姉は臨月と言わなかったか。聞いてみようか。今なら母や兄も教えてくれるだろうか。
思い悩んだ末に彼女は考えを捨てた。多分、彼女の文を求めた女が母親で正解なのだろう。尋ねればどこの誰なのかもわかるだろう。彼女に隠したとしても真朱に調べさせれば事足りる。けれども、そうして事実の欠片を掴んだとしてどうなるだろう。
彼女はもっともっと実母について知りたくなり、過去を掘り出し、直接会いたいと切望するに違いない。
私に繋がるものを求めてくれた。忘れていなかった。それで充分だ。そう受け取るべきなのだ。いつか、そのときが来れば目通りできる日も来るかもしれない。
繰り返し繰り返し言い聞かせてみたものの、その日、彼女は朝方までまんじりともせずにいた。
翌日、正午になる前に行成の訪問があった。祖父・保光の使いで恵子に花橘を届けに来たのだったが、九の君は不調を訴えて自室に引き込んでいたので同席はしなかった。
用事を済ませ、彼はすぐに退出した。ほどなく御簾の奥に籠もっている彼女の許へ、真朱が花橘の枝を捧げ持って来る。行成からだという。枝に結んだ紙を解いてみると、また一段と美しくなった文字で、一首したためてあった。
―― 塵をだに すゑじとぞ思ふ 咲きしより妹と我が寝る 橘の花
彼女はふっと微笑んだ。『古今集』の故事によれば、凡河内躬恒が隣人にせがまれたのは撫子ではなかったか。同じように大事にしていた花を譲るのだよ、と言いたいのだろうか。そこを橘にわざわざ変えている。
彼女は爽やかな花の香りを嗅いだ。心が軽くなるようだ。ただのおふざけだろうか。故事になぞらえてみたという……。行成が話を聞いていても不思議ではない。
どちらでもよかった。
僕がいるよ。
そう言われてるような気がした。しかし、そうだとしても決して詠もうとしない。彼の和歌嫌いは相当なものだと彼女はおかしかった。
「よい香りだわ」
美しい、花。
だが、花のときは短い。
華やかに始まったにも関わらず、その年は幾つもの死が続いた。まるで忘れられた怨霊が目覚め、息を吹きかけて回ったかのように。
なかでも、寵愛する女御の死によって酷く帝は傷つけられた。九の姫にとっても彼女は従姉であり、また女御の継母は恵子の次女にあたるという近い関係だった。妊娠中の彼女を案じて、二の姉は夫ともども密かに見舞いに行くなどして心を砕いていたが、死は素通りしてくれなかった。いや、伊尹の係累に限って訪れたとも言えるかもしれない。悲しみにくれた二の姉自身、次の年を迎えることはできなかった。
帝のすぐ上の姉に当たる尊子内親王も若くして亡くなった。彼女は先帝の女御で寵愛も厚かったけれど、兼家の権勢には勝てず、数年前に叔父である伊尹五男の死をきっかけに落飾している。この五の兄は、恵子の腹ではないので九の君はよくは知らない。歌人としても優れていたと聞いている。
どうして謙徳公の血筋ばかりが……。人々の噂も無理のないことであった。風聞の中心にいる九の君は、なおさら言いしれぬ不安を感じた。これでは終わらないような……。本当に天運が尽きて、とうに朽ちていたものがついに崩壊を始めたような……。
翌年になって、彼女の許に実母の訃報が届いた。
出産後、ずっと身体を悪くしていた母は、ついに床を離れることなく鬼籍へと入った。母は伊尹の血縁ではない。違うのだけれど……。
因縁というものがあるのなら、これがそうではないのかしら……。
周囲はそれとなく気遣ってくれていても、彼女には悲しいという感情が湧いてこない。実母という人は彼女にとって想像上の産物のようなものだったからだ。それでも娘として喪に服さなければならない。弔いとは、身内や知人でおこなうもの。私は、その範疇かしら……。どうにもちぐはぐな感触が付きまとう。
結局のところ、彼女は見知らぬ他人だった。
半月ほどして、行成がやってきた。今日は恵子にではなく、九の君への用件だという。心当たりはなかった彼女も、彼が「本来は亡き人の縁者がすべきだけど」と小さな箱を取り出したのを見て、形見分けだと悟った。
「そうは言っても」
彼女は困惑した。人となりもわからないのに品のみがあっても、それをどう扱ったらいいのか。
「古い手紙や書き付けのようだ。私は見ていないけれども……。夫の目を避けたい代物だったのではないかな」
そういうことか、と彼女は頷いた。男女が別れるときは、送り合った文は返すと決まっている。実母はそれをできなかったのだろう。一部を残しておいたのだ。けして誉められた振る舞いではない。未練がましいことだから。
しかし、そのおかげで娘は母の真実に触れることができるかもしれない。
「真珠君」
いつになく真面目な声色で彼は告げる。
「捨ててもいいんだよ。決めるのは君だから。どうにもならない過去なんて、重荷にしかならないかもしれない」
その言い分は一理あった。
「考えます」
実のところは、決められないからこそ、彼女はそう答えた。今は受け取るという行為ひとつも、自分のなかで消化しきれない。留め置いて後に回すので、精一杯だ。
「捨ててしまったら、薄情かしら……」
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