各務さん帰る

きうり

各務さん帰る

 各務さん以上に、慈善家や篤志家という名称が似合う人を僕は知らない。

 職業は弁護士で、敬虔なクリスチャン。文筆業もしている。若い頃に親から莫大な遺産を受け継いだものの、ボランティア活動や寄付でほとんどを消費した。老境に達した現在でも、収入のうち、最低限の生活費以外は何かしらの基金に寄付するそうだ。

 その各務さんが、死の淵から生還した。大病を患ったのだ。かつて彼に世話になった僕は、一報を受けて病院へ向かった。ベッドの上の各務さんは、以前より少し痩せていたものの、変わらず元気そうだった。

「医者によると、ほとんど奇跡の生還だったらしい。担ぎ込まれた時は、家族と親戚一同にすぐ連絡を取らなくちゃいけない状態だったそうだ」

 各務さんは、搬送された時のことをそう話した。そしてこう付け加えた。

「人間、こういう目に遭うと、いろいろ思わずにはいられないね。昔のことを思い返したり……」

 昔のこと? 僕は聞き返した。すると意外な言葉が返ってきた。

「そうだ。若い頃にしでかした悪行とか」

 僕は驚いた。清廉潔白の固まりのような各務さんが、悪行だって? 一瞬、冗談かと思ったがそうではないようだ。彼は身を乗り出して言った。

「曾我くん、ひとつ頼まれてくれないか。五番街に、マリと呼ばれている女がいるはず。彼女がどうしているか、確認してきてほしい」

 思いも寄らない依頼だったが、恩人の頼みでは仕方がない。僕はその女の本名と、住所などの情報を与えられて五番街へ向かった。

 調べるのはそう難しくなかった。数日経って、僕は再び病院へ足を運んだ。各務さんに報告するためだ。

「調べてきましたよ、各務さん」

 だが、報告する僕の口調は、自然と問い詰めるようなものになっていた。

「一体どういうことですか? マリは確かに五番街にいた。……だがそれは何十年も前の話だ。聞けば、もうこの女は亡くなっているというじゃありませんか。しかも当時の貴方の不実が原因だったそうですね」

 各務さんは、目を閉じてその報告を聞いている。僕は続けた。

「どうして、彼女が今どうしているか――なんて調べさせたんですか? 貴方も、マリが死んでいることは知っていたはずです」

 すると、彼は黙って窓の外を観た。そしてゆっくり答えた。

「奇跡は起きている。そう思ったんだ。私が奇跡で生還できたのだから、……それなら彼女もまた蘇っているのではないか、とね。神の公正さを、どうやら私は信じていたらしい」

 僕は絶句した。

 あらゆる弱い立場の人たちに手を差し伸べてきた、クリスチャンの篤志家――。各務さんにとって、恩寵とはあくまでも公平であるべきものだったのだろう。彼の今までの実践こそが、その信念の表れであり、同時に神への祈りだったに違いない。だが彼は今や、命を救われたのと引き換えに、神に見捨てられたのである。

 僕の脳裏を、十字架に張り付けにされたあの聖者の最期の言葉がよぎる。祈り続けるしかありませんよ――という言葉が喉元まで出かかって、言うべきかどうかちょっと困った。


(おしまい)

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各務さん帰る きうり @cucumber1234

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