二 光芒(2)

 華やかで立派で優れていたという父は、同時に在五中将のような色ごのみでもあった。若いころの母はそのことでよく父と喧嘩をしたと下女たちは言っていた。彼女はとても気の強い姫君だったのだ。

「でも、お年を召されてからは随分柔らかくおなりだと聞いたわ」

「おまえ、余計なことをお言いでないよ」

 年嵩の下女はむっとしたように釘を刺した。どうして、と若い女は食い下がる。

「大殿が孕ませなさった、どこぞの娘の子を引き取って、我が子として育てなさるなんてさあ。いい話じゃないの。さすがに尼君は功徳をお積みになってる」

 年上の下女は肯定も否定もしない。なので、彼女は構わず続けた。

「本当は九の君は大殿の亡くなった後のお生まれでしょ? お認めにならずお亡くなりでは都合が悪いもんね。お小さい姫様だとは聞いたけど、そりゃあ、二年もごまかせばねえ」

「知らないよ」

 いらいらと、もうひとりは答えた。

「どこかで聞きかじったようなことを面白がって口にしてたら、いつか自分に返ってくるからね。いい加減にしとくもんだよ」

 そう忠告すると彼女は、さあさあと若い下女を追い立て周囲を気にしながらその場を離れる。その慌ただしい振る舞いによって少女に下女の話した風聞が本当なのだと信じさせられた。

 そういうことだったのだ。

 何故ごく幼い時期にはろくに親族にも合わせなかったのか。何故乳母や乳母子、最低限の者たちしか侍らせなかったのか。

 二歳も違えば同年齢の甥姪との比較できてしまう。彼女たちの済む東院のすぐ西には二番目の姉が住む邸宅がある。そこには彼女と一歳しか違わない甥がいた。ある程度大きくなれば、個人差でごまかせることも五歳に満たなければ、言い訳のしようもない。末の妹である彼女が亡くなった一の姉に会えなかったのは、会わせてもらえなかったからだ。人目の多い彼女の里第では、とても会わせられなかった……。

 寝殿に住まうすぐ上の姉は身体が弱いこともあって数回しか会ったことがなく、その代わりということなのか、機会を見つけては美しい紙やお菓子を彼女にくれる。優しげな方で、彼女はこの六の姉が好きだ。だが、初めて体面したときの複雑な目の色は忘れられない。

 母が、自分には少しばかり厳しすぎる理由もわかった気がした。乳母の円君まろのきみは「お年を召されてからのお子なので、早くにきちんと姫君にお育てしようとお考えなのですわ」と慰めてくれる。しかし高齢だからこそ、末の子や孫には甘くなるのが世の習いだと、彼女も聞いていた。そんな半端な情報に頼らなくても、母は自分をときどき遠い眼差しで見ていることに気付いていた。

 どれだけ辛かっただろう。貴族の男は、妻を複数持つのが当たり前とはいえ、女たちが平気なわけではない。彼女はまだ裳着もぎも済ませていないけれど、そんな結婚をしたくはなかった。自分を手元におくことは母にとって苦しみでもあったのだ。少女はやっと不可解のすべてを諒解できた。たとえ憎む気持ちが混ざっていたのだとしても彼女は恵子女王が好きだった。

 ごめんなさい、母上……。

 実母の影を少しも感じないということはきっと身分の低い女だったのだろう。父の家集を読んだことはないのだけれど、さまざまな女性と関係を持ったという話を少し聞いていた。人によってはそれを良いことのように言う。世間ではそうであっても彼女にはそうと思えなかった。

 このことは黙っていなくては……。彼女は決めた。知ってしまったと母に察知されてはいけない。もっと悲しくなってしまう。私は一条摂政・伊尹と恵子女王の娘なのだ。細心の注意を払って守ろうとした秘密はやはり秘密のままがいい。

 兄さまにも言えない……。

 湿った夜着の下で彼女は思った。彼の正体がわかってもふたりになれる時間があれば彼女は相変わらずそう呼んでいた。

 母の苦痛には代償が必要だ。報われるべきなのだ。だから、私は誰にも恥ずかしくない姫になろう。

 ほかになにが……? 彼女はぼんやりと未来を描いた。他に小さな女の子にできる償いはなさそうだった。

 まだ十にも届かない彼女が決意をしてしばらく……。

 年が明けて如月。少年は幼名を捨てて成人の儀式を済ませた。この新年でやっと十の彼は幼すぎるという声もあった。だが、少年の後見をしている祖父の源保光みなもとのやすみつもすでに六十近い。可能な限り早く彼に将来への道筋をつけてやりたい、ということだった。

 大路を挟んで都外にある桃園で元服した彼は、祖母の住む東院にもやってきたのだが、他にも回らなければならないところがあると言って、すぐに退出してしまった。几帳を立てられて、ろくに様子も窺えなかった彼女は、彼らが帰って自室に戻った後、真朱に姿が見えたかを聞いてみた。好奇心からではなく、彼女も早い元服に不安を覚えていた。

「それはご立派でございました」

 どうしてか、乳母子は興奮気味だったので、彼女はくすりと笑いを零した。よく知った顔だろうに、衣装が変わると異なって見えるのだろうか。

「いいえ、本当です。母が言うには、お父君の亡き少将様に瓜二つだそうです」

 といえば、彼女の兄である義孝少将だろう。美しい兄弟たちのなかでも特に美貌を詠われた貴公子で、和歌の才は飛び抜けていたとか……。稀に母が思い出を話すこともある。もっとも三男と四男を同日に亡くした心痛のせいか、彼女には彼らのことをあまり教えてくれない。

「そうなの。円君は亡き兄上を知っていたの」

「ええと、はい」

 母に言い含められてでもいるのだろうか、真朱は口が滑ったという体で小さくなった。

「その、伯父が義孝様にお仕えしていたので」

 ああ。彼女は頷いた。真朱は橘の一族だ。一条摂政の家人には橘の者が多い。

 真朱は誉めるけれど、と彼女は思う。ほかの子どもたちはまだ殿上童にもあがるかどうかという年に大人の姿で大人たちの間に入らなければいけないなんて、さぞかし気苦労があることだろう。そう考えて胸が痛んだ。

 端正な顔立ちだから気付かれにくいが、彼は心を抑え込む癖がある。いつものようにじっと唇を引き締め耐えていたのだろう。一目でいいから直接会いたかった。ひとりではない、自分がいると思い出して欲しかった。

 大体、昨日までは必要なかったのに、今日からいきなり几帳越しになるなんて何だかおかしい。私は少しも変わっていないし、兄さまは半尻ではないというだけ。薄い布一枚でも隔てられると、無用な距離を取られたようで、彼女は嫌だった。

 いけない。

 自分の我が儘に気付き、彼女はため息をついた。願っても簡単には大人にはなれない。「なんです」と真朱が首を傾げる。いいえ、と打ち消して、彼女は脇息を離れ、文箱から筆を取って手紙を書く素振りをした。

「お祝いの文を考えたいの。外してくれるかしら」

 それらしく真朱を下がらせ、ひとりになると彼女は筆を放り出し、大きく息をついた。

 母が誇れるような姫になろうと頑張ってみても、つい好きにしたい、という気持ちが起きてしまう。兄さまは大人になったんだから、私がまだ裳をつけていなくたってだらしない真似はできないのよ、と思う一方で、私と兄さまは本当のきょうだよりも仲良しなのだもの、そんなもの必要なのかしら、と対抗心が湧き出てしまう。

 大きくなるって、こうして自由を失っていくことなのだろうか。私は次の年でやっと十。命が六十まであるのなら、あと五十年もしてはいけないことを数えて生きていかなければならないのかしら。

 彼女は気が重くなってしまい、完全に手紙を書く気をなくして文机に伏せた。もともと、そう気は進まなかったのだが。貴賓の女君になるのには、とても時間がかかりそうだ。それに、当分兄さまには会えないのだろうな、と彼女は残念だった。大人になるって、忙しくなることなのだもの、と。

 しかし、その予想は外れる。数日ののち、彼は彼女に会いにやってきた。

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