二 光芒(5)

「滅多なことを口にしないように。それに、叔母、ではありません……」

 ならば、もっといい。子も望めるだろう。

 彼も本音は腹にこらえた。今上帝は我が子の誕生を切望しているけれど、天はなかなか応えてはくれない。かろうじてできたのが、決して良好な関係とはいえない兼家女腹だというから皮肉な話だ。父の早世さえなければ、今上帝の御子を儲けていたのは彼の姉妹たちの誰かだったかもしれない。振り返ってもどうしようもないことでも、義懐の悔しい気持ちが奥底にこごっていた。

「それならば、あの子をどうするお心です。然るべきお相手を望むならば、多かれ少なかれこうした争いとは無縁ではいられませんよ」

 息子に糾弾されなくても、それは恵子が一番よく思い知らされていた。どれほど生んでも育てても、子どもたちは儚くなってしまう。彼女は、我が子が消費されていく様を見せつけられてきた。その腹から生まれた子は、もう男女ひとりずつしか残っていないのだ。

「そう、母を責めないでください……」

 彼女は濃い喪の色をした袖で顔を覆った。六女を失って一年も経っていないことを思い出して、義懐は、言い過ぎましたと謝った。

 息子の言い分は、ある意味正しい。いつまでも娘を箱にしまって匿えるものでもない。恵子は声を潜めつつ、しかし吐き捨てるように言った。

「時流に乗って勢いのある殿方と縁を結べば、あの子の出自も口の端に上りましょう。自分を生んだ母が生きて、人の妻になっていることを知れば、あの子が苦しみます。先様も穏やかではいられぬことでしょうよ」

「それは、私は父上や母上ほど事情を聞かされていたのではありませんが」

 少し憤慨して彼は反論した。

「時機が悪かったから、そういうことになりましたが、本当のところは違うでしょう。母上だって、昔からご存じでしたよね。これではまるで……」

 過ちの落とし子。そうと決めつけることは、そこにあった想いを葬ってしまうことと同じだ、と彼は以前から気に入らなかったのだ。間違ったことなど、ひとつもありはしなかった。約束を違えたのは周囲で、彼らではない。

「それでも、です」

 強く、はっきりと母は拒絶した。

「大姫は、懐子は帝の閨に侍って幸せでしたか? 皇子たちを得て位をいただいたけれど……。右府殿のご息女はどうです。庚申待であれほどたくさんの方々に囲まれていたのに、どなたにも気付かれずにお亡くなりになりました。お幸せだと思うのですか」

 恵子の老いた瞳からはらはらと雫が零れた。奪われるのは、もうたくさんだった。真珠君には失った幾つもの面影が宿っている。和歌を詠じるとき、書を描くとき、楽を奏でるとき、ずっと昔になくしてしまった時間が甦る。桃園と人が呼ぶ静かな邸宅で欠けることなくみなが揃っていたころの、懐かしい記憶が。

 あのこは真珠。彼女に残された、たったひとつの形見。手のなかの宝珠だった。

「あの子は、結婚などさせません。私が守ってみせます」

「ですが」

 これ以上言い募っても母を追いつめてしまい却って意地にさせてしまう。息子は口を噤んだ。

 それでも、母上は年老いすぎています。あの子より先に命運は尽きるでしょう。残されたあの子は、どうすればいいのです。

 そのとき、誰があの子を守るのです。

 勝ち気で聡明、ときには夫・伊尹をやりこめる機知を備えていた彼女もそろそろ齢六十に手が届く。幼児に近くなっていても不思議ではない。彼は、母の衰えが寂しく、また悲しくもあって、もう言葉を継ぐことはできなかった。

 だが、それでいいのだろうか、と彼は思う。機会さえなく、選ぶこともなく、ただ流されるように生きることを強いてはいないか、と。それとも、考えすぎだろうか……。このまとわりつく嫌な予感は、悪いことが続く家に生まれてしまったせいで身に付いた癖のようなもので、案外あっさりと末妹は片づくかもしれない。義懐は努めてそう信じるようにした。

 新年すぐ、東宮によって行成が従五位下に叙せられたのは、祖母・恵子にも嬉しいことではあった。公卿として国政に関わるためには、まず従五位下になるのが最低の条件だったからだ。行成は十三になっていた。

 年が迫る時分になり、主に兼家の思惑に動かされて今上帝は退位、代わって恵子には孫、行成には従兄にあたる東宮が即位した。義懐はその後も入内を打診してきたたものの、母の意志は揺らぐことはなかった。一番近い外戚でありながら、ついに彼らの家から姫を差し出さなかったのである。もっとも、若い帝王は義務感から以上に姫君たちに関心がある質で、内々に義懐も「いつかは亡き一条摂政の九番目の姫を我が許に」と言われて続けてはいた。とはいえ、義懐とは協力関係にある叔父の為光も愛娘をすでに入れている。少年皇帝の気まぐれに近い要望は、曖昧なままにしておいた方がよさそうだった。

 その年からの二年ほどは、往時が帰ってきたような華やかさだった。これまで官職にも位に恵まれなかった義懐は、夏の日の朝顔が蔓を伸ばすようにするすると周囲を飛び越していく。政治の節目によく起きることではあったが、他の例と違って薄氷を踏むような危うさも漂っていた。

 同時に、この幸運な貴公子はやはり伊尹の嫡流なのだとみなに思い出させてもいた。彼も父・伊尹によく似ていたし、鮮やかな立ち振る舞いは不幸な流行病で亡くなったふたりの兄を彷彿とさせもした。巧みな馬術は先少将を、女房たちとの気の利いたやり取りは後少将。そうそう、本当にお綺麗で素敵な方々だった。彼女たちも思い出す。あの美しい貴公子たちが内裏を闊歩していたのは、そうも昔のことではないのだ。

 その裏に潜む危険性は、彼自身がよく理解していた。これは大きな賭だった。幾ら兼家でも、瑕瑾もなく一年や二年で帝を交代はさせないだろう。彼の孫である東宮はやっと五歳になったばかりだ。数年は余裕があるとみていた。その間に、どれほど足固めをし、他の公卿たちと手を結べるかが鍵となるだろう。

 すでに、中級貴族たちの期待は受けていた。昌泰の変以降、藤原氏のなかでも特定の一家が政権を担う流れになっていることにも不満が溜まっている。時を戻し、再び彼らが公卿になり得る道を示せば、義懐たちにも勝機はあるだろう。

 たとえ、目算が外れたのだとしても。

 どのみち、彼が元服したときには負け戦だったのだ。裏目に出たとしても失うものはない。そう彼は腹をくくっていた。

 御世が替わって出世し始めた義懐は、まだ幼い息子の代わりとして行成をいろいろな場に伴って行くようになった。その分、東院に顔を出す機会は減ってしまって九の君は寂しくもなる。仮初の大人らしさは消え、振る舞いが行成を本物の成人に変えていく。それは彼女と違いも大きくなるということ。彼女の身体も幼児から離れて小さくとも女になろうとしている。その変化が、彼女には多少煩わしい。

 彼女の本音とは裏腹に、東院は以前よりも騒がしくなっていた。それもこれも、帝位についた甥っ子のせいだった。何やかやにつけ、さまざまなものを献上したり振る舞ったりしなくてはならない。摂政の正室であった恵子女王には、贈り物の選別も手配も慣れたものだ。特に求められはしなくても、彼女は母のために側に付き従って手伝いを心がけた。そうしてみると、幼いころから厳しいほどだった母の言いつけが活きてくる。どんな色を選べばよいのか、同じ色でもどうしたらもっと映えるのか、ちょっとしたことでも彼女は気を利かせることができた。

 大殿がおられたころのよう、と一の姉の乳母を勤めた女房はそっと目尻を拭ったりもした。大げさな、と困る母の傍らで、彼女にその感傷はわからない。

 寒さも大方消えた弥生の末、一の姉・懐子の生んだ宗子内親王による法華八講が前修理大夫の郁芳門近くの邸宅で行われる運びとなった。九の君は初めて経験するおおがかりなもので、義懐や行成はもちろん、恵子たちも列席する。

 過去に遠出した経験といえば、母と数人で行った東山にある寺への参詣くらいだった九の君は、大勢の公家たちが参会する様に目を回しそうだった。凋落した家と目されていた伊尹の追善供養を大規模に行うことができるのも、今上帝が彼の孫であるおかげ、と恵子は感謝していた。

 内裏の外郭に沿う形で、彼女たちは八講の場へと向かった。そのすぐ南にはかつて冷泉院があった広大な土地が横たわっている。何度再興しても、「冷然院」から「冷泉院」と火の気を名前から避けてさえも火災から逃れられない。何かの祟りでは、と市井の人たちは噂したけれど、特にそのような由来のない場所だった。牛車に揺られて着いた先には、すでに行成がいて祖母と小さな叔母を待っている。

 彼女たちに用意された壁代で区切られた一角へと案内され、皇女がいらっしゃったらご挨拶を、と段取りを説明される。彼女は、てきぱきと手配をしている行成の声を不思議な気持ちで聞いた。

 少し疲れた、と母が言うので、奥に置き畳を用意させ、横になってもらった。連日の緊張は老女には応えるのだろう。立てた几帳の向こうとこちらで、彼女は行成と向き合った。

 改まると話題もない。そもそも、彼はここでのんびりしていて大丈夫かしら、と心配したとき、簀の子に男がやってきて、何かを行成に囁いた。

「祖母は休んでいるので、後でお伝えします。ご苦労」

 何かしら。口にする前に、彼は「帝からのご伝言で」と教え、去っていく男の背中をちらりと流し見た。

「どうなさったの」

 めざとく、彼女は気付く。聞けば帝は政務に熱心でいらっしゃるが、それ以外のことも活発で、女性にしろ、仏事にしろ、風流事にしろ、思いついたことを気まぐれに形にしようとなさる。周囲は振り回されがちで、なかでも乳母の子どもたちは気安さもあって無理を押しつけられることが多いとのことだった。

「あの男の母も、帝の乳母のひとりでね。いつだったかせっかく生まれた我が子に顔を忘れられていた、と言っていたことを思い出して」

「まあ」

 彼女は相づちを打って口元を袖で抑えてみたものの、父親の顔など覚えるほど会ったこともない。それは行成も同じことだった。

「妻に遠回しにちくりとやられたらしい。それが論語からの引用だったのでさっぱり、と嬉しそうに笑っていたから、仲はよいのだろうね」

 家から出ないような女性でも、賢い方はいるのね。そのことを夫しか知らないなんてもったいない気もする。けれど、夫の方は漢籍が苦手と言っているようなもので、典籍に詳しい帝に近くお仕えするのにそれでもよいのかしら、とも感じた。

「何にしても血の縁は大切にしなくてはね」

 それには反論はない。彼女は、「ええ」と頷いた。会うことはできなくても、僧侶たちの涼しげな声が亡き父に届けばいいと願っている。

「そういえば、家主が挨拶をしたいと言っていたけれど、いいかな」

 彼女は、「でも母上は」とためらう。

「よく知った者だから、君が名代として聞いておけばいいよ。ここはお祖父様の代よりもずっと先から縁がある家なんだよ」

 その辺の話を恵子はまったくしてくれない。まあ、行成が言うのだから事実なのだろう。

 彼が呼んだ男は幾度か行成と共に東院にも参じている者だった。年は二十代半ばを過ぎたころだろうか。

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