二 光芒(3)

 一年ほど前から、彼は九の君の字を見てくれていた。彼は自分の母・寧子やすこの指導を受けて流麗な字を描き出すようになっている。まだまだ修練中ではあったが、末娘に教えてやって欲しいと恵子が望んだ結果だった。もっとも恵子も綺麗に書く。彼の字はそれ以上の何かがあった。

 本来、彼の母・寧子は彼女とは、従姉妹の関係にあたる。寧子の父は恵子の兄だからだ。邸宅同士が近いこともあり、それならば直接寧子に学べばよいとなりそうな話なのに恵子はその選択はしなかった。

 本当は母上の子ではないのだから、そうよね。

 彼女には事情がわかっていた。それに彼とゆっくり会えるのは彼女にとって嬉しいことでもある。気晴らしにはちょうどいい。

 ところが、この度は慌ただしく几帳を立て場所を隔てて対することになった。姫らしく、を目指しているくせに、彼女は多少機嫌を損ねたまま几帳のこちら側に腰を下ろした。

「ようこそおいでくださいました。あに……」

 彼女は口を噤む。人は少ないといっても円君も女房もいる。

行成ゆきなり様」

 言い直した彼女を彼は面白そうに眺めた。障屏具に遮られているとはいっても、よく知った彼女のことだ。どんな表情でいるかは想像がついた。

「これはどうも、真珠またま君」

 自分が幼名のままなのは変な感じだ。気まずさを味わいつつ彼女は黙り込んだ。

「先日は、すぐに退出してしまって失礼を」

 彼は持参した紙を懐から出した。ちょっとした土産のつもりだろう。いつものことではあるが、母の寧子がよく行き届く女性だということがわかる。菓子ではないのは、少しは大人扱いを始めたということだろうか。

「あの後、乳母から聞いたけど、行成様は私の字を他の方にお見せしたんですね。私、とっても恥ずかしい思いをしましたわ」

 前回書いた字が特にいい出来だというので、行成は自宅に持って帰った。寧子にも見てもらうためだと言って。ところが、その次、元服の挨拶に行成がやってきたとき、付き従っていた男のひとりが、行成の乳母が手跡についての礼と褒めていたことを円君に告げた。そう聞いても赤の他人に見せるほどに良いとは、彼女も思わない。

 努めて丁寧になるよう言葉を選ぶものの、本音の方がどうにも先行してしまっている。それもおかしいのか、彼はくすっと笑った。

「うまく書けていたよ」

「そうかしら」

 そんなはずはないじゃない、と不満を滲ませて彼女は応じる。本当だよ、と彼は頷いて見せた。

「あの人はうちと古くからの縁がある者なんだけど、姪のために少女が書いた手跡が欲しいって相談されてね」

 そんな。彼女はむくれた。お手本にするほどのものではない。それに勝手なことを……、という思いもある。彼は、いいんだよ、僕が大丈夫だと思ったんだし、と請け合って、

「では始めようか」

と自分に用意された文机に向かうと、さらさらと筆を滑らせ始めた。実際、彼の字は少年と思えないほど美しい。しかも見るたびに上達している。本当は書いている様を見た方がよいのだけれど、几帳が邪魔でこれまでのようにはできない。

 それで手習いになるのかしら。

 物足りなく感じていたとき、寝殿の方から母付きの女房がやってきて円君に耳打ちした。

 どうやら六の君の病状が悪いらしい。人が足りないようで、九の君の許にいる女房に手伝ってもらいたい、という依頼だった。

「行っていいわ。私は行成様に字を習います」

 彼女の言葉に乳母は一瞬迷った。

「まあ、確かに字を書いているのは僕たちだけだれど」

 それには一理ある。大体今まで、短時間ながらふたりきりで練習することはあった。元服したからといって違う人間になったのでもない。

 さあ、姉上が心配ですから、と乳母たちを焚きつけて追い出し、残された真朱を適当な理由を言いつけて追い払うと、彼女は大きく伸びをして几帳の影からひょいと顔を出した。

「こら」

 笑い出しそうな口を押さえて咎めるが、彼も本気ではない。姉君が大変なときに、という意味合いも少しはあるけれど、六の君に人を連れて行かれるのは珍しいことではなかった。今朝は冷え込んだので、そのせいだろうとふたりは言い合った。病弱といっても若いのだもの、適切な看護があればたいてい翌日には床を離れていた。

「字を学ぶのには、お手本が見えなければなりませんわ」

 彼女は大まじめに答えて、文机の横にちょこんと座った。筆の運びのためと言ったくせに、それを忘れた顔で彼女は彼の横顔を見つめた。下げ角髪をやめ、大人と同じように髪を挙げている。鳥帽子をつけているのは初めて。前回は、どうにかその先端を目にした程度だ。

 印象は異なる。でも、僅かだ。中身は同じ角髪の少年。直接確認できて、彼女はほっとした。

「何」

 彼は紙に視線を落としたまま問いかける。

「手を見るんじゃないの」

「うん」

 彼女は文机に近づいて、じっと筆跡を見つめた。

「貴方が勝手に大人になったのに、私はまだ子どもでも几帳を立てなければいけないの?」

 聞かれても困るようなことを口にする。それに僕を責めるなんて、と彼は苦笑した。

「君は女の子だから。裳着をしてなくても、ずっと気をつけなきゃいけないな」

 気をつけるって? 彼女はこだまのように返した。

「男に油断するなってこと。隙に乗じていいように物事を運ぶ人もいるんだよ」

「まだ裳着をしてないし、文ももらってなくても?」

 それでも、と彼は強く肯定して筆を置いた。もう字は書いていない。

「真珠君」

 なあに。

 彼女は顔を行成に向けた。蝶を捕らえるように、すっと彼が近づいてきて、その唇が彼女の口元に触れた。

「………」

 突然過ぎて、少女は、ただ、そこに凍り付いていた。

「ほらね」

 成功した悪戯を喜ぶように、彼は微笑んだ。

「こういうこともあるってこと」

 でも。

 彼女は考えた。

 いえ、そうじゃなくてこれは何?

「でも、それにはすごく近くにいなきゃできないわ。私、他の人だったら、ふたりで会ったりしないもの」

 声になったのは、心のうちにある戸惑いではなかった。

「悪い男がいい人に見せかけて近づくこともある」

「知ってるの?」

 う、と彼は喉を詰まらせた。

「き、聞いた話だけど」

「イヤな人ならイヤだけど……」

 今のはイヤじゃないから。

 あれ?

 彼女は次第にわからなくなってくる。

 じゃあ、何がいけないの?

「とにかく、女の子は、真珠君は男には気をつける。几帳を立てるのも、そのための訓練だよ」

「兄さまにも?」

 彼はにこっと笑った。

「兄さまって言った」

 彼女は真っ赤になって、行成様、と言い直した。

「僕はどうかな……、兄のようなもの、だし」

「もう!」

 あやふやでわからない。彼女は、知らない、と立ち上がりかけた。膝行などしている気持ちの余裕はない。怒った? と彼は彼女の袖をさっと掴む。

「真珠君」

 中腰になった彼女の腕を強く引いたせいで、ぐらり身体が傾いでくる。彼は彼女を受け止めて、ぎゅうと細い身体を抱きしめた。

「兄さま?」

「……、うん」

 いつもの香り。

 いつも通りに思える。変わらなく見える。でも、そうではないんだ……。母上も伯父上も、無理に彼を子どもの領域から締め出した。そうせざるを得なかった、とは言っても。

 彼女は彼を抱きしめ返した。彼女も小さいけれど、彼だってまだまだ小さい。

 それなのに。

「大丈夫」

 今は彼女がそう言おう。

「兄さまはいいの。特別にしておくから」

 彼は頬を緩めて頷く。

 ぱたぱたと、真朱の急ぐ足音が近づいていた。時間稼ぎに面倒な用事を言いつけたけれど、それも終わりのようだった。

 真珠君、と彼は彼女を呼んだ。もう一度、彼は彼女に口づけて、これでお終いと呟いた。

「こんなふうに、させちゃダメだよ」

 どういう意味? 頭脳はそう疑問を呈したものの、すっかりのぼせてしまった彼女はわけがわからないまま、うん、と首を縦に振った。どのみち、問い質すゆとりもなかった。

 真朱の姿が見える数秒前、彼女は几帳の裏に逃げ込んだ。初めからそうしていたかのように顔を取り繕って筆を持つ。

 お帰り、と行成は真朱を慰労して、おまえも字を学ぶかい、と声をかけた。

「と、とんでもございません」

 どういうわけか、彼女は名前の通り耳まで真っ赤になって遠慮した。

 まあ。

 彼女は、生意気、と思って、それから笑いを噛み殺した。ふふ、おかしい。赤くなったり、慌てたり。真朱は彼が好きなのだろう。

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