第39話 呪法
松岡は、苦し気に歪むリンドウの横顔を、ただ黙って見つめる。
姫夜村は、カフェオレを一口
「怨みは土地に、そして水中に沈むのよ。それが国体を呪う。歴史が長くなればなるほど国の抱える怨みは増す。怨みは内外から中央に向けて蓄積される。支配して国内に取り込んだ民からの怨みも、決して消えることはない。そんな中、名乗りを上げて世に出てしまった者はね、その名において怨みを集める事になるの。それは、藤堂氏も例外じゃないわ」
びゅう、と外で強い風が吹き、がたがたと窓をゆらした。
「
店内に立ち込める無音が、重い。
リンドウは、震える吐息を吐きだすように、唇を開いた。
「どうして……その、その人は、そんな、藤堂の身を危険に
奥さん、とは言いたくなかった。
久芳さん、と、名前も呼びたくなかった。
「わからないわ」
姫夜村は頭をふる。そして、
「ただ、彼女が津藩で命を
ぎり、とリンドウの胃の腑が痛みで
「徳川家康の死と時期が重なった事も確かにあるわ。でもね、彼は側室と実子と共に江戸にいた。そして彼女の死を看取ったのが、貴女のお母さま、
と、続けた。
伏し目がちに俯いた姫夜村の顔を、カウンターの内側から畔柳が黙って見つめている。
「子を為す事もなく、ひとり取り残された病身の女が、遠くの地で他の女と子と共に、忠誠を誓った主の下で出世街道まっしぐらしていく夫に対して、何をどう思うかなんて知れたものじゃない? 内助の功で尽くした挙句、男の視界から消された女が、男の受けるべき恨みの報いを収集できれば――まあ、私なら還るべき場所に還してあげようかなって思うわよ、正直」
姫夜村の含みのありすぎる言葉に、リンドウは歯噛みした。
聞きたくなかった。
考えたくなかった。
藤堂の来し方とその人生には、確かに妻があり、側室があり、子があった。動かしがたい過去に向けて、自分の覚えている事が嫉妬であると理解しているからこそ、リンドウは苦しかった。
久芳という人が生きた人生に対してリンドウが思うのは、藤堂の妻として生きられた女性への
苦く重い空気が店内に沈み切った頃合いに、「さて」と姫夜村が顔を上げた。
「じゃ、そろそろ本題に入りましょうか」
姫夜村の、気を取り直させるような明るくからりと乾いた声に、リンドウも表を上げた。
そうだ。話を進めねば。
「今回の私の
リンドウが首肯すると、姫夜村は両手をカウンターの上で組み合わせて畔柳に視線を向けた。
「彼氏とデートとかじゃないから」
「わかってますよ。冗談が過ぎました」
「よろしい」
ふん、と鼻息ひとつを発した後、姫夜村はリンドウ、並びに松岡の方へ僅かに身体を向け直した。
「これまで長らくコダマノツラネは
「「伊勢」の方が、どうして今更になって……」
「それは勿論、是が非でも藤堂氏に貴方の伴侶になってもらって「神」を産んでもらいたいからよ」
直截な言葉に、リンドウは言葉を失った。
「彼の身に危険が及ぶ事は「伊勢」の本懐の害になる。だから、リンドウさん。貴女が生まれて以来、「伊勢」はコダマノツラネを洗い続けてきたの」
「藤堂を、護るために、ということですか」
「そうよ」
「――あの、それは」
「うん」
「もし、法則が崩れていなかったとしたら……」
「それは間違いなく」と松岡が声を発した。「逆に藤堂氏を消すためにコダマノツラネを利用した事だろうな」
つまり、場合によっては「伊勢」は敵たりえたわけだ、と、そう考えて、リンドウは胴震いした。この本音は、決して口から出してはならないものだ。藤堂を害するものが敵だと認識するならば、それ即ち保の与するものを敵と認識することを意味する。
ふいと湧き上がった自身の本音の残酷さに、リンドウは震えたのだ。
そんな内心を知ってか知らずか、姫夜村が「リンドウさん」と呼ばわる。
「
「取りこぼし……?」
「ええ」と姫夜村は首肯する。
「コダマノツラネでも、藤堂に向けられた怨みの全てを回収できたわけではないのよ」
「あっ……」
当然あり得た話に思い至らなかった事に、リンドウは息を吞んだ。
「私達でも、土地や物に込められた怨みを抜いて散らす
「そういう事、でしたか」
「そして、それでも間に合いそうにないと判断した玄武様が、「伊勢」の方諸共憎念を抑え込むべく、但馬に向かわれたというわけ」
「それで――玄武様も不在になさっていたのですね」
「あら、気付いていた?」
「――
「あらあら、ほんとよく働くことね、あの子」
「釘を刺しに来てるんですよ。勝手に動く事なかれって。蛇女の主な仕事は保の監視ですから」
「まあ、そういうことでしょうね」
肩を
「リンドウさん、貴女「伊勢」の方と面識は?」
リンドウは「ありません」と
「そう、では、この名前ではどうかしら」
姫夜村があたりをキョロキョロと見回す。その手元にすかさず畔柳がメモ帳とペンを差し出した。
「本当に、師匠の思考を読んででもいるようだな。忠実なる弟子よ」
と、松岡が突っ込むのに畔柳はしれっとした顔のまま答えもしない。リンドウが苦笑していると、姫夜村はペンのキャップを外し、さらさらと何かを書きつけた。そして、「これが「伊勢」の正式な名前」とリンドウの前に書き付けたものを差し出す。
その文字を見た途端、リンドウの顔色が変わった。
姫夜村の目が、じっとリンドウを見据える。
「――伊勢の『
雪々と戀々 珠邑ミト @mitotamamura
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