二 光芒(4)
その夜、久しぶりに憂いから解き放たれて、彼女は行成のことばかり考えていた。どうして兄さまはあんなことを言ったのだろう。つらいことでもあったのかしら。それとも、寂しいのかしら。
ひとりで物思いしていても正解が得られるはずもない。こういうとき、一緒に暮らして側にいないということが悲しかった。
昔から行成は、ここにいていいんだよ、そう伝えてくれた。他の者は、どことなく不安そうに、つらそうに彼女を見て目を逸らす。つらいことを、苦しいことを、嫌なことを思い出すのだろう。それも今では無理からぬことだと彼女は諦めつつある。
それゆえに余計に彼女は行成の近くにいたかった。彼がしてくれたように、ここにいていいの、と伝えたかった。近いとはいっても、築地塀が、大路が彼らを隔ててしまう。
そうだわ。
彼女はひとつの結論を導き出した。
私が、兄さまと結婚すればどうかしら。
そう、それなら。もう離れていることはない。煩わしい几帳もいらない。もちろん、正室にというのは難しいかもしれない。彼はもっと勢いのある良い貴族の娘と結ばれなくてはならないのだろうし。
でも、妻のひとりに叔母がいるくらいきっと平気よ。そんな例は過去にたくさんあるのだもの。
彼女にも数年すれば縁談が持ち込まれることだろう。そうすれば、母の恵子が愛したこの東院に他の男君を迎えることになる。
他の、男。
それを想像したら、彼女は怖ろしくて震えた。異なる家の男を入れて夫とし、その間に子どもを作る……。母も、姉たちもしているごくふつうのことが、彼女にはとてつもない苦痛に感じられた。
他人の妻になったら、もう恵子の娘でも、行成の“妹”でもいられなくなる気がした……。もともと、伊尹が下卑な女に生ませた自分なのだから。細い細い縁の糸は、切れてしまうに違いない。
そうよ……。彼女は浮かんだ涙を拭った。
兄さまの妻になって子どもを生めば、本当に母上の娘になれる。母上に曾孫を、可愛がってらっしゃる兄さまの子を作ることができたら、ここにいても許される。本当の一族になれる。
それには、母上が自慢できるような娘にならなくちゃ。これまでもそう願っていたけれども、より強く彼女は念じた。琴も、和歌も、裁縫も、求められることはすべてやり遂げよう。兄さまに相応しい姫と思っていただけるように……。その思いつきは彼女の人生でも最良のものに思えた。
行成の元服からこちら、急速に大人びた九の君を不思議に思う者もいなくはなかったのだが、その年のうちに六の君が鬼籍に入ると、邸内はそれどころではなくなった。張りつめた空気はそのまま重い気配へと変質し、下仕えの者の肩にすらのし掛かっているようだった。あまりにもお子らが亡くなりすぎではないだろうか。言葉にはしなくても暗黙のうちに不安が流れる。それを打ち消すかのように、恵子はいっそう末娘の教育に熱心になった。
どれほど雪が深くとも、時とともに花木は蕾をつける。
幼さの勝っていた彼女も、ふと成熟した風情を漂わせるようになっていた。ときおり訪れる末の兄、藤原義懐に琴や筆の手を誉められることもある。この兄は自分は風流ごとの実践者ではないくせに審美眼は厳しいので、彼に認められるとより誇らしく感じるのだった。
「血は争えないというけど、本当によく似てきたね」
感心するように彼は、そう評することもあった。それは大抵和歌についての言葉だったので、彼女は伊尹のことだろうか、と想像した。義懐は、特に教えてはくれない。ただ、母が席を外したときを掴まえて妙なことを聞いてきた。
「九の君、おまえはもし選べるのなら、諦めて何もなく生きるのと、機会に自分自身を賭けてみるのとどちらがいい」
何の話だろう。彼女は訝しく思いつつも、いいえ、とすぐに答えた。流れるように言葉は彼女の内から生まれてくる。
「どちらも。私は、大切なものを失わないように、胸に抱いてなくさないように生きたい」
彼は虚を突かれたように、ぽかんとしたけれど、すぐに笑い出した。そう答えるとは思わなかった、と言って。質問の意味を間違えたのだろうか。彼女は続けた。
「だって……。兄上のおっしゃることは、どちらでも大事なものを零してしまいそうに思えるのです」
ああ、と彼は頷いて、そうだね、と答えた。
「おまえは、両親にそっくりだと常々思っていたけど、でも、彼らよりずっと……」
彼女は眉を顰めた。どういうことだろう。兄上は、自分を生んだ母を知っているのだろうか……。それは、彼女が産まれたときにはこの兄は十代半ばだったのだから、恵子の子ではないと知ってはいるだろうが。
望んで抱え込んだ秘密ではないとはいえ、彼女は禁忌に触るすれすれの会話を進める義懐にハラハラした。同時に興味もそそられる。兄上は、本当の母を知っているの? 人の少ない今なら答えてくれるかもしれない……。と、息を呑んだ矢先に恵子が戻ってきて、じろりと息子を睨め付けた。
「何を戯れ事を……」
はいはい、と彼は肩を竦めて「私なりに末の妹の行く末を憂うているのですよ」と話題を変えてしまった。彼女はがっかりし、失望した自分に驚いた。実母のことなどどうでもいいと思っていたのに。うやむやにされた、と感じたのは少女のみだったらしい。恵子ははっきりと顔色を変えた。
「やはり、諦めていないのですね」
彼女は尼削ぎの髪先をさらりゆらしながら腰を下ろすと、娘には部屋に戻るようにと告げた。はい、と素直に返事をしても、ただならぬ様に心は騒ぐ。
「どうして外させるんです。無関係ではないでしょうに」
「関係ありません。これからも」
早く下がりなさい、とさらに追い立てられて、彼女は真朱と顔を見合わせて退いた。母付きの女房、少弐がさりげなく人払いをしている。
「これは、姫さまのご縁談かもしれませんね」
真朱はしたり顔で囁いた。
「まさか」
裳着の予定もないし、まだ女のしるしも始まっていない。乳母は彼女の髪を梳きながら、まだ細くていらっしゃると毎回のように口にする。
「いいえ、姫さまも来年には十四におなりですから、お話があっても」
まあ、そうなのだけれど。彼女は微笑した。世間にはふたつほど年を偽っている。新年が来てもやっと十二だ。
「僭越ながら、私めがお話を聞いて」
あら、立ち聞きをする気? いいお行儀だわ、と呆れつつも、それもいいかもと彼女は思った。
「まだこちらに?」
子どもの悪巧みなど大人にはお見通しだった。無関心に見えた少弐はくるりと彼女たちに向いて、お戻りください、と釘を刺す。諦めて、彼女は大人しく引き下がることにした。どのみち、母は兄の意見に賛成していない。
人はいなくなったと少弐から報告を受け、やっと恵子は一息ついて脇息にもたれかかった。昨年からの心労で少し痩せられたな、と息子は感じた。あまり負担をかけたくはない。が。
「東宮も無事元服されました。近々、登極の機運もあります。これはよい巡り合わせだとは思いませんか」
昨年、恵子の長女・懐子の生んだ皇太子が元服し、上級貴族たちはもちろん、中級、下級にいたるまで落ち着かない気配を放ちだしている。東宮は今年十六、次の東宮となる親王たちはまだ幼い。御世は長くなるだろうと楽観視する者も多かった。
そのような甘い考え、年老いた女には通用はしない。世の盛衰をつぶさに見、感じてきた恵子には息子の言葉は空に浮いた雲よりもあやふやに思えた。
つい先年、今上帝は第一皇子を儲けられた。外祖父はいまやもっとも勢いのある右大臣・兼家だ。亡夫・伊尹の弟ではあるけれど、手段を選ばないところがある野心家で昔から恵子はどうにも好意を持てない男だった。彼は次兄である兼通とひじょうに険悪な仲であり、五年ほど前に兼通が亡くなるまではかなりの辛酸を舐めさせられている。今はその巻き返しに躍起だ。今、藤原氏の氏長者をしている小野宮の頼忠に、彼を抑えきれるとは到底思えなかった。頼忠は善人ではあるが政治的手腕において上品すぎる。
長兄・伊尹との仲は良好だったから、あからさまに排除はしてこないだろう。その点では恵子は安心できていたが、後宮問題となれば話は別だ。利益と立場が対立しては黙ってはいないだろう。まだ三十にもならない義懐など、敵ではない。
そんな争いの最中に、末の娘を送り出したいと思う親がいるだろうか。
「むしろ、悪い巡り合わせだと感じています」
どうして、と義懐は不満げだ。恵子には、その気持ちもわからなくはなかった。末息子の義懐は、元服と同時に父を亡くしたため、煌びやかに大人の世界に足を踏み出した兄たちと違って苦労をしている。すぐ上の兄・義孝と同じ右少将になれたのもやっと二十歳になってからだ。
「少しばかり感じやすい面はありますが、東宮は優れた特質も多くお持ちですよ。東宮職の学者たちもそれはみな認めるところです。それに叔母の入内はよくあることではありませんか」
しっ。彼女は唇に指を当てた。
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