一 曙光
長いこと、その幼子は世間から守り隠されていた。親というには年を取り過ぎている母は
「世の中の怖ろしいものから貴女を匿っておきたいのです。大きくなって丈夫になったら、孫の君たちにお会いしましょうね」
と娘に言い聞かせていた。彼女は弱くも病気がちでもなかったが、たおやかな母の口ぶりを疑う理由はなく……。不審を感じるほど大人でもなかった。
その時期はそろそろだ、と母は考えたらしい。これまで、乳母と乳母子のほかはごく限られた女房しか付けられていなかった彼女に、身の回りを見る者たちが新しく増やされていった。
何がふつうで、何がそうでないのか、むろん、彼女にわかるはずもないけれど、新参であっても思慮深い女房たちと異なり、まだ未熟な女童はわずかの思惑も取り繕うことができない。そのぎくしゃくした態度から、彼女は言葉にならない不安を覚えた。母を困らせたくない一心で自分を抑えていた彼女は、さらに母にとって孫にあたる男君が会いにくると聞いて、ついに耐えられなくなった。
逃げ出してしまったのだ。
恥ずかしい。
情けない。
見苦しい。
小さいなりの自尊心と良心は彼女を
いや、皆無ではなかった。
東の対、もっとも目立たない一角の床下で柱の影に蹲っていた彼女を、温かくてふわふわした毛の塊が発見した。それはクゥンと鳴いて甘えるように彼女の頬を舐めた。
「まろ」
彼は、屋敷で飼っているとも居座っているとも言い難い、微妙な関係にある白い犬だった。犬なんてすぐ仔を生むし、その辺で死んでしまうし縁起でもない、と周囲は言うけれど、彼は彼女がつらいときはすぐに気付いてやってくる。何も伝えなくても、彼女の気持ちがわかる。
まろ、おまえだったのね、と彼女は友だちを抱きしめた。ふうっと緊張がほぐれる。みなが厭う獣臭さも、不快ではない。
「見つけた」
歌うような、聞き覚えのある声だ。笑いを含んでいる。今にも、笑い声を上げそうなくらいにたっぷりと。
彼女は、ほっとして顔をあげた。彼ならここを知っていても不思議ではない。犬に妙な名前をつけたのも、彼の発案だったから。
「兄さま」
「こんなとこで、何してるの」
口調に咎める色は微塵もなく、彼も犬を挟んでその場に
気を許した相手でも自分の逃走劇は晒しづらい。彼女は言葉を濁して、もじもじとした。
「今日はお客が来るんでしょ」
さすがに仏様のお弟子はお見通しだ。
「知らない人がいやなの?」
ずばり指摘されて彼女は頷いた。それから慌てて首を振る。母の愛する孫の君が怖いなんて、とても言えない。
「おうちに人が増えて……。ざわざわしてて……」
仕方ないなあ、と彼は笑った。まだ少年だけれども、いや、少年だからなのか、彼はとても美しい人だ。
場所を変えて、彼は彼女を後ろからぎゅっと抱きしめた。身体は彼の方が大きい。ゆえに彼が兄で、彼女が妹。彼は初めて会ったとき、そう説明した。
「いつまでも、暗がりに隠れてはいられないでしょ……、大丈夫。大丈夫、ぼくが側にいるよ」
ゆっくり、ゆっくりと囁かれると、彼の言い分も信じられそうになってくる。うん、と彼女が頷くと、ちょうど犬のまろも耳をぴくっと動かして、さっとその場を離れた。半分以上野良のまろは空気の変化に敏感だ。
彼女を捜す声が近くなっている。さあ、と彼は彼女の手を取った。
「一緒に行こ?」
彼女も彼の手を握り返す。一緒なら、きっと平気。
でも、大人たちの前に出たら、兄さまは天に飛んでいってしまうのではないかしら。
何となくそう感じられて、彼女は気がかりだった。
―― 当然ながら、彼は、消えなかった。
床下から出てきたふたりを、大人たちは安堵しつつも呆れた表情で迎える。土埃を払ってもらい、並んで寝殿の階まで歩いていくと、御簾を半分上げた母が南の廂、簀子の端近までやってきているのがわかった。母のそんな振る舞いは初めてだったので、彼女は驚いた。当たり前ではあった。我が子が準備の真っ最中に抜け出したのだ。どれほど心配させたのだろうと、少女は気を落として俯いた。
「よく、見つけてくださいました」
余程安心したのだろう、彼女はうっかりとその場で声を放った。続いて我に却って側付きの女房に言付け、彼らを清めて上がらせるよう手配する。
母さまは、兄さまをご存じなの? 初対面という雰囲気ではなく、親しみのある声色に彼女は首を傾げた。
「姫さま、もうこちらへ」
手を離すよう促される。彼はきゅっと掌に力を籠めてから、彼女を乳母に送り出した。
「あの、こちらは……」
天に昇ることはない。消えたりせず、ちゃんとここにいる兄さま。この後どうなるのだろうか。余所の人なのだもの、叱られるのだろうか。やっと彼女は現実感を取り戻した。
「この方は、今日お会いになるご予定だった、御孫の君ですよ。きちんとお会いなさる前に、随分ご面倒をおかけなさいましたこと」
少しからかうように乳母は答えた。
彼女は目を丸くして彼を見やる。
「やっぱり怖い?」
彼もからかうように尋ねる。彼女は呆然とし、それから真っ赤になった。兄さまから逃げて、騒ぎを起こしてたなんて。
着替えておいで、と彼は言う。
「それから、ちゃんとお祖母さまの前でご挨拶しよう」
うん。彼女は頷く。が、思い直して、「はい」と素直に返事をした。彼は、おや? と感情を動かしたけれど、何も言わずにいた。
知らない人なんて怖い。
回りが変わってしまうのはいや。
静かで穏やかな毎日が好き。
でも、一緒なら。
彼女は乳母の肩越し、半尻姿の少年を見送る。
きっと、大丈夫。
大丈夫。
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