二 光芒(1)

 物心ついたころには彼女は大きく豪奢だけれど物寂しい邸宅のなかで、自分が異質な存在であることを悟っていた。

 母は優しい。

 乳母めのとも。

 誰もかも分を弁え、己に相応しく振る舞う毎日に嘘はなかった、と彼女はのちに思った。表面を穏やかに何事もないよう取り繕う日々。それが間違っているとは彼女には思えない……。成人したあと、彼女もそうやって生きていくことを選んだのだから。

 ただ、彼らが覆い隠そうとしていた真実がという存在でさえなければ。

 はじめはごく小さな違和感だった。他人に指摘されるまでもなく彼女にとって母親は年老いすぎていた。幼児の知見でも高齢で子を孕む女がいることは聞いている。女房や下女たちのなかにそういう親がいることも知っていた。

 それにしても、だ。

 彼女の母は、四十を何年も過ぎてから末娘である彼女を儲けたことになる。不可能ではない。前例もある。けれども不自然だった。

 不合理や矛盾を内包したまま、ないもの、として時を過ごす。現実が押し合いせめぎ合うことで砕けた違和感は日常の空気に混じり合って蔀戸しとみどや障子の隙間に挟まっては、思い出したようにぎすぎすと遠慮のない音を立てる。その音を耳にすると彼女は心配で、不安で、助けを呼びたくなった。

 私は、ここにいてもいいの。いるべき子どもなの?

 けれども、形にならない疑いを説明することはできない。彼女の心は、悲鳴を上げる寸前だった。

 助けてくれる人は、いる。

 彼女には。

 出会いは数年ほど前のこと。

 年上過ぎてついぞ対面の機会を持てないままだった長姉が亡くなり、屋敷全体が長く深い悲しみに包まれた。この大姫は一家に幸運をもたらした女性であり、夫や息子たちを失った母にとって心の支えでもあった。つい先日、この世に生を受けた彼女と違って、一族での歴史と重みを有した人物だったのだ。大姫の死は、昔から仕えている者たちにとっても大きな衝撃として伝わっていた。

 でも、彼女には知らないひと。わからないこと。

 そんな折り、乳母の宿下がりが重なって手薄になった周囲の隙をついて、彼女はひとり階を降りた。大胆な計画があったわけではない。人の目のないところに行きたかった……、というのは後付けであったけれども、正直なところだったろう。回りの雰囲気に息が詰まって、いっそ景色に自分を溶かして消してしまいたかったのかもしれない。あるいは、子どもらしい瞬発的な思いつきだったか。

 小さい少女が身を隠そうとすれば、邸第のなかにいくつでも場所はある。転がる鞠を追いかけていった先は彼女に都合よく人気のない一角だった。与えられたかのように、そうと望んだ通りの空間だった。少女は繁みに座り、ひとり鞠を抱える。

 母親がくれた色とりどりの絹を折り込んだ美しい球体。それは土埃で薄汚れてしまった。彼女も景観の一部に紛れることはできそうもない。所詮は、人の子どもでしかないのだから。それでも、その鞠だけは自分と同じのもののように感じられた。

「どうしたの」

 ふいに声を掛けられて彼女は全身を大きく振るわせる。聞き覚えがなかったからだ。

「きみは?」

 同じ子どもだとわかって、彼女は少し安心した。彼の心配そうな様子を見て、彼女は自分の瞳に涙が浮かんでいることに気付く。その事実に驚いて、彼女は首を振った。違う。悲しいのではない。

「泣いてる」

「違う、の」

 彼女は急ぎ袖で目尻をこすったものの、それは大きな過ちだった。端に付いたゴミが入ってしまったせいで彼女は顔を顰めた。少年は、ダメだよ、と笑って半尻の懐から紙を出して一枚丁寧に折って渡した。

 綺麗な懐紙で目尻を拭うと、汚れはすぐに取れた。

「どうしたの」

 少年は再び聞いた。

「寂しいの?」

 真っ直ぐな言葉に彼女は思わず、こっくりと頷いていた。稚拙さを嗤う気配はなかった。彼は、そう、と答えて彼女の脇に腰を下ろす。

「あなたは?」

 今度は彼女が尋ねた。

「ぼくは……、きみの兄上のようなもの、かなあ」

 変なの。彼女がほんの少し唇を尖らせたのを見とがめて、彼はその頬を突いた。

「だって、ぼくの方が大きいじゃん」

 それはそうだった。

「それに、ぼくたち、似てるし」

 彼女は首を傾げた。そうだろうか? 自分の顔など、まだしげしげと眺める年ごろではない。でも、彼の佇まいはイヤではなかった。

「もう、寂しくないよ」

 確信をもって彼は告げる。どうして、と彼女は口を開きかけたが。

「ぼくがいるよ」

 彼女は目を見開いた。どうして? しかし、出たのは別の言葉だった。

「ずっと?」

 うん、と彼は笑って答えた。それから邸内に迷い入った小犬を見つけて、ふたりと一匹で遊んだ。彼は女房たちが気付く前にいなくなってしまったが、その後もしばしば彼女に会いに来た。

 どこから来たのかわからない。誰なのかも教えてくれない。だから、彼女は長いこと、彼は亡くなったお父さまが仏様にお願いして送ってくれた童子なのだ、と信じていた。

 そんな夢物語が起きるはずもなく……。

 蓋を開けてみればどうということはない、彼は母の孫、彼女にとっては四番目の兄の息子だったのだ。ごっこ遊びの兄と妹ではない、叔母と甥の関係だった。もっとも彼女の周囲に限らず、同世代の甥や姪は珍しい話ではない。

 彼女にとっては何者でも構わない。彼は安らぎだった。大人ばかりの邸宅で、どこか肌寒い風の吹く家庭にあって、彼は彼女を子どもに戻してくれた。それは、彼自身、早く成人することを周囲に望まれているためでもあった。

 成長につれ、彼女は自分を悩ませているのがどうやら父親の行いにあったようだと自覚するようになった。彼女の父で彼の祖父、藤原伊尹という人はふたりが生まれたころに亡くなっている。一条摂政とも呼ばれていた人と対面した記憶はない。彼は生まれたばかりのころに会ったというが、やはり覚えてはいなかった。母の恵子女王は「とても華やかで、何をしても人より優れていた……、立派な人だったのですよ」と努めて夫のよい面を強調する。そうやって気を遣っても、そのうちには雑音も入ってくるものだ。なにしろわざわざ自分の和歌をひとつにまとめているほどに行状を隠す気はなく、過去の恋であってもまだ忘却の彼方にはない。さすがに末娘の目に触れさせるのは早いと禁止されているものの、断片的な内容なら自然と伝わっていった。

 それによれば、父は女性関係の派手な人だったようだ。

 貴族に生まれた以上、子孫を多く持つことは責任でもある。教えられなくても、彼女もわかっていた……、だからこそ、ごく幼いころから身のうちに宿っていた、形のない不安は段々とはっきりした形をなしていく。

 その、最後の確証が、数日前に与えられた。

 みなが嫌がるからと飼うことはできない白犬のまろは、建前上「勝手に出入りしている」ことで黙認されている。犬の穢を心配するのは当然のことだ。けれども、彼女たちが可愛がるので、母たちもあからさまに追い出すことは避けてくれた。彼女は、その日、乳母子めのとご真朱まそほに無理を言って身代わりをさせると、近ごろ見かけないまろの姿を求めて部屋を抜け出した。床下にいるのか、とも思ったのだけれど、すでに暮れ始めていたので下に降りてまではできなかった。もっとも、そういう時刻だったから、人目を避けることもできたのだった。

 ふだんは行かない北の対に繋がる渡戸わたどのまで行ったとき、彼女は下女たちが雑談するところに行き会った。もっと北には、日常の雑事をする雑舎がある。そこから出てきて何かを噂しているところだった。彼女が聞き耳を立てたのは、まろの話をしているかもしれないと考えたからだ。

 見つかったら、女房たちに報告されてしまう。彼女は慎重に息を潜めた。母は優しい人ではあるものの行儀作法にはひどく厳しい。一条摂政家の姫として相応しくない探索行などがバレたら、当然強い叱責を受けるはずだった。

 女たちから洩れ聞いた話は犬のことを彼女に忘れさせた。反面、やっぱり、という思いもあった。

 彼女は茫然としたまま部屋に戻り、返事もそこそこに真朱と入れ替わると、夜着を被って寝具の間で丸くなる。やっぱり。彼女は耳を塞いだ。とっくに何も聞こえていなかったけれども。

 新顔らしい下女が昔話をしていた。

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