74 医師クリストフ・ロートナー ーエリーダ

 クリストフがクラカライン屋敷を訪れるのはもう何回目だろう?

 当然毎日のように通い詰めるわけにもいかず決して多くはないけれど、少し慣れて緊張も解けてきていた……はずだった。

 だがこの日は、なぜか初めて訪れたあの夜以上に緊張していた。


「ここが領主様のお屋敷なんだ!」


 クラカライン家の屋敷は騎士団の隊舎や宿舎と同じウィルライト城内にあるとは言え、城自体が広大な上、クラカライン屋敷周辺は禁足地である。

 屋敷を取り囲む広い庭ですら不用意に立ち入ることは許されない。

 クリストフの助手として採用されてまだひと月ほどしか経っていないエリーダは、初めて見るその壮大な屋敷を診てはしゃぐ。


 そう、今日は助手として一緒に来ているのはグリエルではない。

 彼女は知人と会う約束があるとかで、元々この日は休みを取っていた。

 だからクリストフは一人で往診にいくつもりだったのだが、どこで聞きつけたのか、エリーダが一緒に行くと言いだしたのである。


 もちろんクリストフは断った。

 だがエリーダはついていくと言い張って聞かず、タイミング悪く、そこに迎えの馬車が到着してしまった。

 いつものようにマントで全身を覆い、フードを被って顔を隠した男が迎えに来たが、馬車を降りた男はクリストフとエリーダのやり取りを黙って見ていた。

 状況を理解していないのか、それとも口出しをするつもりがないのか。

 いずれにしてもなにもするつもりはないらしく、クリストフを馬車に促すことすらせず黙って突っ立っているのである。

 それこそ置物のようにじっとして。

 どうやら二人のやり取りに決着がつくまでそうして待っているつもりらしい。


 だが相手は領主である。

 迎えに来ているのは屋敷の使用人だが、往診依頼は領主から出されているもの。

 診察に領主が立ち会うことはないけれど、あまり待たせるわけにもいかない。

 そのためクリストフが折れてエリーダを連れて行くことになったのだが、馬車に乗り込むエリーダを見ても男はなにも言わなかった。


 男にとっては、クリストフが助手に誰を連れて行こうと関係ないのだろう。

 それこそ助手を連れず一人でもなにも言わなかったに違いない。

 逆にエリーダのほうが男を見て眉をひそめる。


「まさかと思うけど、魔術師?」

「エリーダ」


 静かにするように言うクリストフを無視してエリーダは続けた。


「え? 先生、本当に魔術師ですか?

 どうして魔術師団が一緒に?」


 魔術師といえば神官か魔術師団、それが一般的に知られている組織なのだろう。

 しかも魔術師団は騎士団と同じ城の中に拠点を構えているため、エリーダは魔術師団を口にしたのかもしれない。

 行き先を知らないままついて行くことを主張したエリーダは、どうして魔術師が同乗しているのか不思議でならないらしい。

 だが狭い車内、向かいにすわる男は終始無言のまま馬車を走らせた。

 そうして着いたクラカライン屋敷を前に、初めて見るエリーダははしゃぐ。


「こっちのほうに来たのは初めて。

 本当にお城の中って広いんですね」

「エリーダ、頼むから静かにしてくれ」

「ひょっとして領主様に会えたりするっ?

 え? あたし、まだ領主様見たことないんだけど、初めて会えちゃったりする?

 ね? どうなんですか、先生。

 ひょっとして先生はもう会ったことあるんですか?」

「エリーダ、頼むからおとなしくしていてくれ」


 興奮しているエリーダは早口にまくし立てるばかりで、少しもクリストフの話を聞こうとしない。

 それどころか診察鞄も持たず、なにをしに来たのかもわからない有様である。

 いつものように屋敷内に通されたクリストフとエリーダだが、初日の夜以来、真っ直ぐあの子どものいる部屋に通されていたのが、この日はまた、初日と同じあの窓のない狭い部屋に通された。


 古い屋敷は驚くくらい人気がなく昼間でもひっそりとしており、最初ははしゃいでいたエリーダもさすがに気味が悪くなったのか、廊下を進むにつれ口数が少なくなる。

 さらには窓のない狭い部屋に案内されると黙り込んだ。


「先生?」


 相変わらず重い診療鞄をクリストフに持たせたままのエリーダは、部屋を見渡しながらも怯えたようにクリストフにすがりつく。

 この時にエリーダは、クリストフの腕を自分の胸に押しつける。

 無意識なのか故意なのかわからないが、気味の悪さを覚えたクリストフはさりげなく腕を抜き取っておく。


 馬車で迎えに着たマントの男は玄関でいなくなり、玄関まで迎えに出て来た別の男がここまでを案内し、今も扉の横に控えるように立っている。

 柔らかい金色の髪をした若い男で、整ったその顔を見た瞬間にエリーダが嬉しそうに 「うそ、好み」 と呟いたのをクリストフは聞き逃さなかった。

 とても静かな屋敷なので、ひょっとしたら男にも聞こえていたかもしれない。

 だが男はなんの反応も見せず 「どうぞ、こちらへ」 と穏やかにクリストフとエリーダの足を促し、窓のない部屋に案内したのである。

 そして今も扉の横に黙って立っている。


 少ししてこの屋敷の使用人頭しようにんがしらがやって来て、クリストフとグリエルがそうしたように誓約書に署名をさせられる。

 もちろんエリーダだけ。

 すでにクリストフは署名をしているため必要ないのだが、知らないはずのエリーダは特に気もすることもなかったのだが、ろくろく読みもせずに署名をしようとしてクリストフを慌てさせる。


「だって先生、こんな細かい文字読んでられません」

「駄目だ、ちゃんと読みなさい。

 そこには……」

「大丈夫、大丈夫、先生ってば心配性なんですから。

 だってただの往診でしょ?」


 何が問題なのかわからない……と笑うエリーダに、クリストフは不安を覚える。

 けれど改めて説き伏せようとする前にエリーダはさらさらと署名してしまった。


(なんてことをっ!)


 辛うじて声に出すのは堪えたクリストフだったが、エリーダの愚行はこれだけに留まらなかった。

 このあと使用人頭は誓約書を持って退室し、残ったクリストフとエリーダは戸口に立っていたエリーダ好みの男の案内でいつもの部屋に向かう。

 そのあいだも終始そわそわしていたエリーダだったが、気づいているのかいないのか、案内する男は足を止めることもなければ振り返りもせず、黙々といつもの部屋へと二人を案内する。


「なに、この臭い?」


 案内された部屋に、そこはかとなく漂う異臭は薬の臭いである。

 少しずつ熱は下がってきているものの、患者の子どもは寝たきりでほとんど食事も摂れていない状態である。

 そのためにわざわざ町で材料を調達して作った滋養の薬である。


 なにしろ普段クリストフが相手にしているのは筋肉馬鹿の異名を持つ騎士たち。

 討伐による大怪我を負ってさえ彼らの食欲が減退することはないため、まずは必要のないものだった。

 瘴気に当てられて体が衰弱してさえ……いや、元が頑健すぎて多少衰弱しても食欲が減退することがない。

 そのため騎士団の医務室にはないもので、エリーダは初めて嗅ぐ臭いだったらしい。


 クリストフも町で医者をしていた頃は常に用意していたが、騎士団に来て以来作っていなかったから、久しぶりに嗅いだ臭いに鼻を摘まんでしまったほどである。

 ただこの部屋は換気がよくされているのか、思ったほど臭いがこもっていない。

 それをしているところをクリストフは見たことはないけれど、おそらく魔術師が効率よく換気をしているのだろう。

 そうでなく締め切ったままならばこれほど薄くなることはない。

 それほどあの丸薬の臭いは酷いものである。


 それこそ鼻が慣れてしまえば気づかないのではないかと思えるほど薄らいだ臭いに、エリーダだけが鼻を押さえ周囲を見回す。

 すでにクリストフは何度も来ているけれど、貴族の屋敷にしては、広いけれどとても質素な部屋である。


「ようこそ、ロートナー医師」

「これはリンデルト卿令嬢」


 広い部屋のほぼ中央を、カーテンを引いて寝室と居室に隔てるのは、白の領地ブランカでは一般的な貴族屋敷の造りである。

 初めてらしいエリーダは興味深そうにしきりに首を巡らせていたけれど、クリストフと挨拶をする、一見自分と歳の変わらない若い女が 「リンデルト卿令嬢」 と呼ばれたことに 「え?」 と反応する。


「リンデルト卿って、リンデルト小隊長の?」


 その驚いた顔にクリストフはうんざりする。

 現在騎士団にリンデルト卿家の人間は二人いる。

 特別顧問を務めるリンデルト卿フラスグアとその息子で、小隊を率いるリンデルト卿公子アーガンの二人。

 ここでエリーダが息子のアーガンを真っ先に思い出したのは、やはり彼女の性格だろう。


 若い男が多い騎士団で働きだしてからずっと周りからちやほやされているエリーダだが、彼女自身がお近づきになりたがっている騎士が何人かいる。

 その一人が貴族でもあるアーガン・リンデルトである。

 おまけにリンデルト小隊には騎士団有数の美形男子が揃っていることもあり、彼女はなにかとリンデルト小隊に近づきたがる。

 だが現在までまともに近づけていないのは、もう一人いるクリストフの助手グリエルの邪魔とリンデル小隊側で忌避しているかららしい。


 グリエルの邪魔はともかく、小隊側に忌避されていることには気づいていないらしいエリーダだが、たとえ気づいたところで彼女の性格である。

 気にせず接近を目論むだろう。

 そのくらい積極的に仕事も覚えてくれたらいいのだが……というのはクリストフの愚痴である。


 エリーダを一瞥したリンデルト卿家の令嬢は、すぐそばに控えている側仕えに話し掛ける。


「いつもの助手とは違うようね」

「そのようですね」


 話をする二人の視線が、人が一人通れるくらい開いたカーテンの側に、並んで立っている二人の男を見る。

 一人はクリストフとエリーダを案内してきたエリーダ好みの男だが、もう一人ははじめから部屋にいた男である。

 同じ衣装を着ているところから推測して、おそらく二人とも魔術師だろう。

 気づいていなかったエリーダは並んだ二人を見て、クリストフの腕をひじで突く。


「先生、先生、領主様のお屋敷っていい男ばっかりですね」


 それこそ顔で選んだのではないかと思わせるが、二人がクリストフの予想通り魔術師ならばそうではないはず。

 エリーダに余計なことは話さないほうがいいと思ったクリストフは、とりあえず 「エリーダ、いい加減にしなさい」 とだけ注意しておく。

 不満そうに 「はぁい」 と返事をしたエリーダは、クリストフに従って寝室の中央に置かれたベッドに近づく。

 そしてそこに眠る幼い子どもを見る。


「えっ?!

 なに? この汚い髪っ?!」

「エリーダ!」


 子どもを見て驚きの声をあげるエリーダを、それ以上に大きな声を出して窘めるクリストフ。

 チラリと背後を振り返ってみれば、二人の魔術師と側仕えは特に反応を見せなかったけれど、リンデルト卿令嬢は怒りを隠すことなくエリーダを睨んでいる。

 もちろんエリーダは気づいていない。


「手伝いをしないなら廊下で待っていなさい」

「はぁい」


 リンデルト卿家令嬢に睨まれていることは、気にしないどころか気づきもしないエリーダだが、一人で廊下に追い出されるのは嫌だったらしい。

 適当な返事をするとようやくのことでクリストフの仕事を手伝い始める。


 子どもの体調は相変わらずだった。

 熱は少しずつ下がりつつあったけれど、とにかく痩せすぎである。

 それに食事も満足に摂れていない。

 だから初めて診た時はどれほども生きられないだろうと思ったのだが、容態そのものは落ち着きつつある。

 あの酷い臭いの薬が効いているのかもしれない。


 ただ今は衰弱しきった体を自由に動かせないため、世話をされるまま飲んでいるだけかもしれない。

 だからもう少し回復したら飲むのを嫌がるかもしれないのが心配だった。

 それにどこまで回復出来るかわからない。

 あるいは生涯寝たきりになる可能性もある。

 そのくらい骨と皮ばかりに痩せた子どもは衰弱しきっていた。


 前回の診察時と比べて大きな変化はなかったけれど、急激に悪化していなかっただけいいだろう。

 用意してきた熱冷ましと眠り薬、それに滋養の丸薬をリンデルト卿令嬢の側仕えに手渡す。

 あとは片付けをして帰宅……というところでエリーダがやらかした。

 診察鞄から出したものを戻して入れ、代わりになぜか鋏を取りだしたのである。

 いつもは包帯や湿布などを切るために診察鞄に入れて持ち歩いているものだが、この往診で使う予定はない。

 それなのにエリーダは鋏を取り出したのである。


 リンデルト卿令嬢の側を離れ、クリストフのところまで薬を取りに来た側仕え。

 エリーダが診察鞄から鋏を取り出したのは調度そのタイミングである。

 側仕えと用法の確認など簡単な会話を交わしていたクリストフは、視界の隅にエリーダの手に握られた鋏を見る。


(何をするつもりだ?)


 そう思って焦った時には、眠る子どもの髪の一房を手に取ったエリーダは、躊躇うことなく鋏で切り取ったのである。


「な……!」


 思いもよらないエリーダの行動に思わず声をあげるクリストフ。

 だがエリーダは、驚きのあまり言葉が続かないクリストフを見てこんなことを言い出したのである。


「ちょっと先生、この紐で括ってくれます?

 片手だとうまく結べなくて……ああ、こんなことなら切る前に結んでおけばよかったわ」


 片手に切り取った子どもの黒髪を持つエリーダは、もう一方の手に持っていた鋏を置いて、代わりに診察鞄に入っていた紐を持って両手をクリストフに差し出す。


「……にを、しているんだ?」

「なにって、珍しい髪色だからみんなに見せてあげようと思って」


 楽しそうに笑いながらそう答えるエリーダは、クリストフに早く結んで欲しいと急かす。

 こんなことをしてただで済むわけがないと焦り驚くクリストフだが、なにかを言う前に割り込む声があった。


「残念ながら、それは出来ません」


 大きな手が黒髪を握るエリーダの手首をつかむ。

 クリストフとエリーダとほぼ同時に見上げると、カーテンのそばに立っていたはずの魔術師だった。

 一人はクリストフとエリーダのあいだに割り込むようにたってエリーダの手を掴み、もう一人はエリーダの背後に立っている。


「いつのまに……?」


 あとで落ち着いて考えれば、エリーダの思わぬ行動に驚くあまり気づかなかっただけかもしれない。

 だがこの時は冷静さを失っており、突然の接近に驚きを隠せない。

 エリーダも同じく突然のことに驚いていたが、やがておずおずと魔術師の男に話し掛ける。


「あの、痛いので放してもらってもいいですか?」

「それも出来ません」

「出来ないって……」


 魔術師の男は感情のこもらない声で答える。

 困ったエリーダは自力で振りほどこうと腕に力を入れるが、男の手はビクともしない。

 見たところ細見の優男だが意外に力はあるらしい。


「あの! ほんとに痛いから放して!」

「出来ません」


 さすがにエリーダもなにか気づいたらしい。

 声を張り上げるが、魔術師の男は感情のこもらない声で繰り返す。

 ついにはもう一方の手に持っていた紐を捨ててまで男の手を振りほどこうとするエリーダだが、やはり魔術師の男はビクともしない。


「先生、なんとかして!

 助けて!」

「助けてって……」


 リンデルト卿家令嬢の側仕えと薬のやり取りをしていた状態で固まっていたクリストフも、助けを求められても困る。

 それでも一応、話し掛けてみる。


「大変申し訳ございません。

 とりあえずその手を放していただけませんか?」


 顔を強ばらせながらもぎこちなく魔術師の男に話し掛ける。

 可能な限り冷静を装って。

 だがやはり魔術師の男は感情のこもらない声で返してくる。


「どうぞ、ロートナー医師はそのままで」

「此度の件について、ロートナー医師の責任は問われないでしょう」


 もう一人の、エリーダのうしろに立った魔術師の男も言い出す。


「責任って……」

「すぐに別の者が参りますので、このままこちらのお部屋でお待ちください。

 お見送りさせていただきます」


 ハッとしたクリストフは駄目だとわかっていながらも男たちに尋ねてしまう。


「エリーダはっ?

 彼女はどうなるんですかっ?!」

「あなたがそれを訊いてどうなさるんですか?」

「あなたにはなにも出来ません。

 無駄なことはせず、今日はおとなしくお帰りください」

「次の診察は予定どおり三日後、よろしくお願いいたします」


 男たちは話しながらエリーダの手から黒髪を取り返す。

 そしていつものように恭しくクリストフにお辞儀をすると、抵抗するエリーダを部屋の外に連れ出す。


「やめて! 放して!

 どこに連れて行くのよっ?

 先生! 先生、助けて!」


 そんなエリーダの声が廊下を遠ざかってゆく。

 やがて聞こえなくなると、リンデルト卿家令嬢が小さく息を吐く。

 そしてうつむき加減に呟く。


「なんて愚かなことを……」

「お嬢様」


 薬を受け取った侍女が側に戻り、気遣うように声を掛ける。


「大丈夫よ。

 わたくしたちが罰されることはないけれど……そうね、閣下に嫌味の一つも言われるかもしれないわね。

 でも大丈夫よ」


 そう言うとクリストフを見る。


「わたくしにはなにも出来ません。

 クラカライン家の決定です、わたくしにはなにも出来ません。

 ですが先程の者が申しましたとおり、ロートナー医師にも責任を問われることはないでしょう。

 これまでどおり、お勤めに励まれますように」


 重い沈黙が室内を淀ませる中、ほどなくして三人目の男が現われる。

 先程の二人と同じ衣装を着た男で、雰囲気も似ている。

 おそらくこの男も魔術だろう。

 部屋に入ってくると、静かにクリストフに頭を下げる。


「お待たせいたしました、どうぞこちらへ。

 ご案内いたします」



【側仕えウルリヒの呟き】

「思いもかけず面白いものが手に入った。

 さて、これをどう使ったものか?

 まずは旦那様に知られぬようにせねば……」

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円環の聖女と黒の秘密 藤瀬京祥 @syo-getu

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