一一

 あくる日目がさめてみると、からだじゅう痛くてたまらない。久しくけんをしつけなかったから、こんなにこたえるんだろう。これじゃあんまり自慢もできないと床の中で考えていると、ばあさんが四国新聞を持って来てまくらもとへ置いてくれた。実は新聞を見るのも退儀なんだが、男がこれしきのことにへこたれてしようがあるものかとむりに腹ばいになって、寝ながら、二ページをあけて見ると驚いた。きのうの喧嘩がちゃんと出ている。喧嘩の出ているのは驚かないのだが、中学の教師堀田某と、近ごろ東京から赴任したなまいきなる某とが、順良なる生徒を使そうしてこの騒動を喚起せるのみならず、両人は現場にあって生徒を指揮したるうえ、みだりに師範生に向かって暴行をほしいままにしたりと書いて、次にこんな意見が付記してある。本県の中学はせきより善良温順の気風をもって全国のせんぼうするところなりしが、軽薄なる二じゆのためにわが校の特権をそんせられて、この不面目を全市に受けたる以上は、吾人は奮然としてたってその責任を問わざるをえず。吾人は信ず、吾人が手を下すまえに、当局者は相当の処分をこの無頼漢のうえに加えて、彼らをして再び教育界に足を入るる余地なからしむることを。そうして一字ごとにみんな黒点を加えて、おきゆうをすえたつもりでいる。おれは床の中、くそでもくらえと言いながら、むっくり飛び起きた。不思議なことに今までからだの関節ふしぶしが非常に痛かったのが、飛び起きると同時に忘れたように軽くなった。

 おれは新聞を丸めて庭へなげつけたが、それでもまだ気に入らなかったから、わざわざこうへ持って行ってすててきた。新聞なんてむやみな噓をつくもんだ。世の中に何がいちばんを吹くといって、新聞ほどの法螺吹きはあるまい。おれの言ってしかるべきことをみんな向こうで並べていやがる。それに近ごろ東京から赴任したなまいきな某とはなんだ。天下に某という名前の人があるか。考えてみろ。これでもれっきとした姓もあり名もあるんだ。系図が見たけりゃ、だのまんじゆう以来の先祖を一人残らず拝ましてやらあ。──顔を洗ったら、ほつペたが急に痛くなった。婆さんに鏡をかせと言ったら、けさの新聞をお見たかなもしと聞く。読んで後架へすててきた。ほしけりゃ拾って来いと言ったら、驚いて引き下がった。鏡で顔を見るときのうと同じように傷がついている。これでも大事な顔だ、顔へ傷までつけられたうえへなまいきなる某などと、某呼ばわりをされればたくさんだ。

 きょうの新聞にへきえきして学校を休んだなどと言われちゃ一生の名折れだから、飯を食っていの一号に出頭した。出てくるやつも、出てくるやつもおれの顔を見て笑っている。何がおかしいんだ。貴様たちにこしらえてもらった顔じゃあるまいし。そのうち、野だが出てきて、いやきのうはお手柄で、──名誉の御負傷でげすか、と送別会の時になぐった返報と心得たのか、いやにひやかしたから、よけいなことを言わずに絵筆でもなめていろと言ってやった。するとこりゃ恐れ入りやした。しかしさぞお痛いことでげしょうと言うから、痛かろうが、痛くなかろうがおれのつらだ。貴様の世話になるもんかとどなりつけてやったら、向こう側の自席へ着いて、やっぱりおれの顔を見て、隣の歴史の教師と何かないしょ話をして笑っている。

 それから山嵐が出頭した。山嵐の鼻にいたっては、紫色に膨張して、掘ったら中からうみが出そうに見える。うぬぼれのせいか、おれの顔よりよっぽど手ひどくやられている。おれと山嵐は机を並べて、隣同志の近しい仲で、おまけにその机がの戸口から真正面にあるんだから運がわるい。妙な顔が二つかたまっている。ほかのやつは退屈にさえなるときっとこっちばかり見る。とんだことでと口で言うが、心のうちではこのばかがと思ってるに相違ない。それでなければああいうふうにささやき合ってはくすくす笑うわけがない。教場へ出ると生徒は拍手をもって迎えた。先生万歳と言うものが二、三人あった。景気がいいんだか、ばかにされてるんだかわからない。おれと山嵐がこんなに注意のしようてんとなってるなかに、赤シャツばかりは平常のとおりそばへ来て、どうもとんだ災難でした。僕は君らに対してお気の毒でなりません。新聞の記事は校長とも相談して、正誤を申し込む手続きにしておいたから、心配しなくてもいい。僕の弟が堀田君を誘いに行ったから、こんなことが起こったので、僕は実に申し訳がない。それでこの件についてはあくまで尽力するつもりだから、どうかあしからず、などと半分謝罪的な言葉を並べている。校長は三時間目に校長室から出て来て、困ったことを新聞がかきだしましたね。むずかしくならなければいいがと多少心配そうにみえた。おれには心配なんかない、先で免職をするなら、免職されるまえに辞表を出してしまうだけだ。しかし自分がわるくないのにこっちから身を引くのは法螺吹きの新聞屋をますます増長させるわけだから、新聞屋を正誤させて、おれが意地にも務めるのが順当だと考えた。帰りがけに新聞屋に談判に行こうと思ったが、学校から取消しの手続きはしたと言うから、やめた。

 おれと山嵐は校長と教頭に時間の合い間をみはからって、噓のないところを一応説明した。校長と教頭はそうだろう、新聞屋が学校に恨みを抱いて、あんな記事をことさらに掲げたんだろうと論断した。赤シャツはおれらの行為を弁解しながら控え所を一人ごとに回ってあるいていた。ことに自分の弟が山嵐を誘い出したのを自分の過失であるかのごとくふいちようしていた。みんなはまったく新聞屋がわるい、けしからん、両君は実に災難だと言った。

 帰りがけに山嵐は、君赤シャツはくさいぜ、用心しないとやられるぜと注意した。どうせくさいんだ、きょうからくさくなったんじゃなかろうと言うと、君まだ気がつかないか、きのうわざわざ、僕らを誘い出して喧嘩のなかへ、まき込んだのは策だぜと教えてくれた。なるほどそこまでは気がつかなかった。山嵐は粗暴なようだが、おれより知恵のある男だと感心した。

 「ああやって喧嘩をさせておいて、すぐあとから新聞屋へ手を回してあんな記事をかかせたんだ。実に奸物だ」

 「新聞までも赤シャツか。そいつは驚いた。しかし新聞が赤シャツの言うことをそうたやすく聴くかね」

 「きかなくって。新聞屋に友だちがいりゃわけないさ」

 「友だちがいるのかい」

 「いなくてもわけないさ。噓をついて、事実これこれだと話しゃ、すぐかくさ」

 「ひどいもんだな。ほんとうに赤シャツの策なら、僕らはこの事件で免職になるかもしれないね」

 「わるくすると、やられるかもしれない」

 「そんなら、おれはあした辞表を出してすぐ東京へ帰っちまわあ。こんな下等な所に頼んだっているのはいやだ」

 「君が辞表を出したって、赤シャツは困らない」

 「それもそうだな。どうしたら困るだろう」

 「あんな奸物のやることは、なんでも証拠のあがらないように、あがらないようにと工夫するんだから、はんばくするのはむずかしいね」

 「やっかいだな。それじゃぬれぎぬを着るんだね。おもしろくもない。天道是か非かだ」

 「まあ、もう三日さんち様子を見ようじゃないか。それでいよいよとなったら、温泉の町で取って抑えるよりしかたがないだろう」

 「喧嘩事件は、喧嘩事件としてか」

 「そうさ。こっちはこっちで向こうの急所をおさえるのさ」

 「それもよかろう。おれは策略はへたなんだから、万事よろしく頼む。いざとなればなんでもする」

 おれと山嵐はこれで分かれた。赤シャツがはたして山嵐の推察どおりをやったのなら、実にひどいやつだ。とうてい知恵比べで勝てるやつではない。どうしても腕力でなくちゃだめだ。なるほど世界に戦争は絶えないわけだ。個人でも、とどのつまりは腕力だ。

 あくる日、新聞のくるのを待ちかねて、ひらいて見ると、正誤どころか取消しも見えない。学校へ行って狸に催促すると、あしたぐらい出すでしょうと言う。あしたになって六号活字で小さく取消しが出た。しかし新聞屋のほうで正誤はむろんしておらない。また校長に談判すると、あれより手続きのしようはないのだという答だ。校長なんて狸のような顔をして、いやにフロックばっているが存外無勢力なものだ。虚偽の記事を掲げた田舎新聞一つあやまらせることができない。あんまり腹がたったから、それじゃわたしが一人で行って主筆に談判すると言ったら、それはいかん、君が談判すればまたわるくちを書かれるばかりだ。つまり新聞屋にかかれたことは、うそにせよ、本当にせよ、つまりどうすることもできないものだ。あきらめるよりほかにしかたがないと、坊主の説教じみた説諭を加えた。新聞がそんなものなら、一日も早くぶっつぶしてしまったほうが、われわれの利益だろう。新聞にかかれるのと、泥鼈すつぽんに食いつかれるとが似たり寄ったりだとはこんにちただいま狸の説明によってはじめて承知つかまつった。

 それから三日ばかりして、ある日の午後、山嵐が憤然とやって来て、いよいよ時機が来た、おれは例の計画を断行するつもりだと言うから、そうかそれじゃおれもやろうと、即座に一味徒党に加盟した。ところが山嵐が、君はよすほうがよかろうと首を傾けた。なぜと聞くと君は校長に呼ばれて辞表を出せと言われたかと尋ねるから、いや言われない。君は? ときき返すと、きょう校長室で、まことに気の毒だけれども、事情やむをえんから処決してくれと言われたとのことだ。

 「そんな裁判はないぜ。狸はおおかた腹鼓をたたきすぎて、胃の位置が転倒したんだ。君とおれは、いっしょに、祝勝会へ出てさ、いっしょに高知のぴかぴか踊りを見てさ、いっしょに喧嘩をとめにはいったんじゃないか。辞表を出せというなら公平に両方に出せと言うがいい。なんで田舎の学校はそう理屈がわからないんだろう。じれったいな」

 「それが赤シャツのさしがねだよ。おれと赤シャツとは今までのゆきがかり上とうてい両立しない人間だが、君のほうは今のとおり置いても害にならないと思ってるんだ」

 「おれだって赤シャツと両立するものか。害にならないと思うなんてなまいきだ」

 「君はあまり単純すぎるから、置いたって、どうでもごまかされると考えてるのさ」

 「なお悪いや。だれが両立してやるものか」

 「それにせんだって古賀が去ってから、まだ後任が事故のために到着しないだろう。そのうえに君と僕を同時に追い出しちゃ、生徒の時間にあきができて、授業にさしつかえるからな」

 「それじゃおれをあいのくさびに一席伺わせる気なんだな。こんちきしょう、だれがその手に乗るものか」

 あくる日おれは学校へ出て校長室へはいって談判を始めた。

 「なんで私に辞表を出せと言わないんですか」

 「へえ?」と狸はあっけにとられている。

 「堀田には出せ、私には出さないでいいと言う法がありますか」

 「それは学校のほうの都合で……」

 「その都合が間違ってまさあ。私が出さなくってすむなら堀田だって、出す必要はないでしょう」

 「その辺は説明ができかねますが──堀田君は去られてもやむをえんのですが、あなたは辞表をお出しになる必要を認めませんから」

 なるほど狸だ、要領を得ないことばかり並べて、しかも落ち付きはらってる。おれはしようがないから、

 「それじゃ私も辞表を出しましょう。堀田君一人辞職させて、私が安閑として、とどまっていられると思っていらっしゃるかもしれないが、私にはそんな不人情なことはできません」

 「それは困る。堀田も去りあなたも去ったら、学校の数学の授業がまるでできなくなってしまうから……」

 「できなくなっても私の知ったことじゃありません」

 「君そうわがままを言うものじゃない、少しは学校の事情も察してくれなくっちゃ困る。それに、来てからひとつきたつかたたないのに辞職したというと、君の将来の履歴に関係するから、その辺も少しは考えたらいいでしょう」

 「履歴なんかかまうもんですか、履歴より義理が大切です」

 「そりゃごもっとも──君の言うところはいちいちごもっともだが、わたしの言うほうも少しは察してください。君がぜひ辞職すると言うなら辞職されてもいいから、代わりのあるまでどうかやってもらいたい。とにかく、うちでもう一ペん考え直してみてください」

 考え直すって、直しようのない明々白々たる理由だが、狸があおくなったり、赤くなったりして、かわいそうになったからひとまず考え直すこととして引き下がった。赤シャツには口もきかなかった。どうせやっつけるならかためて、うんとやっつけるほうがいい。

 山嵐に狸と談判した模様を話したら、おおかたそんなことだろうと思った。辞表のことはいざとなるまでそのままにしておいてもさしつかえあるまいとの話だったから、山嵐の言うとおりにした。どうも山嵐のほうがおれよりも利口らしいから万事山嵐の忠告に従うことにした。

 山嵐はいよいよ辞表を出して、職員一同に告別のあいさつをして浜の港屋まで下ったが、人に知れないように引き返して、温泉の町の枡屋の表二階へひそんで、障子へ穴をあけてのぞきだした。これを知ってるものはおればかりだろう。赤シャツが忍んで来ればどうせ夜だ。しかもよいの口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎにきまってる。最初のふたばんはおれも十一時ごろまで張番をしたが、赤シャツの影も見えない。三日目には九時から十時半までのぞいたがやはりだめだ。だめを踏んで夜なかに下宿へ帰るほどばかげたことはない。五日ごんちすると、うちの婆さんが少々心配を始めて、奥さんのおありるのに、夜遊びはおやめたがええぞなもしと忠告した。そんな夜遊びとは夜遊びが違う。こっちのは天に代わってちゆうりくを加える夜遊びだ。とはいうものの一週間も通って、少しもげんが見えないと、いやになるもんだ。おれはせっかちな性分だから、熱心になると徹夜でもして仕事をするが、その代わりなんによらず長持ちのしたためしがない。いかにてんちゆうとうでも飽きることに変わりはない。むいには少々いやになって、なのにはもう休もうかと思った。そこへゆくと山嵐はがんなものだ。宵から十二時過ぎまでは目を障子へつけて、角屋の丸ぼやのガス燈の下をにらめっきりである。おれが行くときょうはなんにん客があって、泊りがなんにん、女がなんにんといろいろな統計を示すのには驚いた。どうも来ないようじゃないかと言うと、うん、たしかに来るはずだがと時々腕組をしてため息をつく。かわいそうに、もし赤シャツがここへ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯天誅を加えることはできないのである。

 ようには七時ごろから下宿を出て、まずゆるりと湯にはいって、それから町で鶏卵を八つ買った。これは下宿の婆さんのいもめに応ずる策である。その玉子を四つずつ左右のたもとへ入れて、例のあかぬぐいを肩に乗せて、ふところをしながら、枡屋の楷子はしごだんを登って山嵐の座敷の障子をあけると、おい有望有望とてんのような顔は急に活気を呈した。ゆうべまでは少しふさぎの気味で、はたで見ているおれさえ、陰気くさいと思ったくらいだが、この顔色を見たら、おれも急にうれしくなって、なにも聞かないさきから、愉快愉快と言った。

 「今夜七時半ごろあの小鈴という芸者が角屋へはいった」

 「赤シャツといっしょか」

 「いいや」

 「それじゃだめだ」

 「芸者は二人づれだが、──どうも有望らしい」

 「どうして」

 「どうしてって、ああいうずるいやつだから、芸者を先へよこして、あとから忍んでくるかもしれない」

 「そうかもしれない。もう九時だろう」

 「今九時十二分ばかりだ」と帯のあいだからニッケル製の時計を出して見ながら言ったが「おいランプを消せ、障子へ二つ坊主頭が写ってはおかしい。きつねはすぐ疑ぐるから」

 おれはいつかんばりの机の上にあった置きランプをふっと吹きけした。星明かりで障子だけは少々あかるい。月はまだ出ていない。おれと山嵐は一生懸命に障子へかおをつけて、息をこらしている。チーンと九時半の柱時計が鳴った。

 「おい来るだろうかな。今夜来なければ僕はもういやだぜ」

 「おれは銭のつづくかぎりやるんだ」

 「銭っていくらあるんだい」

 「きょうまでで八日分五円六十銭払った。いつ飛び出しても都合のいいように毎晩勘定するんだ」

 「それは手回しがいい。宿屋で驚いてるだろう」

 「宿屋はいいが、気が放せないから困る」

 「その代わり昼寝をするだろう」

 「昼寝はするが、外出ができないんで窮屈でたまらない」

 「天誅も骨が折れるな。これでてんもうかいかいにしてもらしちまったり、なんかしちゃ、つまらないぜ」

 「なに今夜はきっとくるよ。──おい見ろ見ろ」と小声になったから、おれは思わずどきりとした。黒い帽子をいただいた男が、角屋のガス燈を下から見上げたまま暗い方へ通り過ぎた。違っている。おやおやと思った。そのうち帳場の時計が遠慮もなく十時を打った。今夜もとうとうだめらしい。

 世間はだいぶ静かになった。遊郭で鳴らす太鼓が手に取るように聞こえる。月が温泉の山の後ろからのっと顔を出した。往来はあかるい。すると、しもの方から人声が聞こえだした。窓から首を出すわけにはゆかないから、姿をつきとめることはできないが、だんだん近づいて来る模様だ。からんからんと駒下駄を引きずる音がする。目を斜めにするとやっと二人の影法師が見えるくらいに近づいた。

 「もう大丈夫ですね。じゃまものは追っ払ったから」まさしく野だの声である。「強がるばかりで策がないから、しようがない」これは赤シャツだ。「あの男もべらんめえに似ていますね。あのべらんめえときたら、勇みはだの坊っちゃんだからあいきようがありますよ」「増給がいやだの辞表が出したいのって、ありゃどうしても神経に異状があるに相違ない」おれは窓をあけて、二階から飛び下りて、思うさまぶちのめしてやろうと思ったが、やっとのことでしんぼうした。二人はハハハハと笑いながら、ガス燈の下をくぐって、角屋の中へはいった。

 「おい」

 「おい」

 「来たぜ」

 「とうとう来た」

 「これでようやく安心した」

 「野だの畜生、おれのことを勇み肌の坊っちゃんだと抜かしゃがった」

 「じゃまものというのは、おれのことだぜ。失敬千万な」

 おれと山嵐は二人の帰路を要撃しなければならない。しかし二人はいつ出て来るか見当がつかない。山嵐は下へ行って今夜ことによると夜なかに用事があって出るかもしれないから、出られるようにしておいてくれと頼んできた。今思うと、よく宿のものが承知したものだ。たいていなら泥棒と間違えられるところだ。

 赤シャツの来るのを待ち受けたのはつらかったが、出て来るのをじっとして待ってるのはなおつらい。寝るわけにはゆかないし、始終障子のすきからにらめているのもつらいし、どうもこうも心が落ち付かなくって、これほど難儀な思いをしたことはいまだにない。いっそのこと角屋へ踏み込んで現場を取っておさえようとほつしたが、山嵐は一ごんにして、おれの申し出をしりぞけた。自分どもが今時分飛び込んだって、乱暴者だといって途中でさえぎられる。訳を話して面会を求めればいないと逃げるか別室へ案内をする。不用意のところへ踏み込めると仮定したところで何十とある座敷のどこにいるかわかるものではない、退屈でも出るのを待つよりほかに策はないと言うから、ようやくのことでとうとう朝の五時まで我慢した。

 角屋から出る二人の影を見るやいなや、おれと山嵐はすぐあとをつけた。一番汽車はまだないから、二人とも城下まであるかなければならない。温泉の町をはずれると一丁ばかりの杉並木があって左右は田圃たんぼになる。それを通りこすとここかしこにわらぶきがあって、はたけの中を一筋に城下まで通る土手へ出る。町さえはずれれば、どこで追いついてもかまわないが、なるべくなら、人家のない、杉並木でつらまえてやろうと、見えがくれについて来た。町をはずれると急にかけ足の姿勢で、はやてのように後ろから、追いついた。何が来たかと驚いてふり向くやつを待てと言って肩に手をかけた。野だはろうばいの気味で逃げだそうというけしきだったから、おれが前へ回って行手をふさいでしまった。

 「教頭の職をもってるものがなんで角屋へ行って泊まった」と山嵐はすぐなじりかけた。

 「教頭は角屋へ泊まってわるいという規則がありますか」と赤シャツは依然として丁寧な言葉を使ってる。顔の色は少々蒼い。

 「取締り上不都合だから、蕎麦そばや団子屋へさえはいっていかんと、いうくらい謹直な人が、なぜ芸者といっしょに宿屋へとまりこんだ」野だは隙を見ては逃げだそうとするからおれはすぐ前に立ちふさがって「べらんめえの坊っちゃんたなんだ」とどなりつけたら、「いえ君のことを言ったんじゃないんです、まったくないんです」とてつめんに言い訳がましいことをぬかした。おれはこの時気がついてみたら、両手で自分のたもとを握ってる。追っかける時に袂の中の卵がぶらぶらして困るから、両手で握りながら来たのである。おれはいきなり袂へ手を入れて、玉子を二つ取り出して、やっと言いながら、野だのつらへたたきつけた。玉子がぐちゃりと割れて鼻の先からがだらだら流れだした。野だはよっぽど仰天したものとみえて、わっと言いながら、しりちをついて、助けてくれと言った。おれは食うために玉子は買ったが、ぶつけるために袂へ入れてるわけではない。ただかんしやくのあまりに、ついぶつけるともなしにぶつけてしまったのだ。しかし野だが尻持ちを突いたところを見てはじめて、おれの成功したことに気がついたから、こん畜生、こん畜生と言いながら残る六つをむちゃくちゃにたたきつけたら、野だは顔じゅう黄色になった。

 おれが玉子をたたきつけているうち、山嵐と赤シャツはまだ談判最中である。

 「芸者を連れて僕が宿屋へ泊まったという証拠がありますか」

 「よいに貴様のなじみの芸者が角屋へはいったのを見て言うことだ。ごまかせるものか」

 「ごまかす必要はない。僕は吉川君と二人で泊まったのである。芸者が宵にはいろうが、はいるまいが、僕の知ったことではない」

 「だまれ」と山嵐はげんこつをくらわした。赤シャツはよろよろしたが「これは乱暴だ、ろうぜきである。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」

 「無法でたくさんだ」とまたぽかりとなぐる。「貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ、こたえないんだ」とぽかぽかなぐる。おれも同時に野だをさんざんにたたきすえた。しまいには二人とも杉のかたにうずくまって動けないのか、目がちらちらするのか逃げようともしない。

 「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだなぐってやる」とぽかんぽかんと両人ふたりでなぐったら「もうたくさんだ」と言った。野だに「貴様もたくさんか」と聞いたら「むろんたくさんだ」と答えた。

 「貴様らは奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これにこりて以来つつしむがいい。いくら言葉巧みに弁解が立っても正義は許さんぞ」と山嵐が言ったら両人ともだまっていた。ことによると口をきくのが退儀なのかもしれない。

 「おれは逃げも隠れもせん。今夜五時までは浜の港屋にいる。用があるなら巡査なりなんなり、よこせ」と山嵐が言うから、おれも「おれも逃げも隠れもしないぞ。堀田と同じ所に待ってるから警察へ訴えたければ、かってに訴えろ」と言って、二人してすたすたあるきだした。

 おれが下宿へ帰ったのは七時少しまえである。部屋へはいるとすぐ荷作りを始めたら、婆さんが驚いて、どうおしるのぞなもしと聞いた。お婆さん、東京へ行って奥さんを連れてくるんだと答えて勘定をすまして、すぐ汽車へ乗って浜へ来て港屋へ着くと、山嵐は二階で寝ていた。おれはさっそく辞表を書こうと思ったが、なんと書いていいかわからないから、私儀都合これあり辞職の上東京へ帰り申しそろにつきさよう御承知くだされたく候以上とかいて校長あてにして郵便で出した。

 汽船は夜六時の出帆である。山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寝込んで目がさめたら、午後二時であった。下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。「赤シャツも野だも訴えなかったなあ」と二人で大きに笑った。

 その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやくしやへ出たような気がした。山嵐とはすぐ分かれたぎりきょうまで会う機会がない。

 清のことを話すのを忘れていた。──おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄かばんをさげたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊ちゃん、よくまあ、早く帰って来てくださったと涙をぽたぽたと落とした。おれもあまりうれしかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと言った。

 そのある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関つきの家でなくってもしごく満足の様子であったが気の毒なことに今年の二月肺炎にかかって死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃんしようだから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へめてください。お墓の中で坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと言った。だから清の墓は日向びなたの養源寺にある。

(明治三十九・四・一)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

坊っちゃん 夏目漱石/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ