一一
あくる日目がさめてみると、からだじゅう痛くてたまらない。久しく
おれは新聞を丸めて庭へなげつけたが、それでもまだ気に入らなかったから、わざわざ
きょうの新聞に
それから山嵐が出頭した。山嵐の鼻にいたっては、紫色に膨張して、掘ったら中から
おれと山嵐は校長と教頭に時間の合い間をみはからって、噓のないところを一応説明した。校長と教頭はそうだろう、新聞屋が学校に恨みを抱いて、あんな記事をことさらに掲げたんだろうと論断した。赤シャツはおれらの行為を弁解しながら控え所を一人ごとに回ってあるいていた。ことに自分の弟が山嵐を誘い出したのを自分の過失であるかのごとく
帰りがけに山嵐は、君赤シャツはくさいぜ、用心しないとやられるぜと注意した。どうせくさいんだ、きょうからくさくなったんじゃなかろうと言うと、君まだ気がつかないか、きのうわざわざ、僕らを誘い出して喧嘩のなかへ、まき込んだのは策だぜと教えてくれた。なるほどそこまでは気がつかなかった。山嵐は粗暴なようだが、おれより知恵のある男だと感心した。
「ああやって喧嘩をさせておいて、すぐあとから新聞屋へ手を回してあんな記事をかかせたんだ。実に奸物だ」
「新聞までも赤シャツか。そいつは驚いた。しかし新聞が赤シャツの言うことをそうたやすく聴くかね」
「きかなくって。新聞屋に友だちがいりゃわけないさ」
「友だちがいるのかい」
「いなくてもわけないさ。噓をついて、事実これこれだと話しゃ、すぐかくさ」
「ひどいもんだな。ほんとうに赤シャツの策なら、僕らはこの事件で免職になるかもしれないね」
「わるくすると、やられるかもしれない」
「そんなら、おれはあした辞表を出してすぐ東京へ帰っちまわあ。こんな下等な所に頼んだっているのはいやだ」
「君が辞表を出したって、赤シャツは困らない」
「それもそうだな。どうしたら困るだろう」
「あんな奸物のやることは、なんでも証拠のあがらないように、あがらないようにと工夫するんだから、
「やっかいだな。それじゃ
「まあ、もう
「喧嘩事件は、喧嘩事件としてか」
「そうさ。こっちはこっちで向こうの急所をおさえるのさ」
「それもよかろう。おれは策略はへたなんだから、万事よろしく頼む。いざとなればなんでもする」
おれと山嵐はこれで分かれた。赤シャツがはたして山嵐の推察どおりをやったのなら、実にひどいやつだ。とうてい知恵比べで勝てるやつではない。どうしても腕力でなくちゃだめだ。なるほど世界に戦争は絶えないわけだ。個人でも、とどのつまりは腕力だ。
あくる日、新聞のくるのを待ちかねて、ひらいて見ると、正誤どころか取消しも見えない。学校へ行って狸に催促すると、あしたぐらい出すでしょうと言う。あしたになって六号活字で小さく取消しが出た。しかし新聞屋のほうで正誤はむろんしておらない。また校長に談判すると、あれより手続きのしようはないのだという答だ。校長なんて狸のような顔をして、いやにフロックばっているが存外無勢力なものだ。虚偽の記事を掲げた田舎新聞一つあやまらせることができない。あんまり腹がたったから、それじゃ
それから三日ばかりして、ある日の午後、山嵐が憤然とやって来て、いよいよ時機が来た、おれは例の計画を断行するつもりだと言うから、そうかそれじゃおれもやろうと、即座に一味徒党に加盟した。ところが山嵐が、君はよすほうがよかろうと首を傾けた。なぜと聞くと君は校長に呼ばれて辞表を出せと言われたかと尋ねるから、いや言われない。君は? ときき返すと、きょう校長室で、まことに気の毒だけれども、事情やむをえんから処決してくれと言われたとのことだ。
「そんな裁判はないぜ。狸はおおかた腹鼓をたたきすぎて、胃の位置が転倒したんだ。君とおれは、いっしょに、祝勝会へ出てさ、いっしょに高知のぴかぴか踊りを見てさ、いっしょに喧嘩をとめにはいったんじゃないか。辞表を出せというなら公平に両方に出せと言うがいい。なんで田舎の学校はそう理屈がわからないんだろう。じれったいな」
「それが赤シャツの
「おれだって赤シャツと両立するものか。害にならないと思うなんてなまいきだ」
「君はあまり単純すぎるから、置いたって、どうでもごまかされると考えてるのさ」
「なお悪いや。だれが両立してやるものか」
「それにせんだって古賀が去ってから、まだ後任が事故のために到着しないだろう。そのうえに君と僕を同時に追い出しちゃ、生徒の時間にあきができて、授業にさしつかえるからな」
「それじゃおれを
あくる日おれは学校へ出て校長室へはいって談判を始めた。
「なんで私に辞表を出せと言わないんですか」
「へえ?」と狸はあっけにとられている。
「堀田には出せ、私には出さないでいいと言う法がありますか」
「それは学校のほうの都合で……」
「その都合が間違ってまさあ。私が出さなくってすむなら堀田だって、出す必要はないでしょう」
「その辺は説明ができかねますが──堀田君は去られてもやむをえんのですが、あなたは辞表をお出しになる必要を認めませんから」
なるほど狸だ、要領を得ないことばかり並べて、しかも落ち付きはらってる。おれはしようがないから、
「それじゃ私も辞表を出しましょう。堀田君一人辞職させて、私が安閑として、とどまっていられると思っていらっしゃるかもしれないが、私にはそんな不人情なことはできません」
「それは困る。堀田も去りあなたも去ったら、学校の数学の授業がまるでできなくなってしまうから……」
「できなくなっても私の知ったことじゃありません」
「君そうわがままを言うものじゃない、少しは学校の事情も察してくれなくっちゃ困る。それに、来てから
「履歴なんかかまうもんですか、履歴より義理が大切です」
「そりゃごもっとも──君の言うところはいちいちごもっともだが、わたしの言うほうも少しは察してください。君がぜひ辞職すると言うなら辞職されてもいいから、代わりのあるまでどうかやってもらいたい。とにかく、うちでもう一ペん考え直してみてください」
考え直すって、直しようのない明々白々たる理由だが、狸が
山嵐に狸と談判した模様を話したら、おおかたそんなことだろうと思った。辞表のことはいざとなるまでそのままにしておいてもさしつかえあるまいとの話だったから、山嵐の言うとおりにした。どうも山嵐のほうがおれよりも利口らしいから万事山嵐の忠告に従うことにした。
山嵐はいよいよ辞表を出して、職員一同に告別の
「今夜七時半ごろあの小鈴という芸者が角屋へはいった」
「赤シャツといっしょか」
「いいや」
「それじゃだめだ」
「芸者は二人づれだが、──どうも有望らしい」
「どうして」
「どうしてって、ああいうずるいやつだから、芸者を先へよこして、あとから忍んでくるかもしれない」
「そうかもしれない。もう九時だろう」
「今九時十二分ばかりだ」と帯のあいだからニッケル製の時計を出して見ながら言ったが「おいランプを消せ、障子へ二つ坊主頭が写ってはおかしい。
おれは
「おい来るだろうかな。今夜来なければ僕はもういやだぜ」
「おれは銭のつづくかぎりやるんだ」
「銭っていくらあるんだい」
「きょうまでで八日分五円六十銭払った。いつ飛び出しても都合のいいように毎晩勘定するんだ」
「それは手回しがいい。宿屋で驚いてるだろう」
「宿屋はいいが、気が放せないから困る」
「その代わり昼寝をするだろう」
「昼寝はするが、外出ができないんで窮屈でたまらない」
「天誅も骨が折れるな。これで
「なに今夜はきっとくるよ。──おい見ろ見ろ」と小声になったから、おれは思わずどきりとした。黒い帽子をいただいた男が、角屋のガス燈を下から見上げたまま暗い方へ通り過ぎた。違っている。おやおやと思った。そのうち帳場の時計が遠慮もなく十時を打った。今夜もとうとうだめらしい。
世間はだいぶ静かになった。遊郭で鳴らす太鼓が手に取るように聞こえる。月が
「もう大丈夫ですね。じゃまものは追っ払ったから」まさしく野だの声である。「強がるばかりで策がないから、しようがない」これは赤シャツだ。「あの男もべらんめえに似ていますね。あのべらんめえときたら、勇み
「おい」
「おい」
「来たぜ」
「とうとう来た」
「これでようやく安心した」
「野だの畜生、おれのことを勇み肌の坊っちゃんだと抜かしゃがった」
「じゃまものというのは、おれのことだぜ。失敬千万な」
おれと山嵐は二人の帰路を要撃しなければならない。しかし二人はいつ出て来るか見当がつかない。山嵐は下へ行って今夜ことによると夜なかに用事があって出るかもしれないから、出られるようにしておいてくれと頼んできた。今思うと、よく宿のものが承知したものだ。たいていなら泥棒と間違えられるところだ。
赤シャツの来るのを待ち受けたのはつらかったが、出て来るのをじっとして待ってるのはなおつらい。寝るわけにはゆかないし、始終障子の
角屋から出る二人の影を見るやいなや、おれと山嵐はすぐあとをつけた。一番汽車はまだないから、二人とも城下まであるかなければならない。
「教頭の職をもってるものがなんで角屋へ行って泊まった」と山嵐はすぐなじりかけた。
「教頭は角屋へ泊まってわるいという規則がありますか」と赤シャツは依然として丁寧な言葉を使ってる。顔の色は少々蒼い。
「取締り上不都合だから、
おれが玉子をたたきつけているうち、山嵐と赤シャツはまだ談判最中である。
「芸者を連れて僕が宿屋へ泊まったという証拠がありますか」
「
「ごまかす必要はない。僕は吉川君と二人で泊まったのである。芸者が宵にはいろうが、はいるまいが、僕の知ったことではない」
「だまれ」と山嵐は
「無法でたくさんだ」とまたぽかりとなぐる。「貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ、こたえないんだ」とぽかぽかなぐる。おれも同時に野だをさんざんにたたきすえた。しまいには二人とも杉の
「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだなぐってやる」とぽかんぽかんと
「貴様らは奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これにこりて以来つつしむがいい。いくら言葉巧みに弁解が立っても正義は許さんぞ」と山嵐が言ったら両人ともだまっていた。ことによると口をきくのが退儀なのかもしれない。
「おれは逃げも隠れもせん。今夜五時までは浜の港屋にいる。用があるなら巡査なりなんなり、よこせ」と山嵐が言うから、おれも「おれも逃げも隠れもしないぞ。堀田と同じ所に待ってるから警察へ訴えたければ、かってに訴えろ」と言って、二人してすたすたあるきだした。
おれが下宿へ帰ったのは七時少しまえである。部屋へはいるとすぐ荷作りを始めたら、婆さんが驚いて、どうおしるのぞなもしと聞いた。お婆さん、東京へ行って奥さんを連れてくるんだと答えて勘定をすまして、すぐ汽車へ乗って浜へ来て港屋へ着くと、山嵐は二階で寝ていた。おれはさっそく辞表を書こうと思ったが、なんと書いていいかわからないから、私儀都合これあり辞職の上東京へ帰り申し
汽船は夜六時の出帆である。山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寝込んで目がさめたら、午後二時であった。下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。「赤シャツも野だも訴えなかったなあ」と二人で大きに笑った。
その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく
清のことを話すのを忘れていた。──おれが東京へ着いて下宿へも行かず、
その
(明治三十九・四・一)
坊っちゃん 夏目漱石/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official
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